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ピーター・バリカン。
そのような、交響曲ばかりが「贔屓」されるという状況は、彼の作品全集が最初に出版されたときに作られたと言えるでしょう。こちらでその様子を見ることができますが、これまでに、国際ブルックナー協会では3度の全集の編纂を行っています(3度目は進行中)。その1回目と2回目、いわゆる「ハース版」と「ノヴァーク版」とでは、そのリストの最初にまず交響曲が挙げられているのです。ハース版では9曲だった交響曲も、ノヴァーク版では11曲に増えています。最近では、その増えた分「第0番(ヌルテ)」と、「ヘ短調」の2曲も含めての全集を目指す指揮者も多くなっていますね。 そんなことを思っていたら、絶妙のタイミングで、待望のブルックナーの声楽のための作品が集められているアルバムがリリースされました。そこで演奏しているのがバイエルン放送合唱団なのですが、その指揮者がペーター・ダイクストラになっていたのに驚きました。彼は2005年から2016までこの合唱団の芸術監督のポストにあって、多くの素晴らしいアルバムを作っていたのですが、2017年にはそのポストをハワード・アーマンに譲ってしまっていたのですね。彼は、スウェーデン放送合唱団などの別の合唱団でのシェフも務めていたので、多忙だったのでしょうか。 しかし、その後任のアーマンという人とのアルバムには、あーんまり魅力を感じることはありませんでした。何より、自らが再構築したモーツァルトの「レクイエム」などは、その作業も含めて全く感心できませんでしたからね。ところが、その「レクイエム」の録音を行った2年後の2022年に、ダイクストラがそのポストに復帰していたそうなのです。よかったですね。そして、今年の1月末に録音されたのが、このアルバムです。 ここで彼が選んだ曲は、ホ短調のミサ曲(第2番)と、5曲のモテット、そして2曲の「エクアーレ」です。ミサ曲は、1866年の第1稿と1882年に改訂された第2稿とがありますが、ここでは小節数が増えてフレーズの収まりがよくなっていて、さらにオーケストレーションも少し変わっている第2稿で演奏されています。バックがフルートを欠いたオーケストラの管楽器のアンサンブルですね。 それが始まる前に、まずはモテットの中で最も有名な「Ave Maria(アヴェ・マリア)」と「Locus iste(この場所は神により作られた)」が、ア・カペラの合唱で歌われます。女声パートの無垢な声と、男声パートの柔らかな響きが相まって、若き日のブルックナーの音楽のリリシズムの原点が聴こえてきます。ほんと、これを聴くと、晩年になって様々なテクニックを手中に収めて作り上げた交響曲の数々も、基本的にはこの頃と全く変わっていないことがよく分かります。 さらに、ノヴァーク版ではモテットと一緒の巻に収録されている2曲の「エクアーレ」は、1847年に彼の親戚の葬儀のために作られました。3本のトロンボーンだけで演奏される「コラール」は、やはり後の交響曲の原点として聴くことができることでしょう。 メインのミサ曲は、これまで何度かほかの演奏家で聴いたことがありますが、合唱と管楽器という組み合わせになにか違和感があって、いまいち親しみがわきませんでした。ところが、今回のダイクストラの演奏では、合唱と管楽器とのバランスが絶妙に保たれていて、それぞれのパートの役割がはっきりと提示されていたからでしょうか、そのような違和感は全くありませんでした。 これで、録音のクオリティがもう少し高ければ言うことはないのですけどね。いずれにしても、ダイクストラの再起には、喜びを隠せません。 CD Artwork © BRmedia Service GmbH |
