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■発端

 1994年の春、私は仙台フルートの会の事務局長として、多忙な毎日を送っていました。前の年の秋に行われた芸術祭でのコンサートのマネージメントを少し手伝ったところ、当時の事務局長(プロの音楽事務所の経営者)に気に入られてしまい、会の全権を任されてしまっていたのです。
 そんな時、村松楽器の中野さん(現新宿店長)から「仙台でアランコのリサイタルをやりたいのですが、手伝ってもらえませんか?」というお話をいただきました。ミュンヘン、神戸と立て続けに国際コンクールで優勝したフィンランドの新星、ペトリ・アランコの日本ツアーを秋に行うので、仙台の分のマネージメントを、仙台フルートの会にお願いできないかというのです。
 コンクールに優勝したといっても、当時は全く無名だったアランコでしたから、チケットを売る自信もないし、秋には芸術祭のコンサートも控えていたので、前事務局長は難色を示しましたが、チケット販売は村松で責任を持つというのと、運営委員長の「将来必ずメジャーになる人だから、いまやっておけばあとあと自慢できるよ」という言葉に励まされ、とりあえず引き受けることにしました。 

■経過

 まず突き当たったのは、会場の問題です。アランコが日本にいるのは1015日から23日まで、この時点で17日の新潟と20日の熊本はすでに決まっていたので、できれば18日か19日にお願いしたいというのが、村松の希望でした。ところが、まともなリサイタルが開けるような小規模なホールは、もうすでに空いてはいなかったのです。ただ一ヶ所、青年文化センターの交流ホールというところに18日の空きがあったので、ちょっとフルートのリサイタルには厳しいなと思いつつも、やむをえずそこを使うことにしました。後になって、予想通りいろいろな問題が生じてくるのでしたが。
 それからというものは、私の職場(東昌寺)が、事務局と化してしまいました。村松からチラシやチケットは山のように送られてくるし、FAXでの事務連絡も頻繁でした。そして仙台公演の連絡先にしてしまったので、問い合わせの電話に私以外の人も応対しなければなりません。もっともこちらはお寺ですから見知らぬ人の応対は慣れたもので、結構なりきって楽しんでいたみたいですけどね。 

■本番

 リサイタル当日は、朝からごたごたしていました。村松に直接チケットを申し込んだ分の名簿をFAXで送るというのが、なかなか着かないのです。今だったら携帯電話とか便利なものがありますからもうちょっと身軽になれるのですが。
 やっと着いたFAXと、前日に送ってきてあった販売用のCDをもって会場に着いたら、村松からは中野さんを含め全部で3人のスタッフが来ていました。早速会場を開けてもらって椅子並べです。そうなのです。このホールは自分たちで椅子を並べなければならなかったのです。それより大きな問題は、楽屋がないということでした。この事に気がついたのが1週間ほど前。なんとしても控え室は必要なので、同じフロアにある「会議室」を押さえておきました。
 そうこうするうちにアランコがホテルから到着。もうすでにタキシードを着ています。早速例の「会議室」へ。
30人ぐらい入るだだっ広い会議室を楽屋にあてがわれて、さぞ面食らった事でしょう。アランコより先に中野さんが楽器を取り出して、調整をはじめました。この辺が村松の強みですね。
 リハーサルのときも中野さんたちはつきっきりで、いろいろ楽器のアドヴァイスをしていました。頭部管を3本差し替えて、聴き比べをやりましたが、私でもわかるほどニュアンスが変わります。「こちらの方がよりファンタジーがある」と中野さんが言っていた頭部管を使うことにしたみたいですね。
 本番の段取りは村松にお任せしたのですが、楽屋がステージの裏にあるわけではないので、演奏者は観客の後ろのドアから入って、前方のステージまで通路を歩いていくという「お色直し」状態になってしまいました。しかし、そんなチグハグなステマネでも、お客さんは鍛えぬかれたテクニックと磨きぬかれた音色に酔いしれていました。一方、裏方としては演奏を楽しむ余裕もなく、途中で椅子が足らなくなってあわてて並べたりと、最後まで大変な思いをさせられたものでした。 


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