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音楽展望
吉田ヒレカツ
ウェストサイド物語の異稿

2007112日  四季劇場「秋」

2007/11/8記)

 私が最初にこのミュージカルに出会ったのは、もちろん映画を通してであった。1962年頃であったろうか、映画館の前には「あなたはもう『ウェストサイド物語』を体験したか」といったような扇情的な惹句で飾られた看板が立っていたものだった。それは、単なる一映画の公開ではない、殆ど社会現象と化した出来事だったのである。70oというのであろうか、もしかしたら「シネラマ」だったかもしれないが、その大画面の中で踊りまくるチンピラどもの迫力には圧倒されたものだった。そして、その音楽を作ったのが、当時すでにニューヨーク・フィルの音楽監督という地位にあったレナード・バーンスタインだったことによって、まさに衝撃的な印象が与えられたものだ。彼の音楽はおよそミュージカルらしからぬ厳しいものであった。作品全体が「ド・ファ・シ」という非常に不安定な音列で支配されているといった具合に、それはまさに同時代のクラシック音楽と何ら変わらない高度な技法が駆使されているものであった。ヒット曲となった「トゥナイト」にしても、甘い旋律とは裏腹に、とても複雑な転調を重ねている。そして、その音楽がジェローム・ロビンスの、こちらも妥協を許さない厳しさを持つ振り付けと融合することによって、ミュージカルという範疇には収まらない「オペラ」であり「バレエ」でもある作品が誕生していたのである。

 この作品の本来の形である舞台での上演を見ることが出来たのは、1977年のことだった。それは日比谷の日生劇場での「劇団四季」による公演である。今では、ミュージカル・カンパニーとして押しも押されぬ地位を獲得している劇団四季であるが、この頃はまだそれほどの力は付けていなかった時期ではなかったかしらん。ただ、ミュージカルに対する熱意だけはどこにも負けないものを持っていたようで、1973年にはこの「ウェストサイド物語」をいち早く日本人だけの配役で上演をしていたのだった。従って、これはこの団体による2度目の公演ということになるのであろう。
 正直、これに関しては特段印象に残るようなものはなかった。映画の情景が頭の中に焼き付いていたものだから、舞台の上で踊られるダンスは、いかにも規模の小さい、こぢんまりとしたものに思えてならなかった。今ではマイクなどは小型になって、それぞれの役者が顔の近辺に取り付けているようだが、当時はまだそのような装置はなかったものだから、舞台の前には何本ものマイクが、さまざまな方向を向いて取り付けられていたものだ。動きの激しいものであるから、どの場所にいてもどれかのマイクには声が入るだろうということだったのであろう。
 ただ、この上演でひとつ驚いたことがある。伴奏のオーケストラはテープによる録音ではなく、ちゃんとその場で演奏されているものであったのだが、その指揮をしていたのが誰あろう高橋悠治だったのである。確かに、彼は当時はピアニストとしてのみならず指揮者としても活動はしていたのだが、それは例えばクセナキスの曲の日本初演といったような、彼の資質がぜひとも必要とされる場に限られていたものだった。もちろん、バーンスタインだって、紛れもない「現代作曲家」に違いはないのだが、この曲に限っては「ミサ」のような奇抜なところなど全くない、言ってみれば商業的な興行に耐えうるだけの安心さは保証されているというものなのである。そのような、殆ど日銭を稼ぐような仕事をなぜ悠治がやらざるを得なかったのか、さらに、なぜ劇団四季サイドがこのような場違いの人選を行ったのか、これは未だに私にとっては謎である。

 それから30年の間に、この曲を巡る環境も、そしてこの国におけるミュージカルの状況も大きく変わったのは当然のことだろう。とりわけ、1984年に作曲者のバーンスタイン自身が、この作品をオペラ歌手を起用して録音したことによって、そもそも備わっていたミュージカルを超えた資質がより明確になったのは明らかである。これを皮切りにして、クラシックの演奏家によるCDが続々出るようになったのが、その証左である。それに伴い、映画化されたときに行われた変更についても、人々は気づくようになっていた。それらのCDでは、例えば映画ではリフやベルナルドが殺されたあとにジェット団のアイスによって歌われる「Cool」という曲は、そのもっと前、決闘の打ち合わせをする場面でリフによって歌われているのである。そもそも「アイス」という役柄は、元々のミュージカルには登場してはいない(映画化によって変わった部分については、こちらに用意した)。
 日本のミュージカル・カンパニーも、この間に大いなる成長を遂げていた。劇団四季に至っては、数多くの才能ある団員を抱えるようになり、ロングラン公演では配役も一人だけではなく、常に二人、三人と用意できるだけの体制が整ってきたと聞く。それに関しては別の場所でも幾度となく言及してきたのであるから、今更繰り返す必要もないであろう。

