王様と愛人と父王と
「軽々しく扱われてはおらんようだな」
それが、きらきらしい王子の姿を見た父王の第一声だった。
「……………………ええ、まぁ、一応」
レゴラスはしばしの沈黙に、いえなかった百万言の報告を飲み込んで、結果、曖昧に笑って誤魔化した。
「王の愛人にされただのドワーフの妻を娶っただのと、あまりにもかんばしくない噂ばかりが聞こえて来るが。そなた一体、ゴンドールで何をしておったのだ。帰って来いと命じても一向に帰る気配はなし。兵を進めて迎えに来てやっと、この有り様よ」
どうしてそんなピンポイントに真実に近い噂がしっかり伝わっているんだろう、と冷汗をかきつつ煮え切らない返答を寄越す。
「イシリアンの復興に何かと忙しかったもので……」
「そのように立派な装束をまとえるほどに復興しているなら、問題はあるまい」
父王の言葉はまことにごもっともと言うほかなく、レゴラスは斜め後ろで馬を進めたまま沈黙した。
「レゴラス」
斜め前を、前を向いて馬を進めたまま振り返らぬ父王は息子を呼ぶ。
「はい」
「そなた、我が森を避けておるな」
「え、…そんなことありませんよ、いやだなぁ父上」
一瞬の沈黙を隠そうと、敢えて朗らかにレゴラスは言ってみた。
露骨に嘘くさいレゴラスの言葉にも、スランドゥイル王の声は変わらない。淡々としたままだ。
「そなた、あのこざかしいドワーフどもと同じく、わたしを宝石に眩んだ欲ボケとでも思っておるのか」
ちょっと思っていたかもしれない、ととっさに言いかけた王子は言葉を呑み、黙って首を振った。聡いエルフの耳には聞こえる音だ。
「レゴラス」
片手が挙がり、つい、と前へ向けて軽く振られる。隣に馬を寄せろ、と命じているのだろう。レゴラスは渋々馬を進め、父の左隣へと寄せた。
同時に、従っていた貴族たちが王の傍らから馬を離す。
「そなたが森を避ける理由を当ててみせようか、小僧」
遠くシンゴルと共に暮らしたことすらあるという、レゴラスの倍以上を生きているであろう父王はゆったりと問いかけた。レゴラスが当惑の表情で黙っていると、前を向いたままおだやかに言葉を継ぐ。
「わたしが末子のそなたを溺愛し、王位を継がせようとしている……そう民が噂しているために居心地が悪い、それがひとつ。
ドワーフや人間を終生の友として愛しているがゆえに、帰ってわたしの叱責を食らうのが嫌だ、それがひとつ。
……海に遠い所に定住すると気が狂いそうな気がする、それがひとつだ」
レゴラスは言葉を失い、頭を垂れたまま沈黙した。
「愚か者め。3000にもみたぬ若僧の分際で、親であるわたしや、裂け谷の領主殿、それにロスロリアンの国王夫妻に隠し事ができると思うなよ」
嫌な情報網だなぁ、とレゴラスは心底怖気を感じて素直に謝った。
「お見それしました」
「王になるのは嫌か」
「……とても嫌です」
「ゴンドールの王が好きか」
「……とても好きです」
「はなれ山の首領とやらの子と、共におりたいか」
「……とても、」
「西へ行きたいか」
「…………とても、……とても、とても、父上…………」
手綱をきつく握りしめて、噛んだ唇から血が滴る。
闇の森が嫌いなわけではない。日毎続く宴の夜も、陽気で優しい国民(くにたみ)も、しんしんと深い緑の海も、そして、厳しくいかめしく酒好きで光物狂いの国王陛下も……レゴラスは心から愛していた。
それでも、それを遥かに上回る情熱と憧れを、
広く自由な中つ国の果てない放浪の上に、
ゴンドールの頂点に君臨する白の木の王の上に、
エルフの友と呼ばれてくれる燦光洞の領主の上に、
……鳴き交わす鴎が呼び覚ます狂熱の上に、
レゴラスは惜しみなく与えるその路を選んで、闇の森をはるか遠くの存在に変えてしまったのだった。
「息子よ」
呼ばれてとっさに顔を上げ、父を見る。
ぐいとその顎が引かれて目を見開いた時、滴った血は父王の舌と唇で拭われていた。
