・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




〔063〕 中国の映画監督 日本人映画技術者の貢献を評価
【2004/07/15】

 田壮壮、張芸謀、陳凱歌など、中国の著名な映画監督の作品を技術面で支え続けた日本の映画録音技師・神保小四郎氏が、7月12日に亡くなられた。73歳だった。

 中国映画への関わりを通して、神保氏は二つの大きな功績を残した。中国映画に対する技術支援であり、日本と中国の交流を通しての人材育成である。

(陳凱歌監督『覇王別姫〜さらば、わが愛』を録音編集中の神保氏。東京・調布の日活スタジオ・センターにて)

 大映の京都撮影所で録音助手となった神保氏は、黒沢明監督 『羅生門』 や 『雨月物語』 の撮影に参加。その後、日活に移り、今村昌平監督 『赤い殺意』、藤田敏八監督 『エロスは甘き香り』、岡本喜八監督の 『大誘拐』 の制作に関わるなど、戦後映画史ともいうべき経歴の持ち主だ。

 90年代に入り、文化大革命後に映画制作を志した中国の第5世代が台頭してくると、ダビング(最終合成録音)で彼らの作品に積極的に関わりだす。第1作目は張芸謀監督 『菊豆』 で、予想以上の出来に満足した張監督はその後、『紅夢』 『秋菊の物語』 『活きる』 と続けて依頼する。

 張監督から高い評価を伝え聞いた陳凱歌監督は 『さらば、わが愛〜覇王別姫』 を、田壮壮監督は 『青い凧』 で神保氏を指名。この間、台湾の 侯孝賢監督 『戯夢人生』 なども手がけた。

 神保氏が関わった大半の作品がベネチア国際映画祭、カンヌ映画祭など、世界の主要映画祭でグランプリを始め何らかの賞を受賞した。

 『さらば、わが愛〜覇王別姫』で中国初のカンヌ映画祭グランプリを獲得した陳監督は、「完成した最終合成録音を聞いた時点で、受賞の確かな手応えを得た」と振り返り、神保氏に謝辞を述べたことがある。

 神保氏はときおり、「操作する機材の指先に汗がたまった」と述べていた。ダビングは強い緊張感に迫られながら、わずか一分程度の場面を仕上げるのに一時間ほどかかる根気のいる作業で、スタジオにこもり監督らとともに一作品の完成に二ヶ月ちかくが費やされる。

 田、張、陳の三監督は神保氏を、「老爺子」と呼んだ。中国で撮影・制作された作品が、日本を経て世界へ羽ばたくことが出来たことへの、三監督ならではの敬意を表した呼び方である。

 こうした実作業のかたわら、神保氏はアジアの若手映画技術者を積極的に日本に招き入れ、研修を受けさせた。この10年間で、中国のほか、インドネシア、ベトナム、マレーシア、フィリピン、モンゴル、韓国などから来日した研修生は総勢20人を超えた。

 「日本人の映画制作に対するひたむきな誠実さを見せてくれた一方で、自国の考え方や制作方法を尊重し、決して押しつけることはなかった。日本と中国の文化の差異を気づかせてくれた」

 中国人研修生は、日本での撮影所やスタジオでの研修生活をこう振り返る。

 低迷、不振といわれる日本映画だが、実は日本映画の制作現場における高い技術の伝統は絶えることなく受け継がれ、しかも神保氏を通して中国やアジアの国々の若手技術者にも伝えられてきた。

 ところが作品や俳優を無批判に絶賛することだけしかしない、芸能誌となる日本の映画雑誌や評論家といわれる人々は、制作現場の技術者のひたむきな姿勢に注目することさえしていない。神保氏の中国映画への関わりや、国境を越えた技術の後継者養成に対しても、正当な評価どころか着目さえしようとしなかった。

 田監督は神保氏の訃報を聞き、「この十数年間の付き合いの中で友情を結ぶことができ、友情は国境や国籍、言葉の壁を越えるものであった」と、すぐさま言葉を寄せた。

 映画制作の核心の一つが制作現場であり、制作スタッフであり、技術者であるという自明の理を、さらに日本映画人の情熱や技術力の高さを評価したのが中国映画人であるというのは痛々しいが、田監督の次の言葉でその心証を強くさせる。

 「神保氏の存在は、中国映画人たちに強い影響を与えた」  

◆ 君在前哨/中国現場情報 ◆





君在前哨/中国現場情報
 トップ・ページへ  返回首頁