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そして、やはり、ブルックナーが誕生した今年の9月4日までにはすべての交響曲の録音を世に問おうとしているのが、フランソワ=グザヴィエ・ロトと、彼が首席指揮者を務めているケルン・ギュルツェニヒ管弦団です。すでに、7番(2019年12月録音)、4番(2021年9月録音)、3番(2022年9月録音)がリリースされていたところに、今回は2022年6月に録音されていた9番がリリースですから、おそらく現時点では他の曲の録音もほぼ終わっているのではないでしょうか。 彼らの場合は、どうやら稿については、「1曲1稿」というスタンスのようですね。その代わり、3番の場合は第1稿、4番の場合は第3稿と、ありきたりのものではないバージョンを録音していて、マニアックなところを見せています。 ただ、9番に関しては最後の楽章のスケッチを残した状態で作曲家は亡くなっていて、作曲家はしっかり終楽章の構想を練っていたのですから、何とかしてそれを再現しようという企ては多くの人によってなされているようです。しかし、それらはいずれも「でっちあげ」の感は否めません。さらに、この交響曲がベートーヴェンの「9番」をモデルにしているということで(調性がニ短調であることや、2楽章目にスケルツォが置かれているため)、フィナーレとして合唱の入った曲、具体的にはノーヴァク版第19巻の「テ・デウム」が演奏されることもあるようですね。 とは言っても、「原典版」としては、当然、完成していた3つの楽章だけを演奏するという選択肢以外はありえません。今回の演奏に使われている楽譜も、「レオポルド・ノーヴァクの校訂によるオリジナル・バージョン」という表記がありますが、それが、その3楽章までで終わっている形ですね。もちろん、ここでは改訂を行っている余裕はありませんでしたから、当然のことながら別のバージョンは存在しませんね。 ロトは、いつもながらの鋭い感覚で、この曲をきびきびと演奏していました。その引き締まったテンポは、隙間なくそれぞれのエピソードを立体的に形作ろうとしているように思えます。そして、時には楽譜の指示からも逸脱して、独特のエネルギー感を与えているような試みも見え隠れします。その典型的な部分が第2楽章のスケルツォでしょう。 ![]() 最後の楽章は、このオーケストラのいぶし銀のようなサウンドで、神々しいほどの「祈り」のシーンが広がっていました。そして、ワーグナー・チューバも加わった金管セクションのロングトーンが静かに消えた瞬間には、これの後にはもう何も余計なものはいらないと、心から思えるのです。 CD Artwork © myrios classics |
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![]() そう、10年前にこの「石田組」という名前の弦楽アンサンブルを結成したのは、神奈川フィルハーモニー管弦楽と京都市交響楽団でコンサートマスターを務めているという、れっきとしたヴァイオリニストの石田泰尚さんだったのでした。彼らが、結成10周年を記念してリリースしたのが、このアルバムだったのですね。 なんでも、現在彼らは、このアルバムを引っ提げて全国29会場でのツアーを敢行しているそうですが、そのライブのチケットはほとんどソールドアウトだというのですから、その人気はすごいものがあります。きっと会場では、ペンライトを持ったファンであふれかえっていることでしょう。 メンバーはヴァイオリンが6人、ヴィオラとチェロが3人、コントラバスが1人、そしてそのレパートリーはクラシックにとどまらず、ロックや演歌に至るまで幅広いジャンルにわたっています。 今年の1月にレコーディングが行われたというこのアルバムでは、まずはロックのナンバーを弦楽合奏に編曲したものが演奏されていました。 1曲目の布袋寅泰の「BATTLE WITHOUT HONOR OR HUMANITY」は松岡あさひさんという方の編曲ですが、いきなり、まるでクセナキスのようなグリッサンドが聴こえて来たので、そんな凝ったアレンジなのかな、と思ったのですが、どうやらそれは単なるSEだったようで、音楽は普通にロックでした。とは言っても、ソリスト(石田さん?)のフレーズはとても華麗ではあるものの、なにかリズム的にロックのグルーヴとは違和感があるような気がします。 2曲目のディープ・パープルの「紫の炎」も、編曲はもう一人の近藤和明という方ですが、リズム的には何とも緩いものでした。やはり、このようなギンギンのロックでリズム楽器がないというのは、かなりのフラストレーションがたまります。 