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〔060〕 歴史として伝えられ始めた眷村は台湾の変化を映し出す
【2004/05/12】

 「総統選挙で国民党が敗北すれば、国民党はカネも人も失う危機に直面するだろう」
 3月の総統選の最中、台湾の記者はこう予測していたが、それが現実となり始めたようだ。日本の社民党同様に、党専従職員の削減策や組織の縮小を国民党が打ち出したと伝えられるなど、かつての政権政党は衰退の歯止めをかけられない。

 国民党の党勢にかげりが生じ始めた理由はさまざま指摘されるが、得票数低下の具体的な理由の一つに眷村の崩壊をあげる台湾人がいる。

 国民党が台湾に逃れてきて以来、眷村は“軍人村”として外省人のより所となり、台湾における少数派としの危機感から国民党の基礎票をはじき出してきた。ところが都市の再開発が進み、眷村は今や歴史的遺物となろうとしている。

 それを印象づけるのが、眷村博物館の出現だ(眷村の詳細については記事 「〔014〕テレサ・テンも生まれ育った台湾の軍人村 − 眷村」を参照してください)。

 2002年12月、新竹市に台湾初の眷村博物館が誕生した。日本では新竹は米粉の名産地あるいはハイテク関連工場の集積地として知られるが、1949年以来、台湾海峡をはさんで大陸と向かい合う新竹には主に空軍が駐屯し、多数の軍人と家族、関係者が移り住んだ。
(眷村を英語でMilitary Family Villageと記す新竹市眷村博物館の看板)

  眷村博物館によれば、60万人を超す国民党軍部隊が台湾各地に散り、新竹にはもっとも多いときで46の眷村が存在したという。台湾に移って間もない数年間、外省人は学校や寺、倉庫などに身を寄せた。

 やがて竹や泥で造られた粗末な家が建ち並び、外省人だけが住む眷村が誕生した。当初、住宅整備がなされなかったのは、数年で大陸に反攻できるため、仮住まいでじゅうぶんだとされたためだった。

 眷村博物館内には、ベッドや風呂桶、鍋、釜など当時の生活道具、「大胆守備」など台湾を大陸への反攻基地とするスローガンを染め抜いた軍服、昨年、死去した蒋介石夫人の宋美齢を称えるポスター、あるいは国民党幹部がたびたび眷村を訪問し、国民党がいかに眷村を重視していたかを示す多数の写真などが展示される。
(宋姓に夫の蒋姓を付けた冠姓で「蒋宋美齢女士」と記し、「眷村の偉大な母親」と称えるポスター)

 しかし外省人も第1世代から第2世代へと中心が変わり、故郷とする大陸とのつながりが薄くなりつつある。しかも眷村の取り壊しで、かつてのような外省人と本省人という明確な住み分けもなくなった。

 今回の総統選挙でも本省人が中心となる民進党が各地で得票数を伸ばした背景には、台湾で生まれた外省人に台湾人意識が定着してきたためだとする考えが現地では大勢を占める。

 辛辣な発言をする台湾人の中には、「征服者である外省人が行き場をなくしたことを自覚し、台湾に同化せざるを得なくなった証拠」と断定する人さえいる。

「眷村の歴史、文化、文物は永遠にすたれることはない」と博物館は記すが、ここにこそ外省人の危機感がにじみ出ていると、見る本省人もいる。


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