王様と舅と愛人と



「エルロンド卿、ようこそいらっしゃいました!」
相変わらず闊達な、だが決して足音をたてぬ踊るような独特の歩き方で、レゴラスが入室して来た時、エルロンドは心楽しまぬ様子を眉間の辺りに漂わせた。
「エルロンド卿?」
「レゴラス、言いたいことはいくつかあるがまず真っ先に尋ねたい。」
「はい?」
旅立ちの時と変わらぬシルヴァン・エルフの軽装。この王子だけはどこに在っても悠然として変わらない。変わらない、が、
「その奇態な臭いの元はいったい何だね? それが森のエルフの纏う香かね?」
レゴラスはパイプ草の匂いを全身からさせて入って来たのだ。
「ああ、これはわたしも少し閉口しているんですよ。何せあの小さな人たちと来たら、まるで火を噴くあの山の火口か何かのように、すごい勢いで煙を作っては吐くするんですからねぇ! 旅の仲間で、あの奇妙な風習を持たないのはボロミアとわたしだけだったんですよ!」
においますか、と、万事に無頓着なレゴラスもさすがに気にした様子で、腕を挙げて服の袖を鼻に近づけた。少し眉を寄せる。
「確かににおうかな? 鼻が麻痺してしまったのかもしれない。」
「レゴラス、君は100年ほどの間、君の森に帰り、その汚れた肺と鼻を洗濯するべきだとわたしは思うが。」
エルロンドはレゴラスから距離を取り、窓際に寄って思い切り窓を開けた。
「けれど、あなたの婿殿も吸われるのですよ。」
眉間の皺が深くなる。
「しかも口移しでわたしの肺に煙を流し込むんです。死ぬかと思いました。」
「……私の婿をここへ。」
「わたしがあなたの所へ行くと言ったら、『しばらく私は多忙になるのでお伺いするのが遅れると思うと伝えてくれ』と言われました。」
「…………相変わらず嫌味なぐらいに如才ない人間だな…………」
「は?」
「なんでもない。とにかく、今すぐ風呂に入ってその匂いを落としてきなさい。わたしはそなたとゆっくり話したいというのに、これではその匂いが気になってとても、口を開けたものではない。近づけもしないではないか。」
言ってからエルロンドは、ふと黙り込み、ややあってレゴラスを頭の先から爪先までじっくりと観察した。
「……エルロンド卿?」
「スランドゥイルの子よ、もしや私の婿は、そなたが私に逢うと知ってやたらとパイプ草をふかしたりはしなかったかね。」
「よくわかりましたね?」
「…………あの男、娘だけにとどまらず…………」
心配そうに見守るレゴラスの視線を感じながら、頭の中で数字を数えて必死に自分を落ち着ける。
こんな些細ないやがらせで所有権を主張するなど、まるで、自分の物に自分の匂いをなすりつける野の獣と同レベルの行いではないか。そう思いながらもエルロンドは、それが実に効果的な手段であることを認めざるを得なかった。
「エルロンド卿…お怒りなのですか? それともこの臭いでご気分が? いけない、すぐに落としてきますよ!」
「ああ、いや、……別にそなたを怒っているわけではない。だがそうだな、落として来てくれるとありがたい。午後の茶の時間にでも、改めて顔を合わせよう」
「わかりました」
努力してエルロンドが向けた笑みに、素直に笑み返してレゴラスはやはり、やわらかい闊達な足取りで客室を出ていった。
エルロンドはどっと溜息をついて長椅子に沈み込み、エルラダンとエルロヒアが裂け谷に帰還したその時のことを思い出した。


エルラダンとエルロヒアから、アラゴルンが無事王となると告げられて悲喜入り交じる感情にどっぷり漬かりかけた時に、恐る恐る持ち出されたとんでもない報告。
我が子のように可愛がってきたレゴラスが、よりによって、我が娘を娶るべき王の愛人になると言い出したというのだ。
(まさかそんな奇態な真似を……)
と言いかけて、レゴラスならどんな奇態な真似でもあっさりやりかねない、ということを思い出したエルロンドは、娘の婚礼であるこの機にしっかりと、真相を確かめようと決意したのだが……
(……先制攻撃かエステルめ)
これ見よがしにパイプ草の匂いをさせている――本人自覚はなかろうが――レゴラスを思い出し、予想以上に事態は深刻だと悟る。
厄介なことに、アラゴルンはレゴラスを基本的には友人として遇しており、アルウェンをこよなく、まさしく宝物のように大切に扱っており、周囲から見て間違いなく、「まぁいいかレゴラスなら子供も産まれんだろうし」ぐらいにしか思われていないに違いない。
アラゴルンは愛情の深い男だ。そして、どちらかというと多情な類に入る。多くの者を深く愛する、そういう意味では王者にふさわしい男である。そして何より、レゴラスは万事につけて飄々としており、宮中の生臭い権力闘争に関わるなどありえず、アルウェンとも仲が良い。
国王が勇士と友情に基づいた交歓を行うのはむしろ奨励されるべきことで、宮廷にアルウェンを大切に置き、戦場にレゴラスを傍らに置く、それはまったくもって、理想的な図ではあるのだけれども。


