さらってきた死神が口に含んだ物を見て――正確には、奪った唇に残る甘ったるさを舐め取って――、不動はその時はじめて、その日の日付を思い出した。
「……14日か」
唇を離して顔をしかめた隻眼の男を、見上げてゆっくりと死神はまたたく。
「ええ、今日は2月14日ですが。それがどうかしましたか?」
問いかけを無視して、不動は捕らえていた腰を手放し、代わりに無遠慮に、細作りの鋼の剣のような目の前の身体と、その身体を包む黒衣をまさぐった。
「無礼者め、手討ちにしてくれようぞ」とでも言いたげな目つきを、帽子のつばを下げることで隠し、至極慇懃な身振りで赤屍は、ふわり、とその手を逃れて一歩を下がる。
だがその時にはすでに、ひどく的確に彼の体を煽る右手は、死神のコートのポケットから小さな箱を抜き取っていた。
「……チョコレートがお好きで?」
真面目に驚いている様子の赤屍に、答える気にもなれず、一方的に問いを押しつける。
「どこのモノズキが、トチ狂っててめえにこんなふざけたもんを押しつけた?」
「その短い問いに、それだけ負の印象をつめこむことができるというのも、なかなか大したものですね」
容赦なく、鋼の手にぐしゃりと潰された箱を、赤屍の無機質な瞳が興味なさげに追いかける。
そしてその瞳を、10センチほど高い場所にある隻眼へ向けて言った。
「自分で買ったものですよ。味見がしたかったもので」
「……旦那だな?」
「よくわかりましたね?」
少しけだるげに笑って赤屍は、悪びれることなく肩をすくめた。
「3倍返しとやらをね、していただけるそうなのですよ。
 この日にチョコレートを贈った相手にはね」
「ふん……」
おそらくこのピュアブラックの死神の「旦那」――つまりあの度しがたく物がたい運び屋――は、忘れもせず、忘れた振りもせず、かと言って派手に気の利いた物も選ばず、無骨な田舎の陸屋らしい、野暮ったい贈り物を、うんざりするほどまともにしてやるというのだろう。
ヤクザでありながらカタギでもある、あの透明度の低い男の朴訥とした顔を思い出し、不動は軽く歯を軋らせた。
「どうしました?」
本当に無意識なのかと疑うような、そんな、甘く誘うような声で赤屍が問うてくる。
別に、と言いかけて、不動はふと、手の中でつぶれた箱に視線を落とした。
ぐしゃりとさらに引きちぎると、つや消しの金に包まれたスティック型のチョコレートが、ばらばらと路地に散らばって落ちる。
一個、金属の掌に、手袋越しに残ったのを確認すると、奇跡のような手際のよさで、無骨な義手で包装をはがした。
人差し指と中指で、それを挟んで持つと無造作に、目の前の端正な顔、その唇に押しつける。
「食いな」
一瞬、帽子の下で眉を寄せた赤屍が、唇を開いて何かを言いかけた瞬間、すかさずチョコレートを押し込んで、逆手で腰を抱き寄せる。
「何を、」
言いかけてチョコレートが口から落ちる前に、不動は一瞬前までチョコレートを持っていた手で相手の帽子を振り飛ばし、即座、がしりとその頭を鷲掴みにして噛みついた。
死神の唇の上の、不似合いに甘いチョコレートに。


今度は何のお遊びを、と緩慢に逃げようとする唇を追い、舌で相手の口の中にチョコレートを押し込んで、そのまま深くくちづける。
無頓着で怠惰な死神が、抵抗を面倒くさがっているうちに、口内を削ぎ取るように荒らしまわってから、やっと、唇と身体を離した。
「……いい加減に……」
よろけたのも一瞬、口元を拭いながらいやそうに唾を吐いて、他の男の煙草の気配を消し去ろうとする赤屍の、その癇症な潔癖さを小さく笑う。
この死神は時折、思い出したように不動との接触を嫌悪する。己の中に湧き上がる生々しさに驚くのだろう。殺人人形も、人間の身体を持っている以上、欲望というものを押し込められて生きている。不動はそれを無理矢理かきたててやるのを好んだ。
唾を吐くという行動を、どこの男が教え込んだものか、聞いてみたい気もしたが、
「ごちそうさまとでも言ってやろうか? ……これで俺も、三倍返しの権利を貰ったわけだ」
咽喉の奥で笑って、踵を返す。
吐き気を覚えるようなチョコレートの甘さを、一刻も早くかき消そうと、キャメルを口にくわえる。
火をつけた後のジッポライターの、その淫靡になめらかな金属の手触りを楽しみながら――不動は必ず、煙草の火だけは右手でつけることに決めていた――、ちらり、と振り返ると黒衣はすでに消えていた。
フン、と鼻で笑ってつぶやく。
「三倍か。さぁ、何を返す?」


