・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




〔021〕 日本と中国、映画製作の関わりは創生期から
【2003/02/01】

 中国に初めて映画を持ち込んだイギリス人と中国人の交流を描いた『西洋鏡/映画の夜明け』(胡安監督/北京映画製作所、2000年製作)が、ようやく日本でも公開されだした。1900年代初頭の北京を舞台とする、フィクションドラマである。

 この作品の舞台となる清朝末期は、日本と中国とが映画製作で関わりを持ち始める時でもある。日本に映画が初めてもたらされたのは1896年。エジソンのキネトスコープが輸入され、神戸で初公開される。翌1897年からは日本人による映画製作が始まった。

 一方、文化大革命が始まった直後に、江青や張春橋が「大毒草」として批判し存在そのものが否定される中国側の映画資料によると、中国で最初に映画が上映されたのは日本と同じ1896年、上海で『西洋影戯』と題された外国作品だった。

 その9年後の1905年、中国人が最初に映画製作を手がける。記念すべき初作品は、京劇俳優を撮影した『定軍山』だ。

 1905年といえば、清朝専制政治の打倒と統一独立国家の樹立を目指し、東京で興中会、華興会、光復会の革命三派が大同団結し中国同盟会を結成。総理に選ばれた孫文が民族・民権・民生を掲げ、後に三民主義と呼ばれる三大主義を発表した年である。

 『定軍山』の撮影で使用されたカメラは、フランス製の木枠できた手回しによる撮影機、天安門前で撮影機材店を開いていたドイツ人から購入したという。

 そのカメラは、映画誕生100周年を記念して製作された『リュミエールと仲間たち』のために、1995年に張芸謀が万里の長城で使用したのと同機種だと思われる。もしそうだとすれば、一辺が30センチにも満たない正方形に近い小型カメラ、シネマトグラフではないだろうか。

 『定軍山』の製作者、任景豊は瀋陽出身の東北人で、今から110年ほど前に、日本に留学し写真技術を勉強した人物。帰国後の1892年から、北京の琉璃廠で唯一の写真館となる豊泰照相館を経営、続いて映画館も開設する。

 無声映画であったが、動く映像に興味を持つ観客が多数押し寄せたという。自信を得た任景豊は『定軍山』に続いて、翌年には再び京劇役者を撮影するが、1909年に豊泰照相館は火事で焼失、任景豊の映画製作はここで途切れる。

 その跡地には学校が建っているということだった。琉璃廠周辺に住む人たちに、中国最初の映画誕生の地であること、あるいは任景豊や豊泰照相館について尋ね回ったことがある。

 だが、これらのことについて知る人物とはついに会うことができなかった。今では、このあたりのことを知っているのは、北京電影学院などで中国の映画史を勉強した人物くらいしかいない。

 しかし、任景豊を端緒として、映画に関わる事柄で日本から中国へ渡ったのは撮影技術だけではない。例えば、中国に根付いたものに日本語がある。

 「銀幕」「録音」「脚本」「大道具」「編集」「主人公」「演出」「芸術」など、映画製作に必要となる数々の用語は、現在では中国語として定着し使われているが、元をたどればいずれもが日本語だ。

 そういえば、「共産主義」「軍国主義」「資本主義」「共産党」「革命」「人民」「独裁」「政党」「自由」といった、中国共産党お得意の用語の数々も、実は日本から中国へ入った言葉。

 日本と中国の博物学史を専門とする中国人研究者によると、中国から日本へという過去、一千年近い文化の流れが、日本から中国へと逆流するようになったのは1880年頃から。

 中国では清朝衰退の時期、日本では明治維新により文明開化の時代を迎え、さまざまな西洋文化を日本が取り入れるのに躍起になっていた時代から日中間の流れは逆転し始めたという。

 最近では、「写真集」「人気」といった日本語が、中国の若者たちの間で使われだし定着化しつつある。

 技術や言葉の流れはとりもなおさず人の交わりの証であり、映画に関わる技術や言葉からみても、日中間のつながりの奥深さと広がりを改めて認識させる。


◆ 君在前哨/中国現場情報 ◆





君在前哨/中国現場情報
 トップ・ページへ  返回首頁