王様と舅と愛人と




しばらくの沈黙が、エルロンドの咳払いの前にはあった。
そして咳払いの後には、
「……わたしは君の義父だ」
そもそもそんな問題ではない、と思いつつもしてしまった、陳腐な抵抗。まるで義父でなかったら問題はない、と言ったかのような台詞であったことに、エルロンドは直後に気づいて再び愕然とした。
この男にこういう台詞を吐かれると、まるで、その後ろに映るいくつもの、いくつもの顔に一斉に、同じ台詞を吐かれたかのような気になってしまう、それは、永くこの血を見続けてきたエルフの業なのであろうか。
アラゴルンは、何もかも見透かしたような、それでいて何もかも知らぬふりをするような、決して透明ではない、だが波立ってもいない、そんな笑みを浮かべたまま答えた。
「知っていますよ。よく知っています。最も愛する女性と結婚できて、なおかつ最も敬慕する人の息子になれた。これほどしあわせな王は、歴代にもそうはいなかったでしょう」
「……ならば、」
「でもレゴラスは手に入りません」
覗き込んでいた背筋をゆっくりと伸ばし、アラゴルンは窓の外を見る。自由な風の吹く町の景色。
「手に入らないのですよ」
「……彼は誰のものでもない。世の終わりまで、彼は彼のものなのだ。風や樹や、水や大地がそうであるように、滅ぼすことはできても、手に入れることはできない」
「しかし永遠に共にいることはできます。エルフなら。わたしにはあと何十年が残されているのでしょうか?」
エルロンドは目元を歪めた。彼は自分が説得されつつあることを感じていた。
アラゴルンは窓の外で風に舞い散る緑の葉を、正確には、その緑の葉を自由に載せて飛ぶ風を、眺めたまま言った。
「何だって良かったのです。ギムリは、燦光洞をあげると言ったらとても喜んでくれた。そしてわたしが死ぬまでそこにいてくれるでしょう。小さい人たちには、ホビット庄をあげることになるでしょう、そして、余人の立入は決してさせるまい。それが彼らの喜んでくれることだからです。
 ですがレゴラスは、何を与えても、喜びはすれ縛られはすまい。イシリアンの領主に命じたら、土地に縛られてそこに永遠にいてくれるというなら、わたしはそうしたのですよ。愛人になれなどと、言いはしなかったでしょう」
だがレゴラスは、そんなものを喜びはしなかっただろう。それはエルロンドにはよくわかった。広大な北の緑葉の森の、王位でさえ見向きもせぬあのエルフに、今更、どんな褒美で、どんな領土で首を縦に振らせることができようか。
あのエルフには、イシリアンの自治区も、ギムリが作った手作りの髪飾りも、……アラゴルンが喜びの中で与えるくちづけひとつも。何もかも同じ「嬉しい贈り物」なのに違いない。その喜びに大小はないのだ。
「しかしエルロンド卿、レゴラスはきっと、わたしが死ぬまで、その身体と操を独占させてくれと頼んだら……きっと、わたしのために、鴎の声に耐えてなお、この地に留まってはくれるでしょう。
 そしてわたしはそれでいい。……永遠など望まない。ただ、わたしが死ぬまで、留まってくれる、それだけでいいのです。いいえ、それ「だけ」などではない、それは、何と贅沢な喜びでありましょうか?」
窓の向こうから、座るエルロンドの瞳へと視線を戻し。アラゴルンはただ、おだやかに笑って、そして言った。
「だから一年きっかりまでは、彼はわたしの手許に留めます。わたしの死は近い。無論、余人に比べたらまだまだ先のことではあるのだが。
 一日とて、彼が放浪を望まぬ以上、わたしの手許から手放すことなどできないのですよ」


しばしの沈黙ののち、エルロンドはもう何度目かわからぬ溜息をつき、何か言葉を言いかけて口をつぐんだ。
それから数瞬のち、鋭敏なエルフの耳にだけ聞こえていたのであろう足音は扉の前で止まり、礼儀正しいノックが響く。
「お入り、レゴラス」
「エルロンド卿、おっしゃる通り湯浴みをしてきましたよ――――アラゴルン、いたのかい!?」
「レゴラス、エルロンド卿と午後のお茶を?」
歩み寄ってアラゴルンは気軽に、レゴラスの腰を片手で抱いて引き寄せようとする。エルロンドの眉がぴくりと動くが、レゴラスは気づいた様子もなく、そして、大して抗う様子もなく、おとなしくすっぽりとアラゴルンの腕に納まった。
まるで、それが常日頃し慣れている当たり前の所作であるかのように。
「……そなた、慣らせたな?」
いつ頃から根気良く続けてきたことなのか。エルロンドは今更ながらに、欲しいものすべてに情熱を傾けるこの王の、情の深さに呆れる想いであった。
「さて?」
アラゴルンは答えず、ただ、咽喉の奥でくつくつと笑って、目の前のレゴラスの肩に顔を押しつけた。少しだけ、泣きたい衝動にかられたのかもしれないと、エルロンドはその姿から目を背け、立ち上がった。
このいとしい馬鹿息子たちの部下に、茶の仕度を代わりに言いつけるために。


惜しくも命を落としたボロミアを除く、指輪の仲間8人に、ローハン王エオメル、ロスロリアンと裂け谷の高きエルフの君達、そして夕星王妃を加えた一行は、ミナス・ティリスからエドラスへと、非常にゆるやかに、おだやかに馬を進めたという。それは、エオルの子にしていと誉れ高きセオデン前王の骸を、護りつつの旅であったからというだけではない。


彼らは離れ難かったのである。街から街を旅する度に、ひとり、またひとりと、とわに別れを告げねばならぬ人が現れるからなのである。
ゴンドール王エレスサールはそれゆえに、ゆるゆると、ゆっくりと、馬を進め、そして、実に8月も半ば以上を過ぎた頃になってやっと……一同と別れ、己が国へと馬を返したという。


そう、風の如く自由なるエルフの王子が、大地の如く頑健なるドワーフの族長の子と共に、ひととき、遠き己の故郷へと戻らねばならぬその期限まで、王は実に、たった1ヶ月半しか残しはしなかったのであった。