それが、次のレッド・ツェッペリンの、こちらはバラード・ナンバーの「天国への階段」になった途端、そこからは、オリジナルの持つパッションを見事にクラシックに昇華させた音楽が聴こえて来たではありませんか。どうやら、この辺りが彼らの真骨頂だったようですね。 ですから、その後の、ピアソラの「リベルタンゴ」や、ニーノ・ロータの「ゴッドファーザー・メドレー」、そしてジョン・ウィリアムズの「シンドラーのリスト」などの、いわばセミ・クラシック系のものになると、俄然心に響くような音楽が聴こえてきました。 そして、アレンジものではない、純粋のクラシックの曲になると、彼らの演奏はさらに共感に満ちたものになってきます。ジョン・ラッターの「弦楽のための組曲」は、イギリス民謡を素材にしてとても軽やかな音楽に仕上げたものですが、この作曲家ならではの親しみやすさがストレートに伝わってきます。そして、グリーグの「二つの悲しき旋律」では、「傷ついた心」、「過ぎた春」という2曲の悲しげなテイストが、さりげない爽やかさで聴こえてきます。ここで、彼らの表現力の深さを思い知ることになるのです。 アンコール、でしょうか、石川さゆりの「津軽海峡・冬景色」(作曲は三木たかし)が、ほぼ完コピに近い編曲で演奏されているのも、オリジナルに対するリスペクトが感じられます。「連絡船に乗り」というところのコード進行が大好きなんですよね。 CD Artwork © Uninversal Music LLC |
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ヒンデミットのフルート曲と言えば、「ソナタ」と「8つの小品」が有名ですが、それ以外のものもまとめて聴けるのは、とてもうれしいことです。 ![]() 卒業後はアテネ国立交響楽団の首席奏者に就任しますが、現在ではソロ活動で全世界を飛び回っている売れっ子フルーティストとして活躍中です。最近では、佐渡裕指揮のトーンキュンストラー管弦楽団と、バーンスタインの「ハリル」を演奏したりしていましたね。さらに、彼のために作られたフルート協奏曲の世界初演なども行っています。 フルアルバムとしては、今回のヒンデミットが彼の最初のものですが、昨年にはデジタルEPとして、ペンデレツキの「フルートとクラリネットのための二重協奏曲」がWARNERレーベルからリリースされていました。これは、ソリストがヴァイオリンとヴィオラというのがオリジナルの形の作品ですね。こちらのアルバムで、パトリック・ガロワとミシェル・ルティエクがフルートとクラリネットのバージョンを演奏していたものを聴くことができますが、その中でフルート協奏曲のクラリネット版を演奏していたクシシュトフ・グジボフスキが、そのEPではクラリネットを演奏しています。 こちらのヒンデミットでは、正直とっつきにくいと思っていたこの作曲家に、俄然親しみがわいてくるような演奏を聴かせてくれています。なにしろ、音がきれいですし、ダイナミクスのコントロールもとても巧みで、そこから醸し出される豊かな表現力は素晴らしいですね。 「8つの小品」というのは、他の曲を作るための断片的なモティーフを集めたものなのだそうですが、そんな無機質なものが、カラパノスの手にかかるととても新鮮で生き生きした音楽となって伝わってきます。楽譜通りに吹いているだけなのでしょうが、そこにはまさに「命」が吹き込まれているようです。 同じように、これまではつまらない曲だと思っていた「ソナタ」が、とても魅力的に生まれ変わっていました。 最初に演奏されている「木管楽器とハープのための協奏曲」というのも、初めて聴きましたがとても楽しい曲ですね。ソリストはフルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ハープの5人ですが、コンチェルト・グロッソ風にソリストたちとオーケストラが交互に現れる形、第1楽章ではそれぞれの楽器のカデンツァも聴けます。最後の楽章では、クラリネットがメンデルスゾーンの「真夏の夜の夢の結婚行進曲」を、オーケストラとは別の調で延々と吹き続けるというジョークが登場します。 これが世界初録音となる、アメリカ時代の1942年に作られた、ヴィオラとのデュエット「熱狂(Enthusiasm)」という曲は、いったいどこが「熱狂」なのかという、静かなたたずまいです。それも、ヒンデミットならではのジョークだったのでしょう。 CD Artwork © Ondine Oy |
