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音楽展望
吉田ヒレカツ

2001/11/22

 プラハ国立歌劇場というのが来日して引越し公演を全国各地で行っているという。この歌劇場、以前は「スメタナ劇場」と言われていたもので、モーツァルトが「ドン・ジョヴァンニ」を初演したことで有名な歌劇場とは別なものらしい。公演スケジュールを見ると、連日あるいは1日置いただけで別の土地に移るという強行軍、そこで、地方都市の、オペラを上演するには必ずしも適しているとは言えない会場で、どの程度のものが見られるかという好奇心を満足させるために、例によって仙台まで聴きに行くことにした。舞台装置などもおそらく簡素なものだろうし、音楽的にもそんな大したことは望めないだろうが、たまにはこんな「箸休め」も一興なのではないか。

 会場は宮城県民会館。開演時間は6時半であるが、オーケストラのチューニングが始まっても空席が目立つ。平日のこの時間に来るのは、かなり大変なことなのであろう。しかし、間際にたどり着いた人がたくさんいたものと見えて、幕開き前にはほぼ満席になっていた。
 舞台の両袖には、なにやら背の高いものが置いてある。どうやら、これが字幕を映写する機械らしい。私はオペラを今までに数限りなく見てきたものだが、殆ど外国で見る機会が多かったせいで、この、噂には聞いていた字幕機を実際に見るのは今回が初めてなのである。確かに、レーザーディスクや、最近のDVDに慣れた聴衆には、日本語の字幕というものはいまや欠かせないものになっているのであろう。たしかに、これは実際に体験してみるとなかなかいいものである。訳文はとてもこなれているし、何よりも歌のタイミングにきちんと合っているから、とても重宝する。もう一つ気付いたのは、プロンプターボックスがないということ。最近のオペラは演出が複雑になっており、歌手達は徹底的にリハーサルを行っていると聞いているが、そのような状況ではプロンプターに頼る必要がないほど、歌も演技もしっかり叩き込まれるのであろうか。

 配役は、アイーダがシモナ・ザンブルノ、アムネリスがイジナ・プシーブラッカー、ラダメスがフランチェスカ・ペトロッツィという、あいにく全く知らない人ばかり、もちろん指揮者のイジー・ミクラなど、知る由もない。何でも、あのホセ・クーラがラダメスを歌う日があったそうであるが、仙台にはこのようなスター歌手は来てはくれないのだろう。オーケストラも弦が異常に少ない編成、第1ヴァイオリンが4プルトというのは、ちょっと少なすぎやしないかしら。地方都市の場合は、オーケストラピットも狭く、フル編成では入りきらないという事情もあるのであろう。事実、ここ仙台でも、ハープだけはピットに入らず、ステージの上に出てしまっていた。ティンパニも2台だけ、ヴェルディで2台というのは、奏者もたいへんなのではないか。
 前奏曲が始まって、その心配は現実のものとなった。なんという貧弱な弦楽器。音量という点だけではなく、トゥッティのアンサンブルにも問題があるのであろうが、まるでオーケストラの響きが聴こえてこないのには失望させられた。舞台装置も、予想通りの簡素なもの、いかにも旅公演仕様といった、見るからに簡単に運搬できそうなセットである。
 オーケストラと同様貧弱だったのが合唱。したがって、このオペラの見せ場と言われる第2幕第2場の「凱旋の場」は、見るも無残なありさまだった。響きの薄いオーケストラと合唱がいくら頑張っても、勇壮さとはほど遠い絵空事が展開されているだけだった。さらに、私が座った3階席からは舞台のサイズと合わない床材が丸見えという見苦しさも露呈されていた。

 しかし、そのようなものとは全く対照的に、歌手達は本当に立派な歌を聞かせてくれたのには、正直言って驚いてしまった。先ほども書いたような、いわば無名の人たちばかりなのだが、彼(彼女)らの声、音楽性にはとても上質のものが感じられる。主役級ばかりでなく、端役に至るまで、誰一人として不満を感じる人がいないのである。たとえば、巫女の長を歌ったマリア・トカドルチコヴァー=ハーンあたりは、そのままタイトルロールでも通用するような立派なものであった。そんな歌手陣で特に感心させられたがアムネリス。独特の存在感のある幅広い声と表現力でもって、ドラマを緊張感あふれるものにしていた。したがって、先ほどの散漫な「凱旋の場」でも、後半にソリストたちが加わると、見違えるように舞台が引き締まってくるのであった。
 全体を見渡してみると、逆説的に聞こえるかもしれないが、この場面を敢えてスペクタクルに仕上げなかったために、却って「アイーダ」という物語全体のドラマ性を明確に伝えることに成功していたと言えるかもしれない。事実、第3幕と第4幕の進行は、最後まで思わず引き込まれるような緊張感に溢れるものだった。アムネリスは最後まで舞台を引っ張っていって、あたかもこのオペラの中心人物であるかのような(現実にそのような解釈もなされている)貫禄を見せていたし、1幕冒頭の「清きアイーダ」では堅さの見えたラダメスも、このあたりでは声にとてつもない伸びが出てきていた。あたかも、女たちに翻弄されまくった彼の人生を高らかに歌い上げるかのような歌唱は、不調の時のホセ・クーラの比ではないとさえ思えたほどである。この二人に比べるとやや疲れの見えてきたアイーダだが、それでも最後まで緊張が途切れるようなことはなかった。かくして、開演前に想像していたものよりは遥かに実りのある舞台を体験できたのである。
 幕間に休憩を取ったのは2幕と3幕の間だけという素早い進行で、音楽自体の流れが途切れなかったのも、好印象を与えた要因なのであろう。幕間に食事をするというような習慣のない我々には、この方が遥かに好ましい。

 仙台の聴衆についても、ほんの少し付け加えさせていただこうか。やはり、日常的にオペラに接する機会は少ないと見えて、拍手のタイミングなどは慣れていないようであった。オペラをよく知っている人であれば絶対しないようなところで盛大に拍手をしたり、拍手のためにきちんと間を空けているにもかかわらず、遠慮がちな拍手だったりと、チグハグなところは多々みられた。しかし、そのような場数の少なさを補って余りあるほど、機会の少ないオペラを楽しもうというひたむきさは、痛いほど感じられたものだ。
 不備な点がないわけではないが、これだけ充実したものを持って全国を回れる団体があるのであるから、ぜひ、このような機会を増やしてもらいたいものである。


当コラムの執筆者のペンネーム「吉田ヒレカツ」は、高名な音楽評論家吉田秀和氏からインスパイアされたものですが、コラムの内容も含めて、吉田氏ご本人とは何の関係もありません。

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