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音楽展望
吉田ヒレカツ

2006年6月21日  宮城県民会館

2006/6/22記)

 今年はかのモーツァルトが誕生してから何年目かの切りの良い年だというので、あちこちで大騒ぎをしている様子が伝わってくる。モーツァルトの音楽の素晴らしさを語ることにかけては人後に落ちないという自負のある私ではあるが、この持ち上げようにはいささか辟易させられなくもない。本当に好きなものは大切に心の中にしまっておく、という美徳の精神を、何ごとにも感化されやすいこの国の人間のみならず、生誕の地オーストリアの人たちまで忘れてしまったのであろうか。ただただお金儲けのための道具としかこの大作曲家を見ていない風潮の中では、諸手をあげて浮かれまくるという気にはなれないのである。
 と言ってはみても、私の大好きな「魔笛」を生で味わうというような贅沢な機会もこのようにいとも簡単に訪れようというのであれば、そんな年寄りじみた繰り言も力を失ってしまうというものだ。

 チェコのプラハからやってきた歌劇場の公演には、何度か足を運んだことがある。未だもって、この都市にはオペラ劇場がいくつ存在しているのか、さっぱり分かりかねる有り様なのであるが、この度の歌劇場は今まで日本を訪れたものとは、さらに別の団体だということなので、私の混乱度はいよいよ増すことになってしまった。どうやら、この「室内歌劇場」というのは、そんなに古い歴史を持ったものではなく、特定の劇場を持たない「カンパニー」のような存在なのではないかというような気がする。従って、メンバーも他のオーケストラや歌劇場の人たちで構成されている、というようなことがパンフレットには記載されていただろうか。ただ、モーツァルトの作品に関しては当初から重要なレパートリーとされていたようであるから、期待は出来るのではないだろうか。

 オーケストラの団員が入場してきた時、その期待が実現されるのではないかという確信のようなものがわいてきたのは、彼らが全員黒ずくめのシャツ姿といういでたちであったからなのかも知れない。慣習に左右されない、何か新しいものを求めている勢いのようなものを、その服装の中に感じたのは、いささかうがった見方なのかも知れないとは思うのだが。しかし、彼らが着席してチューニングも終わり、指揮者の登場を待つという段階になって、場内になにやら鳥の声のようなものが流れているのに気が付いた。最初は何か別の、外部の騒音が紛れ込んでいるのではないかと思っていたのだが、それは確かに場内のスピーカーから流れてくるものであったのである。とすれば、これも演出の一環? 確かにこの作品の重要な登場人物であるパパゲーノは「鳥刺し」という不思議な職業の持ち主なのであるから、それを連想させる鳥の声といえば、これはなかなか気の利いた配慮なのではあるまいか。満員の聴衆がこのことに気が付いたか否かというのは、また別の問題になってくるのであろうが。

 序曲はいとも軽快に始まった。弦楽器が少なめなのはこういう地方まわりの団体では致し方のないものであるが、モーツァルトに於いてはそれほどの貧相さを感じるものではないことは、主部の各パートが単独で出てくる対位法的な部分で明らかになった。第2ヴァイオリンなどは5人ほどしか居ないのだが、十分な存在感を示していたものだ。しかし、全奏で金管楽器などが入ってくると、いささか力不足な感は否めないであろう。何しろ、トロンボーンが3本も加わるという大きな編成なのだからそこが目立ってしまうのは避けられないことではある。ただ、このトロンボーンがよく合奏の中に溶け込んでいたのに比べて、トランペット奏者の無神経とも言えるほどのだらしなさはどうであろう。ぴりっとしたところが全く感じられないそのいい加減な演奏は、最後まで全体の音楽の足を引っ張ることになってしまっていたのが、極めて残念である。

 幕が開いて、タミーノが登場するはずのところに、いきなり3人の侍女が現れたというのが、このユニークな演出の緒だったのであろうか。よくある大蛇のようなものはそこにはおらず、その3人の目の前で、タミーノは見えない敵を相手に闘うという仕草を演じるのである。これは、大がかりな大蛇の模型を作り、運搬する手間を省いた結果なのであろうか。それともきちんとした意図のもとに行われたことなのであろうか。しばらくすると、同じようにどちらとも判別の出来かねることが起こる。その3人の侍女が今まで着ていたかなり重そうなまるで着ぐるみのような衣装を脱ぎ捨てて、そのまま3人の童子になってしまったのである。その先にまた「侍女」の出てくる場面では、さっき脱ぎ捨てて舞台袖に置いてあった衣装の中に「入り込ん」で、また侍女として登場するという仕掛けである。童子になった時には、仕草もわざとらしいほど幼いものに変えてしまい、歌い方さえも変わってしまうというほど、その変身ぶりは見事なものなのであった。もとより、この役は少年たちが演じるものなのであるから、年端もいかない児童を長期間外国に同行させることはまず不可能であろう。であるから、大人の女声に歌わせること自体には異論はない。しかし、それを侍女との二役にさせるなど、まさに前代未聞のことである。これが、言ってみれば3人分のキャストの出演料を浮かすためだけの姑息な手段なのか、はたまた確固たる主張を持った演出上の措置なのかは判然としないところではあるのだが、私はあえてこの中に意図的なものを認めるのも吝かではないという態度をとってみる。考えてみれば、この3人の童子ほど存在の曖昧なものもない。そもそもは夜の女王の一派として、タミーノたちの護衛の役を担って派遣されたものなのであるが、善悪の役割が物語の途中で唐突に入れ替わるのと同時に、この童子たちも(これは決して「おやぢギャグ」などという低俗なものではない!)見事にザラストロの側の勢力となってしまうのである。この不条理性を強調し、言ってみればプロットの破綻を正当化させるための手段として、「本来は侍女と同じものであった」という事実をはっきり見せしめるという方策を講じたのではないだろうか。そう考えると、第2幕の大団円でその前の場では夜の女王側に寝返っていたモノスタトスまでが合唱に加わって美と叡智を声高らかにたたえているのも、確かに理解できるのである。これも、断じてコーラスの人員が足らない事実を隠匿するための姑息な手段などではないのである(と言っておこう)。