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普通の指揮者だったら、この曲を録音するのはそれ1回だけで終わってしまうものですが、ドゥダメルの場合は2回目の録音にも挑戦しました。それは2019年6月のこと、会場はロスアンゼルス・フィルの本拠地の、ウォルト・ディズニー・コンサートホールです。 このコンサートのことを知ったのは、先日ご紹介した、豊田泰久さんが手がけたコンサートホールの本の表紙でした。そこで使われていた写真が、そのホールでこの曲が演奏されていた時のものだったのですね(これは、正規の向きに修正してあります)。 ![]() その時に録音されたと思われる音源が、最近サブスクでリリースされていました。ですから、当然CDでも出ているのだと思って調べてみたのですが、どうやらこれはデジタルのストリーミングとダウンロードでしか入手できないアイテムだったようでした(リリースされたのは2021年7月)。こんな売れっ子のアルバムなので、当然フィジカルでのリリースもあると思っていたのですが、もはや時代はそこまで来ていたのですね。 それと、このアルバムは2022年にグラミー賞も受賞していたというのですよ。クラシックではあまり関係ないような気がしますが、そこにはしっかりクラシック系のカテゴリーも存在しています。これはナショナル・アカデミー・オブ・レコーディング・アーツ・アンド・サイエンス(略称:NARAS)という団体によって贈られる賞なのですが、その時に授与されるトロフィーが「グラミー」という愛称で親しまれている、蓄音機(グラモフォン)をかたどったものなので、「グラミー賞」と呼ばれているのです。 ![]() いずれにしても、もはやアメリカではCDなどはなくなってしまっている、という噂ですから、今ではもう完全にデジタルに移行されているのでしょう。そして、音のスペックも、普通のステレオだけではなく、「ドルビーアトモス」も再生できるモードまで用意されているものもあります。ひょうきん族ではありません(それは「アダモステ」)。このマーラーも、その一つ、ドルビーアトモスが聴ける環境があれば、ウォルト・ディズニー・コンサートホールで聴く音そのものがイマーシヴに体験できるはずです。 このアルバムが受賞したのは、79番目のカテゴリー、「Best Choral Performance」でした。確かに、この曲の主役はなんと言っても合唱ですからね。ここでは、2つの混声合唱団と、2つの児童合唱団が参加しています。そして、ソリストは8人、その中のアルトの一人に、藤村実穂子さんがいました。第2部にソロが出てきますが、堂々としてましたね。他の人も高水準ですが、テノールのサイモン・オニールだけはちょっと、でしょうか。 そして、もちろんオーケストラのサウンドも、素晴らしい録音によって細部まで聴きとれるうえに全体の響きも豊か、という、ハイスペックなものでした。オルガンの音も、普段は聴こえない場所でもきっちり聴こえてきますし、ハルモニウムまでしっかり聴こえてきたのには驚きました。 ![]() Album Artwork © Deutsche Grammophon GmbH |
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とは言っても、カウフマンが歌う「パルジファル」の映像は、2013年のMETでのライブをWOWOWで放送していたので、見たことがありました。なんか、血まみれになっているような印象がありましたが、カウフマンの声は想像通りの素晴らしさでしたね。 ですから、それだけだったらこんな高額なCDなどを買うこともなかったのでしょうが、ここではエリーナ・がランチャがクンドリー役で共演しているのですよ。彼女もやはり「推し」だったので、そちらも聴いてみたいですね。というか、彼女のクンドリーは、2023年のバイロイトの録画をNHKで放送していたので、それも見ていたのでした。それは、いかにも最近のバイロイトらしいヘンテコな演出で、クンドリーが2人出てくる、という設定になってましたけどね。 