白灰のルナァ
視界がかげった瞬間、蛮は、横たわる黒衣の傍らに、自分が片膝をついていることに気がついた。
介抱する義務などはない。目が合った瞬間、挑発的に、挑戦的に、あの白灰の眼はぎらりと光った。「来い」とその眼が囁いているのが、はっきりと蛮にはわかってしまった。……気がつけば、邪眼をかけていた。あのバケモノでさえ意識が吹っ飛ぶほどの、強烈な一発を。
うつろに目を見開いたまま、死神はぴくりとも動かない。
視界がかげったのは、背を照らす月を、夜の群雲が隠してしまったためだと、蛮は知っていた。知っていてなお、憎むべき強迫観念が――この、眼前の、死体のような身体がこの蛇の眼から、光を吸い取っているのではないかと、そんな、愚かな観念が――ともすれば蛮を支配しようとする。
みるみるうちに、真闇に近づく眼前の風景。その中に、隠されていく最後の残光を反射した瞳が、ぼう、と白く濁って浮かび上がっている。
反応のない瞳。
死んだように動かない身体。
――今なら。
半ば以上は無意識のうちに、蛮の右手がごきり、と関節を鳴らす。
――今なら……ヤれる。
のろのろと、白灰の狂気に呼び寄せられるように、深まる闇に取り込まれるように、蛮の手が死神の白い首に伸びた。
自分の中の狂気を、握りつぶして殺すように。
あの蒼い星に見せない暗黒の一面を、押しつぶして殺すように。
この死神の白い首を、握りつぶし、押しつぶし、そして――
ぐ、と力を込めようとしたその時、まるで、
……まるで「雷」のような驚くべき唐突さで、死神の白い顔を白光が暴いた。
呆然と振り仰ぐ蛮の顔をも、冷たく冴え冴えとした白光は照らし出す。
視界一杯に迫るのではないかと、錯覚させるような清冽な光――狂気を誘うと言われながらも、どこまでも、それ自体は冷たく白く輝いている、……蛮を今、照らしているのは、黒雲を振り払った白灰の満月だった。
それは一筋たりとて欠けることのない――光なき暗黒を、背に負いながら。それでも白く真円に輝いていた。
蛮の呪われた右手から、力がゆっくりと抜けていく。
あどけない、だが、何も知らぬ子供ではもう有り得ない苦さも秘めた、そんな表情で、蛮は月を眺めたまま、後ろ手に握ったままの赤屍の首から、気づけば手を引いていた。
「……今のは」
ひっそりとした声が、そんな蛮の背に静かに当たる。
我に返って、跳びすさりつつ振り返れば、……振り返ったその瞬間にはすでに、黒衣翻す死神は物憂い立姿を蛮に見せていた。
永遠のような一分が、彼我の間を、やっと過ぎ去ったのだ。
死と生の境も軽やかに一歩でまたぐ、今は帽子に隠れぬ白灰の瞳が、ひとつ、またたいて蛮を眺めやった。
その眼が何かに似ている、と思う前に、薄い唇が開く。
「今の夢は、キミが見せてくれたものですか、美堂クン?」
「……ユメ……?」
言われてはじめて蛮は、自分がかけた邪眼の内容を、自分自身が覚えていないことに気がついた。
あの一瞬、相手が叩きつけてくるものを、とにかく突き飛ばし叩き返そうとして、渾身の力で「睨み」つけた……そのことは覚えていても、どんな夢を作り上げたのか、そのことはどうしても思い出せない。
どんな夢を、見せてしまったのか。……だが、おぼろな想像ぐらいはついた。彼は、赤屍を絞め殺そうとした。それは、彼が作り出した悪夢にもまた、反映されているはずなのだ。
絶句したままの蛮の顔を、眺めていることにも飽きたのか。死神はふいと背を向けて、転がっていた帽子を緩慢に手に取った、
ぱんぱん、とおざなりに埃を叩き、かぶり直すついでのように、蛮をもう一度振り返る。
そしてけだるく笑って言った。
「おかげさまで、いいユメが見れました……」
「……ありがとう、美堂クン」
音もなく、ふいと向けられた堂々たる背。
それが、姿勢すら変えずにかろやかにフェンスを切り裂いて、ビルの外にふわりと消えてから、蛮は再び、その蛇なる瞳を天空に向けて月を見た。
『アリガトウ』
どんな夢を見て、どんな地獄を見せられて……夢うつつに首を絞められて、あんな、底無しに優しい声で、礼を言う気になったのか。
月の裏側を見たいと、熱っぽく囁いたその相手に、見せられた悪夢、それがそんなに……嬉しかったのか。
「チッ」
気がつけばどこかで、あの醜い生き物を哀れだと思っている、そんな自分がいることに気づき……蛮は音高く舌打ちをすると、すばやく月光に背を向けた。
扉に向かって歩きながら、自分の足下が、光を遮って濃い闇を作り出す、それを眺めてふと、目を見開く。
三度、振り返った視線の先の望月。
ぽつりと、眺める蛮の唇から言葉がこぼれた。
「……何かに似てると思ったら……」
視線の先の満月。
狂気に誘う、なのにどこまでも清冽な、……白灰に濁った、どこか蒼ざめた光を放つ、それは……
「……月長石か」
月光をのみ反射すると伝えられる、その石の名を思い出し。
満月のような、闇を孕んだ白灰の真円ふたつが、脳裏にまざまざと蘇る。
――バッカでー……オレとしたことがよ。
己の空想のあまりの陳腐さに、笑うしかなく、蛮は苦く口元をゆがめた。
惜しみなく注がれる黄金の、太陽の光。それを全身で受け止める満月と……背を向けるその、満月の裏。
――どっちも、同じ月……だが。
何度繰り返したかもう思い出すこともできない言葉――
「……オレは、てめーとは違うんだよ」
自分の背中に吐き捨てるように、肩越しに振り返った姿勢のままで言い捨てると、蛮はすべてを断ち切るように、扉を開けて階段を一気に駆け下りていった。