王様三人と愛人と
森の中に人間が入った、という報せを、教えてくれたのは迷い込んだ一羽のヒワだった。レゴラスは跳ね起き、愛用のロリアンの大弓を引っつかんで背に矢筒を引っかけた。
一年間、従者の同行なしに森に出ることは禁じられていた。ひとりで気ままに動けぬ状況が気をくさらせ、最近は、外に出ることすら珍しくなった。どうせたった一年である。ごろごろして過ごそう、とレゴラスは思っていた。
迎えが来るなどとは、これっぽっちも思っていなかった。
レゴラスと父王スランドゥイルの交わした「約束」は、彼らふたり以外に知る者などいない。1年以内に、ゴンドール王エレスサールが焦って使いを寄越すなどということはありえなかった。
謁見の間の大扉を、力まかせに足蹴にする。すがりつく衛兵を両腕に引きずりながら、ずる、ずる、と、驚いて開かれた扉の隙間から体をねじ込んだ。
「ち、ちうえ、」
さすがにシルヴァン・エルフふたりを引きずって歩くのは至難の技らしく、レゴラスの声はぶつりぶつりと切れる。
だが、
「レゴラス殿、」
そう名を呼んだ人物は、玉座のスランドゥイルに対して、跪いてはいなかった。
「え、」
まばたきしてそれを凝視し、すぐに、目を見開いて半歩後ずさる。
「エ、エ……エオメル!?」
思わず敬称すらつけ忘れたレゴラスを、一瞥してスランドゥイルが「知り合いか」と冷えた声をかける。
「知り合いって、そりゃ、知り合いですけど……父上この方は、」
「まぁ、今は身分のことは申しますまい、レゴラス殿。今のわたしはエレスサール王の使いで参っているのですから」
「なんでローハンの国王がゴンドールの国王の使い走りをしてるんですか!」
「一度北の諸国を見てみたかったもので……」
悪びれずにぬけぬけと言うエオメルに、脱力してその場に座り込むのをこらえる。レゴラスにこんな行動を取らせる存在というのも、非常に稀有だ。
「それは冗談としても、」
丈高きエオメルは傲然とその場に立ったまま、スランドゥイル王へと向き直り、胸に手を当ててうやうやしく、典雅に一礼してみせた。しかし、決して跪こうとはしない。
片眉をわずかに上げたのみで、スランドゥイルは無反応である。
「ご子息を、人の子の元へ返していただきたく、本日は参上仕りました」
おそらく頑強に抵抗したのだろう。剽悍なる騎馬の王は、帯刀のままエルフ王の前に立っていた。そして、エルフ王もまた、玉座の前に立ったまま座りはせず、その腰には堂々たるエルフの宝剣がさがっていた。
基本的に能天気なエルフの王子さえ、「矢をつがえておいた方がいいだろうか」と真剣に悩まずにはいられないような、そんな緊張した沈黙が続く。
沈黙を破ったのは人の子の王であった。
「実は、この森の美しき方々が多く住まわれる、イシリアンの地を。闇の者の残党が襲うために集結しつつあります」
「エオメル殿、」
はっ、と胸に手を当てたレゴラスにひとつ頷いてみせ。おだやかな声を作ってエオメルは、「まだ進軍にいたってはいなかった、20日前までは」と言った。
「20日前!」
レゴラスが左手の弓を握りしめる。
「それで、」
左腰に差した大剣の柄に、左手を載せて立ったまま、スランドゥイル王は重々しく問う。
「一国の王が、友軍を救いにも行かず、この森にご注進か」
「この緑葉の森に助けを求めようなどとは、思っておりませぬ」
挑むようにエオメルは答える。
「わたしが求めるのは緑葉の中の緑葉ただひとり。
なぜならゴンドール・アルノール二国に君臨する我らが王、エレスサール・テレコンタールが求めるのも、またそれであるがゆえ」
不意にエオメルは低く笑い、レゴラスに斜めに視線を流した。馬上で猛々しく笑う王の笑顔だ。ふら、とレゴラスがそちらに一歩を踏み出す。
「レゴラス殿、わたしはあの人の心をそれなりにわかっているつもりです。
王は、己が都を空けて良いものなら間違いなく、野伏へと姿を変じてこの森へと、あなたを訪ね来たに違いない。
なぜなら彼の君は、エオウィンを通じてひそかに、わたしにこう告げたからです」
口をつぐんだエオメルの言葉の続きが聞きたいレゴラスは、「アラゴルンは何と?」ともう一歩、ふらりとエオメルに近づいた。
スランドゥイルはわずかに眼を細めたまま動かない。
「レゴラス殿、」
声を潜めたエオメルにレゴラスがもう一歩近づいた、その瞬間。
手綱さばくエオメルの手が伸びてレゴラスの腕を、力任せに引き寄せていた。
「エオメル殿、」
驚いたレゴラスがまたたけば、その体はすでにエオメルの腕の中におさまっている。
ちゃき、と冷たい感触がレゴラスの喉に押し当てられた。視界の端にわずかに映る短剣の柄。野を駆ける馬の紋章。