今回のアルバムは、もちろんスタジオ録音ではなく、2021年にウィーン国立歌劇場で行われた公演のライブ録音です。つまり、ガランチャはバイロイトの前に、すでにこちらでクンドリーを歌っていたのですね。 その時の指揮者は、音楽監督のフィリップ・ジョルダンでした。いつの間に、という気がしますが、調べたら2020年からそのポストにあるそうですね。ただ、2025年には退任することも決まっているのだとか。このオペラハウスは、スキャンダルには事欠かないようですね。 演出も、ロシアの映画監督キリル・セレブレニコフが行っているというすごさです。ブックレットに、そのステージの写真が掲載されていますが、もちろん「読み替え」が行われている演出であることが、一目でわかります。なんでも、オリジナルのモンサルヴァート城がロシアの刑務所に置き換えられているのだそうですね。アンフォルタスもグルネマンツも囚人なのだとか。そして、クンドリーは、クリングゾルが経営する出版社の記者なんですって。それだけではなく、パルジファルもまだガキの頃と、大人になった時の2人が用意されているようですね。もちろん、どちらも歌っているのはカウフマンなのでしょうが。 ですから、そんなぶっ飛んだステージだったらぜひ見てみたいのですが、今のところ映像商品の販売予定はないそうですね。 考えてみれば、最近はオペラはほとんど映像で見ているようになっていましたね。ですから、ブックレットの対訳を頼りに音だけで聴く、という体験は本当に久しぶりでした。ただ、そうすることによって、演出に気をとられることなく、真摯に音楽と向かい合えるのだな、ということにも、久しぶりに気づかされます。 そうして、4時間にわたって聴き続けていると、ワーグナーの音楽はとても分かりやすいことが分かってきます。彼の書いた台本はとても深みがあって一筋縄ではいかないところがありますが、音楽は、もう感情がむき出しというか、とてもストレートな情景描写に終始しています。さらに、使われているモティーフは、彼の得意技の「ライト・モティーフ」と言われる単純なフレーズしかありませんから、それだけで馴染みがわいてきますからね。 そのように聴いていると、ここでは、このオペラハウスのオーケストラ(ほぼウィーン・フィル)が、とてもしなやかな演奏を聴かせてくれているのがよくわかります。「本場」のドイツのオーケストラとは一味違って、力ずくで抑え込む、ということが決してないのですよ。どんなに激しい音楽でも、そこには必ず豊かなアパッショナートがあるのです。 カウフマンとガランチャの2人の歌にも大満足でしたが、おそらく最も出番の多いグルネマンツを演じていたゲオルク・ツェッペンフェルトも素敵でした。この人は、さっきのバイロイトでも同じロールでしたね。まだ50代で、頭のてっぺんも禿げてませんし。 CD Artwork © Wiener Staatsoper, Sony Music Entertainment |
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ベートーヴェンの場合、「第9番」のマーラーによる改訂版の録音は、これまでに何種類か出ていたようです。ただ、彼の改訂は演奏のたびに変わって行ったようで、同じ「マーラー版」と言っても、演奏者によってはその内容が異なっているのだそうです。 そんな「マーラー版」の、「第5番」というのが、サブスクの新譜としてリリースされていました。これまでに、この「第5番」と「第7番」のカップリングでロシアの指揮者とオーケストラが録音したものがあるようですが、これはそれに次ぐ録音なのかもしれません。 というか、どうやらここでのアーティストたち、イギリスの指揮者のマイケル・フランシスと、彼が首席指揮者を務めるラインラント=プファルツ州立フィルでは、同じマーラー版のベートーヴェンの交響曲と序曲の全曲(あるだけ)の録音を行ったようで、6月には3枚組のCDがリリースされる予定です。おそらく、そんなことをやった人はまだいないでしょうから、ちょっと気になりますね。 最近は、ベートーヴェンを演奏する時には、たとえアマチュアのオーケストラでも、「ヒストリカル」な演奏についての検討を求められる時代です。具体的には、弦楽器の人数は少なめで、ビブラートはなくす、管楽器は楽譜に指定されている人数で演奏する、できれば、トランペットとティンパニはピリオド楽器を使う、と言ったことでしょうか。