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〔016〕 あの人たちはどちらを向いているのだろうか
【2002/12/01】

 あまりになさけないことなので掲載すべきかどうか迷ったが、最近、こんなことを見聞きした。以下は、映画の試写会などで実際に見たり耳にしたこと。

*「俺の名前も顔も知らないのか?」

 辛口評論とかを売りにし大御所だといわれているらしい老人は、試写会の案内状を入り口で提示しなかったために入場を止められると、大声で怒りだした。若い係員にどなりまくって、案内状を投げつけた。それで、帰るかと思いきや、ちゃっかり観ていった。

*「あら、また会ったわね。先週の試写会かしら? 何を観たんでしたっけ、もう忘れちゃった。でも、いいわ、適当に原稿書いておくから」

 隣り合わせになった男性に対して、映画ライターとかいう肩書きを持っていることが自慢でしかたがない女性の一言。以前、初対面なのに、私が書いたのと言って映画雑誌に掲載されたという記事のコピーを見せてきた。行数は10行にも達していなかった。

*「今日、夕方の、あの試写会にも行くだろ? 一緒に行こうか? どうせ、おもしろくないだろうけど」

 観る前からおもしろくないと言っておきながら、その作品の紹介記事では、ベタぼめのオンパレード。しかも連れだって試写会をはしごする。試写会は業界の社交場と化している。

 過去には、こんな場面に出くわしたこともある。

*「私も、中国映画が大好き。大陸には素敵な俳優が多いわよね。レスリー・チャンが特にいいわ」

 中国と香港の区別がつかない。作品は香港で撮影され、言葉や風景から香港だとわかるはずなのに。テレビにもちょくちょく出る女性だった。

*「彼って、すっごい◎×△□なの。映画作りに熱中するあまりに、こうなってしまうのね。今回も、すっごくいい内容になってるわよ」

 作品をテレビで紹介するための録画撮り現場で。性差の境界を不鮮明にして評論家という肩書きを持つ人物は、スタジオに入る直前にスタッフから教えられた言葉をそのままなぞって発言。見てきたような嘘を言うというのは、このことでは。

*「マレーシアには独特の風習があって、・・・・・ね」

 アジア映画専門家というのが売りの人物はこう言うだけで、肝心な場面については言葉をにごした。マレーシアのイスラム教徒が習慣とする男の子の割礼を暗示する場面だった。

 アジア映画専門家というと大局的な見地に立っているようにみえるが、これはまやかしというものではないだろうか。例えばマレーシアとフィリピンとでは民族、文化、宗教、社会、価値観などはまったく異なり、映画表現には大きな違いがある。

 身近なところで考えてみればよくわかる。日本、韓国、北朝鮮、中国、台湾が東アジア地域内の国だとして、この5カ国の作品を一人が論じきれるだろうか。アジアだからとひとくくりにしたところで、何が同じで何が違うのかを認識することは非常に難しい。ましてや、民族、文化や価値観は国境線ですぱっと区切れるわけではない。

 映画にはそこに住む人たちの喜怒哀楽といった感情、あるいはおきてといったしきたりなどがつまっている。それだけに映画を映画とだけとらえるのであれば、おのずと壁にぶち当たる。

 タイ、ベトナム、インドネシア、ビルマなどの映画もあり、いずれもが多民族国家だ。アジア映画専門家という肩書きが成り立つこと自体、奇妙だ。

 心ある人もたくさんいる。しかし、その人たちの声が発せられる場は少ないうえに、ますますせばめられている。業界受けがよく、ほめ言葉を並べる人たちの声が大きくなっているのが現状だ。それだけに、こういう人たちはどちらを向いて仕事をしているのかつくづく疑問に思う。

 試写会の案内状ほしさに、配給会社が喜ぶ記事を書いているのだろうか。あるいはギョーカイと呼ばれる世界で自分の名を上げ、地位を築くことに関心が向いているのだろうか。

 毎回、2000円ちかい金と時間をひねり出して映画を観ている観客の姿が彼らに見えているとはどうしても思えないのだが。


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