「上古の力未だ栄えたるエルフの王よ、あなたにわたしが及ぶなどとはとても思えない、思ったこともない。
だがわたしも一国の王だ。馬を友とし草原を駆けるマークの王だ。
余人ならともかく、その一国の王であるわたしがここまで来て頭を下げているのだ、エルフの王よ、いやとは言わさぬ。
あなたの王子は、人の子の元に返していただくぞ」
「返さぬと言わば?」
色めき立つ衛兵を、肩のわずかな動きだけで制して、動じぬ王は冷ややかに問う。
「王子は死に、わたしも死ぬだろう。そして、ゴンドール・アルノール・ローハンの三国に再び戦乱がやってくるのだ。
なぜなら我らの王エレスサールは、
『我が兄弟よ、わたしは戦うことができぬ。緑葉の森の緑葉があの強弓を携え、馬上にすがすがしくあっていくさ歌を歌わぬ限り』
とそう……わたしに伝えたのだから!」
父王はかすかに目元をゆがめてふたりを眺めている。レゴラス以外にはわからないだろう。だが、
(面白がってる場合じゃないと思うんですけど)
そう、父は楽しんでいる。
その心の奥で、岩屋を冒されたことへの不快と、こざかしい人間への興味がせめぎあっていることを、レゴラスは知っている。
「……我が息子がおらねば、いくさには勝てぬと?」
「ご子息はゴンドールの使者としてこの地に赴いたはず。
北の森の王が、王の使者を閉じ込め、留め置いているとあらば、北の森とゴンドールの間の信頼が崩れ、我らロヒアリムは北へ備え、南へと助けに動くことがかないませぬ。……と、ファラミアあたりならとうとうと述べるであろうが、」
ナイフを突きつけたまま、エオメルは肩が凝った、とでも言いたげに軽く首を回し、がらりと声の口調を変えた。
「そんなことはどうでも良い。我らはこのご子息が欲しいのだ。
エレスサール王はゴンドール一国を、ご子息の帰還に賭けている。あの王は本気だ。レゴラスが戻るまで戦端を開かず、イシリアンを見殺しにするであろうよ。もちろん、その森のすべてのエルフをもだ。
ならば景気づけにローハン一国をも上乗せしてやろうではないか。さぁ王よ、いかに。返答次第では王子の命はないぞ」
ぷつり、とレゴラスの白い喉を短剣の先が破り、深紅の滴りを鎖骨へと作る。
レゴラスは己の全身を包み込むエオメルの殺気を感じた。
殺される。
この場で父王が首をかすかでも横に振れば、この短剣は即座に自分の喉を掻き切るだろう。
父の顔を見る。
細められたままの眼の奥、針のように放たれる光。
その奥にある昂揚を見る。
(よりによって、一番けんかっぱやい人を寄越してきたもんだなぁ、アラゴルンも)
場違いな感想を抱きながらも、レゴラスは、この父王は、このぐらい簡単に命を張ってみせる人間――しかも、一国の王に相当する器量と地位の持ち主でないと、見向きもしなかったのではないか、と思わずにはいられなかった。
エルフの王のマントがかすかな衣擦れの音を立てた。
いっせいに衛兵が数歩引く。
「行きますよ、緑葉殿」
「こんなことなら、鎧とあのマントもつけておくべきだった!」
慨嘆するレゴラスを、刃を突きつけたまま引きずるエオメルは、ちゃっかり、抱いた身体を盾にして一分の隙もない。
レゴラスも、左手の弓はそのままに、右手に数本の投げ矢を隠し持ち、いざとなったら、同族殺しの罪を負ってもエオメルを助けるつもりではあった。
「鎧ぐらい我が城に腐るほど在りますから」
「ローハンの鎧は重いし金気くさいし動きにくいのだもの」
「レゴラス、」
謁見の間を飛び出す寸前に、父王が変わらぬ重い声をかける。
武器を構えたまま立ち止まるふたりに、父王は口の端で笑って尋ねた。
「次はいつ帰るのだ」
レゴラスは軽く目を見開き、それから首を動かさぬよう気をつけて、だが、小さく声を立てて笑い返す。
数秒のち、笑いおさめてレゴラスはふわりと軽やかに答えた。
「100年後か、200年後か。西の果てか」
「そうか」
頷いて父王は手を挙げ、その手をふい、と追い払うように振ってみせた。
行け、という合図だ。
「この森にて出会うことはもうあるまい」
「はい」
「父が申したこと、忘れるな」
「忘れません」
「どこにいても。笑い騒ぎ、わたしは歌うでしょう」
「それでよい」
「おさらば、父上」
謁見の間からふたりの姿は消えた。
「やれやれ、遅い巣立ちよ」
色めき立つ衛兵を手の一振りで黙らせ、王は傍らに控える近習を見下ろした。
「ローハンの北に騒ぎが起こるとなれば、東ロリアンも無事ではすむまい。さても気は進まぬが、援軍の一つでも、森境に展開してやるべきであろう」
ゆけ、と手で追い払うとまたたくまに、広間から人の姿は消える。
「……鎧とマントか」
ふと、ぽつりとつぶやいて父王はゆったりと、謁見の間の奥へと歩を進めた。