 音楽面では、第1幕のパパゲーノたちがムーア人に囲まれて窮地に陥っている時に鈴の音によって救われる、という場面で聞こえてきたその「鈴の音」には、驚いてしまった。私は、ここではいつもの通りチェレスタの妙なる響きが聞こえてくるものと思っていたのだが、聞こえてきたのはまるでおもちゃのピアノのようなキンキンした調子っぱずれの音だったのだ。なんでも、それは「グロッケンシュピール」という楽器らしい。私のように古い人間には、ここでチェレスタを用いるのが当たり前のような先入観があったのだが、私が寄稿しているこのサイトのマスターあたりはもっと柔軟な頭脳の持ち主らしく、このような事実を調べ上げて居るではないか。どうやら、今最も新しいCDとして最近発売になったアバドのものでも、ここにはその「グロッケンシュピール」が用いられているというのである。私の知らないうちに、世の中の趨勢はこのような本来の楽器を使うという方向に向かっていたのであることに、図らずも気づかされたのだった。そう言われてみれば、この、シカネーダーが作り出した猥雑な歌芝居の中では、あのリヒャルト・シュトラウスが「薔薇の騎士」の中で頻繁に用いたこの華麗な楽器の方こそが似つかわしくないものであることは、火を見るよりも明らかなのではないか。
 これは、第2幕でも有名なパパゲーノのアリアの伴奏で用いられていた。その音色とともに、演奏の困難さから来るある種の稚拙さが、この歌に言いようもない素朴な味わいを与えていたと感じたのは、私だけだったろうか。


 演奏の方は、しかし、決して高い水準のものではなかった。連日各地で公演を続けている疲れからだろうか、最初に登場したタミーノや侍女たちのいかにもコンディションをつかみかねている歌い方には、失望を禁じ得なかった。パパゲーノにしても、いかにも緊張感に欠ける投げやりな歌い方にはがっかりしたものだ。しかし、タミーノは後半には立ち直り、見事なリリック・テノールを披露してくれていたし、侍女たちも、童子を同時に(!)演じていたせいなのか、次第に固さがとれて心地よいアンサンブルが出来るようになってきたのは、何よりであった。
 そして、日本人としてただ一人参加していた菅英三子のことにも触れなければいけないだろう。第一幕のアリアこそ、やや不調なところはあったものの、第二幕の「地獄の復讐」という有名なアリアでは、他の出演者を圧倒する張りのある声と、見事なコロラトゥーラを駆使して、完璧な世界を作り上げていたものだ。彼女の演奏が舞台の空気まで変えてしまったのは、次の場でのザラストロが、それまでにも増して元気のよい立派な声で歌い出したことでも分かるであろう。

 ただ、当夜の聴衆がいつにも増して低い水準のものであったことも、触れないわけにはいかないであろう。オーケストラなどは多少見にくい位置にあったものだから、そこを目当てに来た人であろうか、終始立ったままで居たのは非常に目障りであった。さらに、前の席に座っていた若い男女などは、男が女の腰に手を回して居るではないか。ここは神聖な演奏会場なのである。円山町や鶯谷あたりの安宿と勘違いしている輩が来るところではない。そんなものは見さえしなければ済むことなのだが、拍手のタイミングの悪さには呆れかえってしまった。歌手が歌い終わった時点で、盛大な拍手が起こってしまうのである。ぜひともきちんとオーケストラの後奏が終わってから、拍手をしてもらいたいものだ。その程度なら許されるのであるが、先ほどの菅さんのアリアの時などは、まだ歌が終わっていないのに間奏の部分で拍手をしている大馬鹿者が居たのには、怒りを通り越して情けなさが募ったものだ。確かにここは演歌の人たちもよく使う会場には違いない。しかし、今はオペラを演奏しているのである。菅さんの歌を演歌に貶めるような輩の来るところでもないのである。


当コラムの執筆者のペンネーム「吉田ヒレカツ」は、高名な音楽評論家吉田秀和氏からインスパイアされたものですが、コラムの内容も含めて、吉田氏ご本人とは何の関係もありません。

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