そこに、もちろん表現的な要求も加わりますね。 つまり、そんな時代に敢えてそれに真っ向から背くようなスタンスの演奏を世に問おうとしているのがフランシス達なのですね。それはある意味、あまりに「原典」ばかりを重視するようになってしまったこの時代の作曲家たちの演奏に、逆説的に新鮮な刺激を与えることになるのかもしれません。 録音なので、はっきりは分りませんが、一応オーケストラのメンバーはかなりの人数の弦楽器と、おそらく倍化された管楽器のような気はします。しかし、演奏が始まると、それはかなり引き締まった、とてもフットワークの軽いもののように感じられました。テンポは速めですし、フレージングももたつくことは全くないスマートさです。それは、当初予想していた「大時代的」、あるいは「巨匠的」といったようなスタイルとは正反対のものだったのにも、驚きました。 その上で、オーケストレーションに関しては、彼らは、ベートーヴェンのスコアが「ロマンティック」に再構築されたものを、そのまま押し出していました。たとえば、有名な部分ですが、第1楽章の第1主題(「ジャジャジャジャーン」というモティーフ)から第2主題(固定ドで「ソドシドレララソ」という美しいメロディ)の橋渡しをする決然としたモティーフ(これも固定ドで「ソソソドレソ」)を担当する楽器が、提示部と再現部とでは変わっています。 ![]() 提示部:ホルン(↑) ![]() 再現部:ファゴット(↑) 終楽章になると、それまでの楽章では出番がなかった楽器が登場します。ピッコロとコントラファゴットとトロンボーンです。コントラファゴットは今までの通常の演奏でも入っていたはずなのに、全く気付かなかったものが、今度はもう冒頭から「ブイブイ」という音がコントラバスとユニゾンではっきり聴こえてきます。これはすごいことです。 そしてピッコロも、時には1オクターブ高く吹いていて、やはりこれまでに聴いたことのない明瞭さで、この楽器の存在を誇示していました。いやあ、爽快でしたね。 Album Artwork © CAPRICCIO |
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その紹介文は、豊田さんの元で音響設計の仕事を担当していた、永田音響設計のロスアンゼルスとパリのデパートメントのメンバーの菰田基生(こもだもとお)、ダニエル・ベックマン、マルク・クィケレス、エリック・ベルゲルの諸氏によって記されています。豊田さんが書いたのは序文だけのようですね。 その前に、「前書き」を寄せているのが、ものすごい人たちです。それは、ダニエル・バレンボイム、ヴァレリー・ゲルギエフ、ズビン・メータ、サイモン・ラトル、エサ=ペッカ・サロネン、といった大指揮者たちと、磯崎新(京都コンサートホール)、フランク・ゲーリー(ウォルト・ディズニー・コンサートホール)、ジャン・ヌーヴォー(フィラモニー・ド・パリ)という世界的な建築家達です。いずれも、豊田さんたちと一緒に仕事をした人たちですね。それほど、彼の信頼は厚かったのでしょう。 この本のサブタイトルの後半には、「ヴィニャード・タイプのホール」という言葉がありますね。これは、まさに豊田さんが作った音楽ホールの代名詞なのではないでしょうか、とは言っても、ここで紹介されているホールの中には、例えば京都コンサートホールのように「シューボックス・タイプ」のものもありますし、リチャード・フィッシャー・センターのように「プロセニアム・タイプ」までありました。ちょっと意外でしたが、クライアントによっては柔軟に対応していたのでしょうね。 とは言っても、やはりメインは「ヴィニャード」であることに間違いはありません。この本の最初に掲げられているのは、日本で初めてそのような音響設計が施されたサントリーホールであることは、象徴的です。日本のコンサートホールの歴史は、ここから始まったのですからね。 実際に何度かこのホールでのコンサートに行ったことはありました。そして、ホール内のいろいろな場所に座ってみましたし、ある時などは、現代音楽のコンサートだったので客席がガラガラだったのをいいことに、休憩時間に別の席に移って聴いたりしたこともありました。