 今回の公演が行われたのは、浜松町にある四季劇場での小さい方のホールである「秋」であった。今まで幾度となくここを訪れたものだが、もう一つのホールである「春」の方では生のオーケストラを使っているというのに、こちらはいつもテープによる伴奏であった。それはホールの大きさによるものだと思っていたのだが、席に着いてみると開演前だというのになにやら楽器の音が聞こえてくるではないか。舞台を見てみると、確かに前方にはオーケストラ・ピットが設営されていた。日生劇場と同じく生の演奏が聴けるとは、楽しみなことである。ただ、編成を見てみるとバーンスタインが指定した人数の半分もいないという小さなものであるのだが、これは最近の音響技術によって十分に修正できるということなのであろうか。
 舞台の幕が下りたままで、序曲が始まった。確かにオーケストラの響きはかなり薄っぺらなものであったし、特に金管楽器奏者などは連日の公演の疲れか、あるいは元もと技量が不足しているのか、なんとも情けない音であったのには、いささか失望させられた。しかし、打楽器群の醸し出す生き生きとしたリズムは、さすがに臨場感あふれるものであったから、多少のことには目をつぶることにしようか。序曲の間には、幕に映し出される照明の色が刻一刻変わっていく。これはまさに、あの映画の幕開けと同じやり方ではないか。映画の場合、その色に浮かび上がった幾何学模様が、マンハッタンの摩天楼群に重なり合うという衝撃的な場面転換となるのだが、これは果たしてミュージカルの初演の時から行われていたことなのか、はたまた映画の意匠を真似したものなのかは、それは私には分からない。
 幕が開き、「Prologue」が始まると、その映画と寸分違わない衣装に身を包んだダンサー達が登場する。そして、そこに繰り広げられたのは、まさにそのスクリーンの中そのものの世界であった。なんでも、今回の振り付けはジェローム・ロビンスの最初の振り付けを忠実に再現したものだということであるが、彼が舞台のために作り上げていた動きは、まるで最初からあのニューヨークの下町の広大な場所で踊られべきものであったかのような、並はずれたスケールを持っていたものだったのだ。そして、劇団四季のダンサー達は、その振り付けを完璧に再現していた。どこにでも登場しているあの有名なポーズ、ベルナルド達が左足を高く上げる場面では、彼らは映画の中よりはるかに高いところまで足を上げていたのだから。
 そして、圧巻は体育館でのダンスパーティーの場面であった。大人数でのアンサンブルは、まさに劇団四季のもっとも得意とするところであろうが、ここではそれが最大限に発揮されていたのではないか。中でも、「Mambo」の始まりの部分での圧倒的な存在感は、まさに感動に値するものであった。

 しかし、踊りはその通りとても素晴らしいものであるのだが、いかんせん歌が情けないほどのひどさなのである。主役の二人、トニーとマリアの歌い方は、殆ど素人の域を出ないものであり、トニーに至っては大きな声になるとがなり立てるだけ、小さな音になると完全に音程のコントロールを失ってしまうという、とてもプロとは思えないようなものだった。
 それともう一つ、歌が訳詞によって歌われていたことも、はなはだ感興をそいでいたものだ。それはこの劇団の方針であり、もちろんそれによって聴き手に親近感を与えてきたことは否定するものではないが、英語の歌を聴き慣れた耳には、非常に違和感を伴うものであった。逆に、これらの歌が日本語で歌われることによって、元の曲がいかに歌詞と密接なつながりを持ったものであったのかが如実に分かってしまうという、皮肉な結果をもたらしていたのではないだろうか。オペラの世界では、訳詞による上演というものはほぼ完璧に消え去っている。しかし、ミュージカルの世界でそれを実現することには、オペラ以上の困難が伴うことは目に見えている。本当に音楽を大切にするのなら、原語による上演は必要なことなのであろうが、おそらく聴衆はそれを望んではいまい。
 ダンスに関してはここまでの水準の公演を実現しているこの劇団なのだから、いつの日か音楽的にも満足のいくものを提供してくれるだけのものに成長してくれることを、切に望むものである。


当コラムの執筆者のペンネーム「吉田ヒレカツ」は、高名な音楽評論家吉田秀和氏からインスパイアされたものですが、コラムの内容も含めて、吉田氏ご本人とは何の関係もありません。

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