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音楽展望
吉田ヒレカツ

2003年2月6日  宮城県民会館

2003/2/7記)

 2月に入り、冬の寒さも峠を越したと見えて、日中などは穏やかな日差しの中に確かな春の訪れを感じることが出来るようになった。しかし、ここ仙台では、だいぶ前に降った大雪が、未だ溶けずにあちこちに積み上げられたままでいるという、いかにも北国らしい風情が残っているのには、感じ入ってしまった。この地では、この雪が溶け去って、初めて春が体現できるのではないかしらん。
 今回足を運んだのは、チェコのプラハからやってきたオペラの公演である。プラハのオペラといえば、確か一昨年にもこの仙台にやってきて、ヴェルディの「アイーダ」を見せてくれた団体があったものだ。しかし、今回のものはそれとは別の団体ということだ。そのあたりの、プラハの歌劇場に関する事情を、この際だから少し確認しておくのも、悪くはないのではないか。
 現在、プラハでオペラを専門に上演している劇場は3つあるといわれている。プラハ国立スタヴォフスケー劇場(Stavovské Divadlo)、プラハ国民劇場(Národní Divadlo)、そしてプラハ国立歌劇場(Státní Opera Praha)である。前回「アイーダ」をやったのは、かつて「スメタナ劇場」と呼ばれていたプラハ国立歌劇場、そして、今回聴こうとしているのは、それとは別のプラハ国立スタヴォフスケー劇場というわけである。ちなみに、プラハにはオペレッタやミュージカル専門のカルリーン・プラハ・オペレッタ劇場(Karlín Hudebni Divadlo Praha)という劇場もあり、ここもやはり昨年この仙台で「こうもり」を上演していたと聞く。

 このスタヴォフスケー劇場と言えば、かつてモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」の初演も行われたという由緒ある歌劇場ではないか。もちろん、今回の演目「フィガロの結婚」も、モーツァルト自身の指揮で演奏されたこともあるという、いわば極め付きのオペラハウス、ワーグナーで言えばバイロイトにも相当しようかというほどの格式の高いものである。そのような過去の栄光を歴史として持っているこの団体が、日本のような島国の、さらに首都からは遠く離れた地方都市にまで、何度となくはるばる巡業の旅に出なければならなくなってしまうに至る事情に関しては、残念ながら全く知る由はない。しかし、聴く方としてみれば、そのような伝統ある団体の演奏を手軽に楽しめるのだから、これほど好ましいことはないのではないかしらん。
 事実、序曲の最初の音が聞こえてきた瞬間、このオペラハウスの持つ底力のようなものをいやでも感じないわけにはいかなかった。あくまでやわらかな弦楽器の響き。第1ヴァイオリンが8人という、モーツァルトを演奏するにしてもやや少なめな編成ではあったが、そのふんわりとした肌触りの音色は、とても魅力にあふれたものだった。管楽器も、時にクラリネットあたりは、独特の粘りのある響きでもって、私たちを十分に楽しませてくれることになる。第2幕でのケルビーノの有名なアリア「恋とはどんなものか」の序奏では、ビブラートをたっぷりかけた、まさにチェコならではの濃厚な演奏が聴けたのだから。指揮者はヤン・ハルペツキーという若手、幾分早めのテンポで、小気味良く音楽を運んでいくさまには好感が持てた。全曲暗譜で指揮をしていたのも印象的なことだった。私が座った場所は3階席のもっとも前に出たバルコニーで、オーケストラ・ピットがじつに良く見えるところだが、しばらく出番のない奏者たちが適宜出入りをしている様子などがつぶさに観察できて、なかなか興味深いものがあった。ティンパニとトランペットなどは、フィナーレしか仕事がないと見えて、幕の始めには空席の時が多かった。逆に、チェンバロ奏者は、レシタティーヴォ・セッコがなくなるフィナーレには、いち早く退席していたようだ。

 歌手たちは、格別飛び抜けたものはないものの、過不足のない出来であっただろうか。もちろん、誰一人として名前を聞いたことがある人はいなかったが、スザンナ役のシモナ・シャトゥロヴァーあたりが、最も安定したものを聴かせてくれていた。ロジーナ役のイヴェタ・イジーコヴァーは、素材的にはなかなかのものを感じたが、表現としては今一歩かもしれない。ケルビーノ役のカロリーナ・ベルコヴァーは、見た目は最も惹かれるものがあっただけに、今一つの力不足が残念だった。男声ではフィガロのフランチシェク・ザラドニーチェクが、声はいささか物足りないものの、最後まで安定したものを見せてくれていたが、アルマヴィーヴァ伯爵は、最初こそ存在感のある歌唱で期待を持たせてくれたが、それが最後まで持続しなかったのが悔やまれる。どの歌手も総じてアリアはかなり淡白、しかし、アンサンブルでは突出した人がいない分、まとまりのあるハーモニーが聴かれた。一方で、アリアを支えるオーケストラの表現力には、しばしはっとさせられる瞬間があったのが嬉しい。第3幕のロジーナのアリア「甘い喜びはいずこへ」でのオーボエのオブリガートのすばらしいことといったら。合唱も、オーケストラ同様、柔らかい響きであったことが印象に残る。バレエも、素敵だったなあ。

 演出についても述べなければいけないだろう。なんでも、昨年の2月に初めて上演したという新しい演出だそうで、いかに旅回りとは言え、このようなきちんとした演出を持ってくるのには、並々ならない意欲を感じることが出来るのではないだろうか。装置や衣装はごくオーソドックスなロコロ調のものだが、細かいところで演出家(ヨゼフ・プルーデク)の斬新な感覚が光るものだった。第1幕では、花嫁と花婿の衣装が立てかけてあるが、スザンナがそれを伯爵に見たてて主人に狼藉をはたらかれる様を極めて分かりやすく描写するあたりは、思わずにんまりしたものだ。幕切れ、「もう飛ぶまいぞ」の間にケルビーノがからかわれるあたりも、バルバリーナまでが登場してちょっとどぎつすぎるほどのリアリティを示していた。第2幕は、最初からロジーナが置かれている立場が痛いほど伝わってくる設定になっている。伯爵夫人ともあろう人が、昼日中から床に座りこんで酒をあおっているのだから。第3幕は、なんと伯爵がグリーンでゴルフをしているという設定。最近の、時代設定を現代に置き換えた演出などよりよほど衝撃の大きいものになっている。第4幕は、もともとかなりゴタゴタした話の運びだから、どうやっても錯綜した状況をうまく見せることは出来ないものだが、大幅にカットを施したことにより、かなり分かりやすいものにはなっていた。
 いつも感じることだが、字幕の完成度の高さはどうだろう。タイミングは、計ったように正確だし、なによりも訳がこなれていて気持ちが良い。この訳は、テレビの放映の時にも大いに参考にしてもらいたいものだ。なにしろ、テレビときたら、未だに昔ながらの武石某の欠陥だらけのものを使っているのだから。それにしても、宮城県民会館で「エロおやじ」とは。


当コラムの執筆者のペンネーム「吉田ヒレカツ」は、高名な音楽評論家吉田秀和氏からインスパイアされたものですが、コラムの内容も含めて、吉田氏ご本人とは何の関係もありません。

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