その結果わかったのは、このホールは場所によって音が全く違って聴こえるということでした。特に、2回のCブロックというセクションでは、オーケストラの中のフルートの音が、別の場所で聴いたのとは全く違っていたので驚いてしまいました。 ![]() なんと言っても、これは初めての試みでしたから、今にして思えばいろいろな欠点があったのでしょうね。ですから、豊田さんは、このホールではまだそれほどの責任は与えられてはいなかったはずですが、やがて自力で設計するときには、このような「大きな」衝立を作ることがなくなっていることが、この本の写真を見ると如実に分かってきます。 いずれにしても、写真を見ただけでそのホールの美しい音が分かるような気がしてくるのは、楽しい体験でした。 ちょっと気になるのが、この本の表紙の写真です。これは、おそらく2019年の6月に行われた、マーラーの「交響曲第8番」の時の写真でしょうが(この時の録音で、グラミー賞を獲得しています)、これは裏焼きのようなのですね。それは、本文の37ページにある写真と全く同じものですから、間違いはありません。 ![]() ![]() ![]() Book Artwork © Springer Nature |
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あの時期、多くの芸術家、その中でも音楽家などは、人と人との関わりを否定された結果、自身の存在意義そのものも否定されたに等しい扱いを受けることになっていました。しかし、そのように制作や伝達を制限された社会の中で、彼らはその状況下での芸術家、音楽家としてどのように対処できるかを真剣に考えるまたとない機会を与えられていたことも事実です。 アルゼンチン生まれのフルーティスト、マリア・セシリア・ムニョスと、カナダのピアニスト、ティファニー・ブットは、そんな「パンデミック」時に新しいアルバムを作ることに意義を見出そうと考えたのでしょう。その結果、彼女たちがたどり着いたのは、「自由」を失われた作曲家たちが、それぞれの時代にさまざまな抑圧と戦った末に残した作品を演奏することでした。 そこで取り上げられたのは、まず、メラニー・ボニ、クララ・シューマン、ソフィア・グバイドゥーリナ、エイミー・ビーチ、イルゼ・ウェーバーという5人の女性作曲家です。彼女たちに共通する「抑圧」は、まずはジェンダーでしょう。さらに、グバイドゥーリナの場合は、国家からの抑圧、さらに、初めて知ったイルゼ・ウェーバーという人の場合は、ナチスからの抑圧が加わります(そんな人もいるぜ)。 とは言っても、ここで演奏されている音楽を聴いた時には、ことさらそのようなことを表に出していると感じられることはありません。ボニの作品などは、小曲が3曲続けて披露されますが、とてもチャーミングで素直に心に沁みるメロディを持っています。なによりも、ここでのフルーティストのムニョス(楽器はムラマツの金)の音色がとてもなめらかで、歌心もたっぷりなのには、とても好感が持てます。 同じように、クララ・シューマンのヴァイオリンとピアノのための曲「3つのロマンス」の編曲版も、夫の作品にオーボエのための同じタイトルの曲がありましたが、それとよく似たテイストで、ロマンティックな肌触り満載の美しい曲です。 グバイドゥーリナの「アレグロ・ルスティコ(ロシア風アレグロ)」は、この作曲家にしては珍しく、なにか勇気をもらえるような、ストレートで元気の良い曲です。 ビーチの曲は、ヴァイオリンのためのソナタを、先ほどの「3つのロマンス」同様ここでの2人の演奏家がフルートとピアノのためにトランスクリプションを施したバージョンです。このアルバムの中では最も長く、4楽章構成で30分以上かかる大作です。ちょっとフルートで演奏するのは辛いかな、と思えるようなところもありますが、ムニョスはフルートでのマックスの表現力を発揮して、果敢にチャレンジしています。とても聴きごたえがあります。 イルゼ・ウェーバーという名前は、おそらくクラシックの関係者はまず知らないでしょうね。彼女は詩人でしたが、ユダヤ人であるために家族とともにテレージエンシュタット強制収容所に収容され、やがてガス室に送られますが、それまでの間に自らの詩に曲を付けて仲間たちと歌っていました。