「……あの欲張りのドゥネダインめ、命短い人の種をくせをして。」
「申し訳ありませんな、義父上。」


振り返ってエルロンドはあまり好意的ではない笑みを、にやりと浮かべた。
「おや、いたのか、婿どの。」
「おりましたとも。」
開いた戸口にたたずんで、彼の婿は慇懃に一礼をしてみせる。
「レゴラスがパイプくさいと、ご不興だとか?」
「エルフにあのような匂いをさせるとは、非常識なことだとは思わんか? 我が娘にもあのような真似をしているのかね?」
「アルウェンの前では吸いませんよ。ご存知の通り、あの匂いをとても嫌うものでね。彼女の嫌うことなどわたしにできるはずがない。
 レゴラスは旅の間中ずっと一緒にいましたし、何よりドワーフもホビットもパイプ草好きでして。染みついてしまったのかもしれません」
しれっと言うアラゴルンに、エルロンドは鼻で笑うとさらりと言い返した。
「しばらく森に戻して良い空気でも吸わせてやりなさい。あちらの王がそれを望んでおられる」
「スランドゥイル王が? あの王は基本的に、レゴラスのことは放任主義で通してらっしゃったと思いましたが?」
「いくら放任主義でも、秘蔵っ子が裂け谷への使いに出ていったきり、勝手に指輪戦争に加わり、人間から領地を貰って異国に住むとなったら、さすがに一言言いたくなるものではないかな」
アラゴルンの片眉が上がる。まさか、レゴラスがいまだに、闇の森へ一言の挨拶もしていないとは思わなかったのだ。
その表情を読んでやはりな、と頷いたエルロンドは、開いた窓から外を見やり、煙の臭いのせぬ空気を吸った。
「かの王は、裂け谷にレゴラスが出立する際、一年以内に戻って来ぬようであれば挙兵すると、息子に言い置いたとか」
「挙兵!?」
「裂け谷に兵を出して、可愛い息子を取り返すと」
「……エルロンド卿、あなたという人は」
「言っておくが、」
ひどく疲れた声で、エルロンドは溜息交じりに言葉を返す。
「信用されておらぬのはわたしではなく、かの親馬鹿王の放蕩息子の方だ」
要するに、裂け谷に迷惑をかけたくなかったら、とっとと使命を果たして帰ってこい、ということなのだろう。
「レゴラスは何と?」
「忘れていた、とけろりと言ったそうだ。ぎりぎりまで引き伸ばすつもりだったのであろうな。それはこの際構わぬ」
「本当に構わないのでしょうか…」
「今更レゴラスの性根についてどうこう言ったとてはじまらん。あれはあれで良いのだ。」
親馬鹿(二人目)め、と言いたげな視線を娘婿に向けられたエルロンドは、咳払いをして視線を逸らした。
「とにかく、彼を闇の森に返して貰うぞ。約束の一年までもう間がないのだ」
「レゴラスが闇の森を出立したのは、いつのことですか?」
エルロンドは眉を寄せて、娘婿を振り返った。
今は王となったエレスサール――アラゴルンは、顎に手を当て、じっと何かを考え込んでいる。
「そなた、」
「一年後までは、わたしの手許に置いていても構わないということでしょう?」
「……それが己が妻の父に言う台詞か」
怒る気力も失せて、窓際の椅子に沈む。
額に手を当てて溜息をつくと、その傍らの机に軽く腰掛けてアラゴルンは、舅の顔を覗き込んだ。
「手は出していませんよ、エルフにそんな性急な振舞はしません」
「当たり前だ」
「あなたにだって手を出さなかったでしょう、わたしは?」
さらりと言ったアラゴルンに、愕然としてエルロンドは顔を上げる。
覗き込んだ格好のまま、アラゴルンはにっこりと笑いかけてみせた。
「本当は、アルウェンだけでなく。あなたも、レゴラスも、皆欲しいのです、わたしは欲深な人間なので」


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