傷の上を――下唇を何度も舌で辿られてぐらりと身体が揺れ、手綱が手を離れる。
「レゴラス様!」
また王のお戯れだ、と大して気にも留めなかった側近たちも、レゴラスが馬から落ちかけるとなると放っておけない。馬を寄せようとして、
「騒ぐな」
こうるさげに、レゴラスの身体を軽々と己の前に乗せ替えて王は片手で手を振ってみせる。
「ち……父上?」
ぼんやりする頭を振って、己の馬に再び飛び移ろうとして、レゴラスは右脚をしっかりと踏みつけるようにして、父王が動きを禁じていることに気がついた。
「この孺子は、未だに父の膝が恋しいと見える。動こうとせん」
身動きできなくさせておいて、そんな冗談を側近へ向けて叩いた王は笑い、ぱしり、と手綱を鳴らして馬を駆けさせた。
「父上!」
「命短い人の子が、いつ痺れを切らしてそなたを迎えに来るか、賭けようかレゴラス?」
「迎えに? そんな、迎えになんて来るはずが――」
「一年以内に迎えに来なんだら、小僧、緑葉の森の次の王は、名の通り緑葉のそなたぞ」
片手で手綱を、片手でレゴラスの腰を、捕らえて王は息子の耳元で低く笑い、囁いた。
「いてもたってもいられず迎えを寄越す、もっと言えば、兵を率いて我が森に押し入る――それほどまでにそなたを必要としている者でなければ、わたしは断じてそなたを渡しはせん」
「なら、戴冠式の準備をした方が良いかもしれません」
困ったように笑って、荒々しい遊び心の過ぎる父親の、肩に頬をもたせかけてレゴラスは流れる景色を眺める。
「心底そう思っているとしたら、そなたはやはり愚か者よ」
「子は親に似るものですからね」
ホビットたちと過ごし慣れた舌はうっかりと滑り、レゴラスは「しまった」と口をつぐんだ。
おそるおそる、首をねじって、すぐ目前の父の顔を見る。
「フン」
鼻で笑って父王は、叱るように、またからかうように、眼前の息子の耳をきつく噛む。
「イッ――」
「血が出たな」
治してやろう、と言わぬばかりに舌が噛み跡の上を這い、レゴラスの身体は無意識のうちに小刻みに震えた。
「さても子は親に似るもの、さればなぁ小僧、子を知るに親に如くはなし。身も心もよ」
シンダールらしく歌うように言って父王は、同じ場所を、今度は甘くゆるく噛む。軽く跳ねた身体を捕らえたまま、
「もう一つ言おうか、恋敵を知るに恋人に如くはなし、と。人間の父親にとって最大の恋人は己が長女だそうな。裂け谷の主どのに意見を聞きたいところだが、緑の森の王の最大の恋人は、はたして……?」
「……父上。……おたわむれ、を」
「そう、これは戯れよ」
たのしげに馬を駆りながら、舌でゆっくりと、形を確認するように耳朶をたどって王は咽喉の奥で笑う。
「戯れなればこそ、確かめずにはおられぬのよ。
この父以上に、そなたを愛でる者は果たしておるかとな」
「わたしが生まれた時より変わらずに、世を遊ぶ達人ですね、あなたは」
腰を抱いたままの手に手を添えて、レゴラスはくつくつと笑い返した。
「やっぱりわたしは、あなたの子供だ。だって、わたしも結局、すべてを楽しまずにはいられないのだもの」
「それでこそあの森の子よ」
父王がはるかに指差した先には、黒き靄としか見えぬ広大な森林が広がっていた。
「大蜘蛛の傍らに在っても、宴にて笑い遊ぶが森の子よな。どこに在っても、そなたはそう在るが良い」
「はい」
「定命の子の傍らに在っても、……その死の傍らに在っても、ひととき泣けば、また、笑い騒げば良いのだ」
「……はい」
レゴラスは己から父の唇に、触れるだけの軽いくちづけを与え、人を魅了してやまぬあのかろやかな笑顔を浮かべた。
「どこに在ろうとも。嘆き終えたら、笑い騒ぎます」
「……それで良い」
馬の背に在りながら小揺るぎもせぬ父王と王子は、笑いさざめきあいくちづけあいながら、そうして馬を、緑萌える森の内へと進めていった。