白灰のルナァ




見開かれた瞳の色は、病のような白灰だった。
あれと同じ色の石を、知っている――と、思い出せたのは、もっと、後になってからのことだ。
その時はただ、ひとつのことしか思いつくことができなかった。


死ぬ時も、「これ」は、こうして倒れるのだろうか――と。





悪夢に取り込まれる前の、最後の防御本能だろうか。片腕で頭を綺麗にかばって倒れた、黒衣の死神を、蛮は呆然と見下ろした。
防御本能といえば、今かけた邪眼こそが、防御本能に近かった。もともと蛮には、邪眼をかけるつもりなどなかった。ただあの瞳が――
――気持ち悪い眼ェしやがって。
己を高揚させようと、心中に毒づく。
目の色や、その異形を蔑むつもりなどはない。そんなことを持ち出してしまえば、蛇のような虹彩を持つ己の瞳こそが、恐怖と蔑視の対象となると、蛮はよく知っていた。
赤屍の、あの、眼……常に帽子を目深にかぶるその理由の一端が、あの眼にあることは想像に難くない。あの眼は魔性のものだった。ただの異形ではない。
仰向けに、糸の切れた人形のように倒れている――本当に人形のように、整った黒衣の長身。傍らに佇んで見下ろす。闇に融ける黒衣に、蒼白いシャツ、蒼白い肌、蒼白い手袋、それが、ぼんやりと発光して見えるほどにほの明るいのは、地上の百万燈篭のせいではなく……
――いやな月だぜ。
天空に、ぞっとするほど大きく映る満月が白くかかっている。この不夜城都市の上空にあるにしては、それは、今日は少し明るすぎるように思えた。それが錯覚であることを、蛮の理性は知っていた。……あくまで、理性だけは。
うつろに開かれたままの、死神の眼。
真っ黒いガリガリの虚無が住んでいるその瞳は、だが、裏腹に、黒という色と無縁だ。無縁――そう、完全なる無縁。なぜなら、この化生の瞳には黒が存在しないからだ。
白と、白灰の――瞳。
蒼みがかって見える、充血の気配もない白目の中に……あるのは、ただ、不透明な、やはり、わずかに蒼みがかった白灰の珠。虹彩が存在しないのか、虹彩の色が異常なのか、あるいは、何らかの病によるものなのか。どちらにせよ、この眼が帽子の下から覗く時の、その怖気のする薄ら寒さは想像に難くないだろう。
それは狂気を呼び込むウロだ。
蛮は傍らに片膝をついて、その瞳を覗き込む。
月光に照らされたその顔を見て、その眼が何かに似ていると、思い出せずに眉を寄せた。





契約違反の依頼人を追いつめた、廃ビルの屋上に、この死神が佇んでいるなどと、もちろん、蛮は予測していなかった。
逃げる相手を屋上まで追い上げて、屋上のドアを、その握力で鍵ごと引き開けて、……その時にはもう、遅かった。
「……これは美堂クン」
振り返るその動きにつれて、ゆらり、と黒衣の裾が凶気をはらむ。
目深にかぶられた帽子の下に、貼りついたような三日月の唇。……笑っている。
「こちらのお方は……キミのターゲットだったのですか?」
屋上は風が強い。その風にあおられてはためく黒衣の裾が、はたはたと叩いているのは、
「てめぇ……」
「死んではいませんよ。……多分ね」
なげやりに微笑みかけて、手袋をはめたままの蒼白い手が、ゆっくりと帽子のつばを下げた。足下に倒れている男には、もう、見向きもしない。
「……ナニしてやがる」
押し出すような、蛮の刺々しい声を頓着した様子もなく、死神はやんわりと笑った顔のまま、素直に答えた。
「ここは景色が良いのでね……今までも、時折待ち合わせ場所に使っていました」
「誰か来ンのかよ」
警戒の色が声に混じるが、死神は曖昧に笑った顔のままだった。
ビルを這い登った風が、重く、死神の身に叩きつけられる。凶つ鳥の黒き翼のように、裾が獰猛に膨れ上がった。気がつけば、帽子を優雅に押さえたままの闇色の影は、蛮に背を向けて佇んでいた。まるで、今飛び掛かればいつでも殺せるよ、と誘っているかのような無防備な背で。
「無限城でキミたちと仕事をした時も、綺麗な月が出ていたものです……ここに来ると、それを思い出す」
どこか夢見るような、やんわりとした声が、背を向けたままの黒衣のはためきとともに聞こえてくる。帽子が少し動いた。つばを押さえた片手をずらして、死神は月を見上げているらしい。
「……穴ボコだらけの岩の固まりだろーがよ」
蛮はあえてそう言い切り、死神の感傷を突き放した。死神は否定も肯定もせず、クス、と笑っただけだった。
「知っていますか、美堂クン。キミの言う、あの穴ボコだらけの岩の固まりは、いつも地球に同じ顔を向けているそうですよ」
肩越しに、かすかに振り返っている気配があった。
サングラスをわずかに下にずらして蛮は答える。
「公転周期と自転周期が一致してるからだろ……ガッコ行ってるガキでも知ってるこった」
「そう……地球の周りを一回転しながら、月自身も一回転するために、常に月は地球に同じ面を向けている。……ご覧なさい、美堂クン。あの、太陽の光を一身に受けた、美しい、真円の月にも……常に、地球に見せない暗黒の一面がある」
黒衣の裾は不吉にばたばたと翻りつづけている。帽子のつばが、月光から死神の端正な面を隠している。……だがわかる。笑っている。あの禍々しい笑みで唇をゆがめ、赤屍は笑っているのだ。
「月は、地球に綺麗な一面を……常に同じ、光の当たる一面だけを向けている。決して、その背後の暗黒を見せることはない。……死と闇に満ちた暗黒を見られることが、そんなに嫌なのですか?」
蛮は一瞬、その台詞の語尾を聞き逃した。その言葉は、当たり前のように蛮の脳裏を過ぎ去ってから、不意に、毒々しい赤い文字で再び脳裏に烙印された。
『そんなに≪嫌なのですか≫?』

…………誰が…………?

誰が、暗黒の面を必死に隠して、あの蒼い癒しの星に、光あたる美しい顔だけを見せていると……? 誰が、その死と闇に満ちた暗黒を忌んで、背を隠すように常に真正面を向けて横ばいに這っていると……?
「……あの月は、誰かにとてもよく似ている」
かつん。耳障りな靴の音をわざとたてて、死神が一歩、また一歩と近づいてくる。
「私は、月の裏面が見てみたい……用意された、光をいっぱいに受けた銀のやさしい面など、私には興味はないのですよ。私が見たいのは、月がひた隠しにする暗黒の闇だ。……私はそこに降り立ちたい……」
朔の夜のような、絶望的な闇を身にまとった死神が、甘く囁いて歩み寄る。……にじり寄る。悪魔が処女を騙すように。
そしてその声が、その瞳が、その歪んだ唇が、蛮が背に隠していたはずのものをかきたてる。
「……るせぇ……」
脳裏に、太陽の光がある。
癒しの、蒼い星がある。
「……ぅぅうるせええええっ!」
力任せのスネークバイトは逆袈裟の居合斬りの如く、突如放たれて死神の咽喉を狙う。
だがそれを左手で受け、容赦なく関節をへし曲げようとして、


死神の白く濁ったうつろな瞳と、蛇の王の縦に尖った紫の瞳が、火花さえ散らすと錯覚させる烈しさで、交錯したのだった。