プロフィール |
・横浜とは思えないほどの山の中で生まれ育ったため、幼稚園も無く小学校にあがるまでは川や野山で遊んでいた。
昭和30年代初頭にはまだ家にはテレビも無く、遊び道具は木や竹で弓や釣竿等を作って遊ぶしかなかった。
夏には朝早くから近所の家をまわって、クモの巣を採ってセミを捕まえた。
池ではスルメを餌にザリガニを釣ったりした。
・小学校にあがった頃から近所の人の影響もあって、電気に興味を持つようになった。
初めは電池で豆電球を光らせたり、モーターを作ったりして3年生の頃には鉱石ラジオに興味を持ち近所
の人に部品をもらっては組み立てて、線がつながっていないのに放送が聞こえることに異常な興味を持った。
鉱石というのは非常に不安定で感度も悪く、ゲルマニウムダイオードが出てきた時には、その素晴らしさに
感動した。
・昭和30年代というのは、とにかく思い出に残ることが非常に多い。
テレビの黎明期でもあり、月光仮面やまぼろし探偵などヒーロー者が沢山放送された、毎週続きを見るのが
楽しみで勉強もしないでテレビにかじりついていた。
家にテレビが無い子はある家まで見に行った。私も鉄腕アトムの実写版を近所で見せてもらった記憶がある。
当時はまだ電話が無くて、代わりに農協の有線放送があり加入者同士の通話もできた。
相手を呼び出すには、農協の交換手に「××番さんを呼び出して下さい」と頼んで各戸一斉に呼び出しが行われ
、該当者のみが電話に出ることで通話ができた。該当者以外の人でも受話器を取れば電話に出られるという
おおらかな時代であった。
当時の有線の電線は裸線一本で、地上数メートルの位置に張ってあった為クリスタルイヤホーンをアース(地面)
との間に入れれば、人の通話を簡単に聞くことができた。
また、ゴム鉄砲や空気銃が好きで隣の家には空気銃があり、年上の人とよく山や竹やぶで鳥を撃った。
この頃は肉が貴重で、撃ち落した雀の肉を蕎麦に入れてよく食べた、雀の肉はけっこう美味かった。
時々、ガリっと硬いものが歯にあたった、見てみると空気銃の玉が入っていたこともあった。
この頃は、空気銃の玉(鉛製)がタバコ屋でひと箱(100発位入っている)確か50円で売っていた。
・農家ではこの頃、牛や馬に代わってガソリンエンジンの耕運機が導入され始めてリヤカーを引かせれば
車(トラック)の代用にもなるため、大ヒットして我が家でも昭和33年頃購入した。
そうなると今まで脱穀や揚水等に使用してきた石油発動機は次第に使われなくなり、電動機や便利な耕運機に
ベルトをかけて使用するように変わっていった。
灯油で動く石油発動機は軽いものでも70kg位あって、馬力が無い上始動には少量のガソリンを必要とするなど
使い勝手が悪かった。
耕運機にリヤカーを引かせると小型特殊免許が必要であったが、この辺は山の中で警察も来ないので私は
無免許運転でよく畑と家の間を往復した。
昭和35年頃になると、我が家でもダイハツのミゼットを購入した。
車があると農家の生活は一変した。
・家が農家だったので小学校も高学年になると家の手伝いもよくさせられた。
この頃になると、小鳥(メジロやホージロ)を捕まえたり山にある自然薯を掘ったり、真空管ラジオを
組み立てたりして忙しい日々を過ごした。おかげで学校の勉強はまるでダメで親にはいつも叱られていた。
中学生になっても勉強はぜずに、相変わらずラジオやワイヤレス・マイクを作ることに熱中した。
友人と”くずや”を回っては、ラジオやテレビの部品を探し回った。
従って学校の通信簿は2と3しかないので、親に印鑑を押してもらうのが大変であった。
・中学校の成績ではとても普通の高校には入れなかったので、比較的簡単な私立の工業高校の電子科に入学した。
ここでは電気関係の科目には自信があったため、専門科目だけは成績が良かった。
入学するとすぐにアマチュア無線の資格をとり、この道にどっぷりつかるようになって行った。
当時のアマチュア無線は自作が当たり前でり、お金もなかったので秋葉原で部品を買ってきては無線機を作っていた。
アルバイトもよくやったが全て無線機に消えていった。
しかし、この趣味が将来を決めることになったがそれでよかったのかどうかは今もわからない。