その中の1曲、「Ich wandre durch Theresienstadt(テレージエンシュタットをさまよった)」が編曲されて、ここで演奏されています。もちろん歌詞はありません。そのオリジナルは、こちらで頭から30秒だけ聴けます。そんなバックボーンのあるシンプルなメロディは、心を打たないわけがありません。 もう1曲、このアルバムのために彼女たちが委嘱したのが、こちらは男性の作曲家デイヴィッド・ブレイドの「The Bird Fancyer's New Delight(鳥類愛好家の新しい楽しみ)」という曲です。これも、歴史的に人類が自分たちの都合で鳥類を虐待したことがテーマになっているのだそうです。まさにメシアンのエピゴーネン。 SACD Artwork © Ars Produktion |
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彼女は同じALPHAレーベルから2022年にファースト・アルバムをリリースしていました。 ![]() それにしても、今回のジャケットでの変顔は、彼女の実年齢(1983年生まれ)が反映されていた前のジャケットとは打って変わってポップな感じですね。最初に見た時には、まだ二十歳代のギャルだと思ってしまいましたよ。というか、ギャグ。 アルバムタイトルも、「モーツァルト、あなたは私を狂わせる!」という、クラシックのアルバムのタイトルにはあるまじき、過激なものですからね。 もちろん、演奏されているのは紛れもない、「フィガロの結婚」、「ドン・ジョヴァンニ」、「コジ・ファン・トゥッテ」という、「ダ・ポンテ三部作」なんですけどね。ここでは、彼女が実際にオペラハウスで演じたロールだけでなく、まだ実際にはお客さんの前では歌っていないロールのナンバーまで含めて、モーツァルトがロレンツォ・ダ・ポンテの台本で作った3つのオペラからのアリアやアンサンブルが歌われています。 すごいのは、このアルバムで彼女は、例えば「フィガロ」ではロジーナ(伯爵夫人)とスザンナ、「ドン・ジョヴァンニ」ではドンナ・アンナとドンナ・エルヴィラといった、全くキャラクターの異なるロールを歌っているということです。というか、彼女はこういう企画ものだけではなく、実際のオペラハウスでも、レパートリーとしてロジーナとスザンナを完璧に歌って演じることが出来ているのですね。 そんな彼女の声を実際に聴いてみると、そんなことがなぜ可能なのかが分かってきます。そもそも、彼女の声質は、ソプラノとは言っても、少し暗めの音色ですが、地声と裏声との変わり目がほとんど分からないようななめらかさがあります。つまり、高い音をだしても、いかにも「ソプラノ」というキンキンとした感じがほとんどないのですね。そんな声を以前聴いたことがあったことを思い出しました。それは、彼女と同じアフリカ系のソプラノ、ジェシー・ノーマンです。そう、ゴルダ・シュルツは、ジェシー・ノーマンをほんの少しコンパクトにしたような声を持っていたのですよ。 ですから、この中ではドンナ・アンナあたりの声が、最も彼女にふさわしいもののように思えます。そこからは、強烈なパッションがほとばしるさまをありありと感じることができます。 そして、そんな声なので、ちょっとミスマッチなのではないかと思われるスザンナあたりでも、わずかに力を抜いて歌っているだけで、スザンナらしさが間違いなく伝わってきます。さらに、そのロールがもしかしたら持っていたかもしれない、内に秘めた力のようなものまで、しっかり感じられるのですよ。これは、もう目を離せませんね。 バックのオーケストラは、金管楽器と打楽器以外は一応モダン楽器を使っているようですが、通奏低音のフォルテピアノともども、しっかりとしたピリオド・アプローチで聴かせます。合の手の木管も素晴らしいですね。 CD Artwork © Alpha Classics / Outhere Music France & Kammerakademie Potsdam |
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きのうのおやぢに会える、か。
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