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エロイカ原典版の注釈

(98/11/26掲載)


3楽章421小節目

 写譜屋によるスコアと初演の時に使われたパート譜には、最初は4小節の1カッコ(163から166までと同じもの)があったが、どちらの資料にも削除されたあとがある。このリピートで戻るべき場所がはっきりしていないため、(戻るとすれば289が適当だが、ここには何の表示もない。)Michael Tusa1985年に、ベートーヴェンは一度は31のリピート記号まで戻る大きな反復を考えていたという可能性についての興味ある議論を提案している。この反復があれば、この作品のほんの2年後に作曲された交響曲第4番から始まる中期の作品のスケルツォ楽章に好んで用いられたスケルツォ−トリオ−スケルツォ−トリオ−スケルツォという5部構成の原型がここに存在することになるというのである。しかし、どちらの資料にもそのことに関する指示が何もないということを別にしても、この考えには楽章構造の面からの根本的な問題点がある。
 1カッコの424から31に戻ることによって得られるのは、5部構成ではなくスケルツォ−トリオ−スケルツォを2回繰り返す6部構成なのである。ただ、多少無理はあるかもしれないが、31から166の反復(第4部にあたる)は289から424(第3部)を反復するのと同じことだとみなして次のような5部構成と見ることはできる。すなわち、(スケルツォ+反復)(トリオ)(スケルツォ+反復)(トリオ)(スケルツォ−反復)という 形である。しかし、このあまり論理的とは言えない提案からは、さらに31から166にはアラ・ブレーヴェが含まれていないという重要な問題も発生してくる。したがって、我々はベートーヴェンがスケルツォ(1回目は全部4分の3拍子、反復も全部4分の3拍子)、トリオ、スケルツォ(1回目はアラ・ブレーヴェを含む、しかし反復は全部4分の3拍子)、トリオ、スケルツォ(アラ・ブレーヴェを含む)という構成にしたかったのだという、とても納得がいかないような可能性を受入れざるを得なくなってしまう。
 残された最も可能性の高い筋書きは、単純に写譜屋がスコアを写した時に書き間違えたものが、訂正される前にパート譜にも書き写されてしまったというものである。ベートーヴェンの自筆譜(消失)では、スケルツォ楽章はスケルツォとトリオをどのように組み合わせるかとか、どこにアラ・ブレーヴェを挿入するかという説明が言葉で書かれているだけだったため、163の反復を421には適用しないというベートーヴェンの説明を写譜屋が誤解したり見落としたりするということは簡単に起こったに違いないのだ。
Jonathan Del Mar (Translated by jurassic@kaihougen)
Critical Commentary41ページより転載


これをわかりやすく図解すると、このようになります。
写譜屋によるスコア
最後のリピートは作曲者によって削除されています。

ベーレンライター版
最後のリピートは写譜屋のミスという解釈です。
結果的には現行版と同じになっています。


Tusaの提案
あくまで、最後のリピートは作曲者の意向だとのこだわりから
最初のリピートまで戻ればこじつけながら「5部構成」になるという説です。

ここまでが、デル・マーの注釈の内容です。おわかりになると思いますが、「ベーレンライター版に基づく」演奏であれば、後半のスケルツォを繰り返すことはないはずですよね。そこで、ジンマンの演奏です。

ジンマンの演奏
「戻るとすれば289だが」という注釈をまにうけて、スケルツォの後半をくりかえしています。
もちろんそんな指示はどの資料にも無いし、デル・マーも否定しているので、
これは明らかにジンマンの独断です。



ここでちょっと私の意見を言わせてください。後半のスケルツォに含まれる「アラ・ブレーヴェ(2分の2拍子)」は、今までの4分の3拍子の秩序を打ち破るとても衝撃的な出来事です。「古典派の音楽は先の予想がつくがロマン派では何が起こるかわからない。」と三枝成彰さんもおっしゃっていたように、これはまさにロマン派の幕開けを告げる大事件だったわけです。したがって、1回やってネタがばれていることをまた繰り返すようなバカな真似はフツーはしないと思うのですよ。

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