マイ・ディア・パブロフ――1
最近、彼にとっては主君にも等しい友人、天野銀次の機嫌がひどく悪いらしい。
それを聞いていてもたってもいられぬ花月は、その日の内にHonkyTonkを訪れた。
からんころん、とドアにつけられた鈴の音を、己の髪の鈴の音の伴奏として響かせ店に入る。
「いらっしゃい」
ほっとしたような波児の声に迎えられ、とりあえず愛想よく微笑して店内を見渡した。
GB御用達のソファの上に、たれる銀次。向かいのソファに、いやそうに珈琲をすする蛮。いつもと変わらぬ風景のはずだが。
「十兵衛! どうしてここに?」
先に銀次に「こんにちは」とお辞儀することは忘れず、だが花月は、カウンターで何やら飲み物を飲んでいる十兵衛に駆け寄った。
ためらいなく隣のスツールに腰掛け、膝の間のスツールに両手を突いて身を乗り出し、十兵衛を覗き込む。そうするとちょっと見には、マニッシュな振舞の好きな美少女に見える。えらく長身ではあるが。
「銀次さんの機嫌が悪いと、心配していたのはおまえだろう、花月」
口をつけていた珈琲カップをことんと置いて、十兵衛は泰然と答えた。中に入っているのが「梅昆布茶」であることを花月は認めた。こんなメニューもあったのか、と感心しつつ十兵衛に視線を戻す。「なぜ喫茶店で梅昆布茶?」とは思わないらしい。
「え、それでここへ?」
「『外』へ出る用事があってな。きっとおまえがここに来るだろうと思って、立ち寄った」
「十兵衛……本当にキミは、僕のことだとなんでもわかってしまうんだね」
「そうでもないさ。このぐらいなら当然の域だ。……それとも、迷惑か」
「そんな! 本気で言っているの?」
「……いや」
十兵衛は珈琲カップ(だが中身は梅昆布茶)に軽く人差し指を滑らせて、かすかに、だが満足そうに微笑った。その微笑を見て、花月も荒げかけた声を収め、少し含羞を含んだ笑みを返す。梅と昆布と少女漫画の香漂う空気には、よほど殺傷能力があったと見えて、波児はすみやかに奥に退散した。
だが核シェルター並みに他者の侵入を拒むその空気の足下に、
「……………………いーいーよーねーーーーーーーぇ……仲良くてー…………」
不意にえらく不景気な声がにじりよる。
とっさにスツールの上に飛び上がりかけ、花月はこらえて床を見下ろした。
「ぎ……銀次さん!?」
床をずりずりと這って移動したたれ銀次が、つぶらな瞳いっぱいに涙をためて花月を見上げている。
「どうしたんですか銀次さん……何かあったんですか?」
慌てて手を伸ばすと、涙をためてふるふる震えたまま銀次は、おとなしく花月に抱き上げられて膝の上に納まった。
「聞いてよカヅッちゃん……オレね、オレね……」
ああ、やっぱり胸はないんだ……などと納得しながらえぐえぐと顔を押しつけて泣く銀次を、撫でながら花月は微妙な殺意つきで蛮を振り返る。
蛮はじろりと花月に視線を寄越し、かなり冷たい声で叩き切るように、無言の問いを跳ねつけた。
「オレは関係ねー。ていうかテメーも関わンな。こいつは忠告だぜ?」
「相変わらずの物言いですね。銀次さんがこうでは、仕事に支障が出るのでは?」
しばらくふたり、冷たく睨み合う。
沈黙を破ったのは、花月の胸(ないが)になつく銀次に向け、さりげなく手を伸ばしてぐいと顔を離させながらの十兵衛の言葉だった。
「それで、何があったんだ?」
「あ……う、うん、それがね……」
なんとなく冷ややかな十兵衛の視線に怯えながら、それでもしつこく膝の上に陣取って銀次は話し出す。
「……赤屍さんの、ことなんだけどね」
その一言を聞いた瞬間、花月は蛮を振り返って言った。
「どうせ忠告するなら『馬に蹴られるぞ』ぐらいは言ってください!」
「そこまでお節介してられっかよ」
「話していい?」
つぶらな――「キミのことを信じているよ!」とでも言いたげな実に愛らしい瞳に見上げられ、天井を仰ぐ。
たっぷり10秒間ののち、溜息をついて答えた。
「いいですよ。話してください」
「ありがとう、カヅッちゃん!」
もう一度律義に抱きついてから、銀次は話しはじめた。もう1ヶ月、赤屍が体に触れさせてくれないのだと。
最初の内は、気のせいだと思っていた。
腰にタックルを食らわせようとしてみたり、背中からいきなり抱きつこうとしてみたりするたびに、赤屍が優雅に身を翻して自分に空をきらせるのも、あくまで気のせいだと思い込もうとした。
だがそれが十数度に渡って続けば、いくら銀次でもこれは尋常ならざる事態だ、と気づく。
殺されかけたり泣かされたり、襲ったり口説いたり、挙句の果てに乗っかったり既成事実を作ってみたりしながらも、必死のアプローチを続けたおかげでやっと、触れることを許してくれるようになったというのに。
これは何か、またしても自分が何か怒らせることをしたに違いない――と、ナチュラルに尻に敷かれる銀次は、おずおず赤屍に尋ねた。
「赤屍さん、あのう――……何か、オレのこと怒ってます?」
「は?」
ホテル備え付けの書き物机の前、椅子におっとりと腰かけてメスを磨いていた赤屍は、ややおっくうげに顔をあげて銀次を眺めやった。
「いえ、ですからね、その……何か、オレ、悪いコトしたかなー……って」
「日常的にしているでしょう。今更悔い改めても遅すぎる」
悪気ない一言で、ベッドの上にたれる銀次をしくしく泣きじゃくらせておいて、赤屍はメス磨きに再び取り組んだ。
やがていつまでたっても泣き止まぬ銀次に業を煮やしたか、再び顔を上げて尋ねる。
「それで、なぜそんなことを尋ねるんです?」
「オレ、そんな悪いことしてますかぁー……? むしろ全然、させてくれないじゃないですか!」
「夜中に尋ねて来て私の安眠を妨げること自体、悪事です」
「じゃあ仕事終わったら逢ってください! んでもって触らせてください! こう、――…………」
「こう」の後になにやら妄想が続いているらしく、うっとりした顔で「えへへー」と笑っている銀次を、冷ややかに、やや持て余したように眺めやって赤屍はあっさりと言った。
「いやです」
「ああ、そんな格好だめですよ赤屍さん、オレもう電圧が――――ってなんで! なんでだめなんですかー!?」
妄想の沼から引き上げられた銀次が食い下がるも、赤屍はさらりと言葉を継ぐ。
「何でもです」
「そんなの納得行きません!」
人間離れした動きでべいーん、とたれたまま飛びかかる銀次を、椅子の背にかけておいたコートであっさりと叩き落として赤屍は考え込んだ。
「理由が必要ですか?」
「で……できればお願いしたいんですが……」
「電気」
「は?」
「キミは、他人に触れる時に微弱な電流を流すでしょう。
私はキミのそれが耐えられないのです」