無理矢理参戦したこのお遊びを、自分が一ヵ月後まで覚えているとはとても思えず……だが不動は、機嫌よく笑って裏新宿の方角へと向かうのだった。


実際、不動は覚えていなかった。自分が、その機嫌のよさの余勢を駆って、無限城の技術者に依頼をひとつしたことさえ、忘れていた。
だからその日、間抜けに薄明るい夕闇の、不夜城都市の裏路地で真闇の黒衣を発見した時、不動は、その日の持つ意味をとっさに思い出さなかった。
だが、しずしずと、帽子のつばを深く下げて歩くその姿が、
――葬式かよ。
あまりに陰鬱で鼻で笑った瞬間、そうか、と天啓のように思い出す。
だが、ホワイトデーのことなどすっかり忘れていた自分の、この生身の右手に当然、注文しておいた贈り物は携えられていない。
全身から鬼気を発しながら歩き続ける、その黒衣の10メートルほど後ろを歩きながら、携帯電話を耳にあてる。
「……例のモノはできてんだろうな?」
突然の問いにも驚く様子もなく、答えを返してくる受話器の向こうの相手に、見えずとも、ニヤリと笑い、
「てめえのことだ、自分で造った義腕の位置ぐらいお見通しだろうな? ……今すぐ寄越せ」
一方的に言って、そして通話を切るとまた、歩き出した。


不意に、すらりとした漆黒の後姿は立ち止まった。
「あなたは、尾行には向きませんね」
やんわりとそう言って、裾が揺れた、と見る間に、帽子のつばに片手で触れた姿が振り返っている。
「尾行した覚えはないな」
人通りのない裏路地に、いつしか死神は不動を誘い込んでいる。苛立っているのか、疲れているのか。霞のような殺気が、異形たる不動の眼には映っていた。左眼で生を、右眼で死を見る男の眼に、黒衣の死神はひどく朧だ。むしろ、喪われた右眼の中にこそ、死の香りを放つその姿は、あやしく息づいていた。
「……何のご用で?」
「旦那から何をもらった?」
「ご用件はそれだけですか?」
「さぞかし、かったるいモンを押しつけられたんだろうなァ?」
相手の問いをまったく聞くことなく、投げつける一言ごとに、一歩をつめる。
音もなく優雅に後ずさる赤屍は、帽子のつばに手で触れて表情を隠したままだ。だが、
「……手袋をどうした?」
猫なで声と言ってもおかしくないほどの、やんわりとした低い声。
囁くと同時に不動は、人の子を超えたその機械の左腕を伸ばし、赤屍の帽子の上の右手を掴んだ。
あっけなく赤屍の腕は離れ、同時に、帽子がもぎとられるように離れて宙を舞う。
蒼ざめた肌の死神の、そこだけ凶凶しく輝く赫瞳を覗き込んで、不動は甘やかすように囁いた。
「旦那がてめえに何をした? 真っ赤な薔薇でも贈ったか? 膝の上にてめえを載せて、猫にするように背を撫でたか……?」
甘い嘲弄に、赤屍は絶望的に冷たい赫瞳を向けたまま、一言とて話そうとはしない。
だが、獲物の腸を好んで啜る、この肉食の大型獣は、己の牙が相手の喉元に触れかかっていることを、確信した。
「……死神よォ……」
無頼を装った、その実ひどく繊細な生身の手が、手袋につつまれたまま、首筋から胸元をゆっくりとたどる。幾重もの布ごしでありながら、あるいは、だからこそ、それは奇妙に肉感的だった。人形のような、死神の身体の表面でありながら。
「こういう時のために、俺がいるんだろう……なぁ?」
手袋という防具を持たぬ、素手の死神は、黙って目の前の隻眼の獣を眺めている。だが、その中の暗い紅色は、今まさに、夜闇たる彼の領域に天が覆われようとしてなお、ますます、倦み疲れたように濃くなっていった。
「なら……」
片手を囚われたまま、徐々に壁に押しつけられながら、根負けしたようにゆっくりとひとつ、瞳の赫をまたたいた死神の囁き。
「……なら、あなたは私に何をくれると言うのですか?」
獣の牙は、死神の喉首をとらえた。



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