・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




〔015〕 満州、中国、台湾、日本をめぐる人の絆
【2002/11/22】

 満洲映画協会(満映)で活躍された映画録音技師・高島小二郎さんが、この11月に亡くなられた。87歳だった。

 2年ほど前、話をうかがいに行ったことがある。1945年8月以降の共産党と国民党による国共内戦当時から新中国建国直後にかけて、高島さんが東北電影公司や長春電影製片廠(映画製作所)の設立に関わったこと、映画『青い凧』などで知られる監督・田壮壮の父・田方に会ったときの話を聞くためだった。

 37年8月、満州国の首都・新京(現・長春)に設立された国策会社・満映は、日本敗戦直後の45年8月20日、理事長・甘粕正彦が自決し崩壊する。以後、満映は共産党と国民党のせめぎ合いの場となる。

 共産党は満映接収にあたり、延安から田方らを派遣する。田方は上海で映画俳優となり、その後、革命の根拠地・延安に入り魯迅芸術学院で講師を務めるなどした革命幹部。その田方らが、満映の日本人職員に接収協力を要請する。

 高島さんは当時をこう振り返った。
 「田方は穏やかで誠実な人柄だった。堕落した国民党員とはまったく違っていた」

 田方に対する印象はすこぶる良く、高島さんは申し出を了承する。10数名の元満映スタッフも協力し、満映の設備や機材を活用し、45年10月、長春に東北電影公司が設立される。

 しかし46年8月から、中国は全面的な内戦に突入する。最初は、アメリカから支援を受ける国民党軍が優勢をきわめた。長春にも国民党軍が押し寄せ、市街戦が始まる。高島さんらが住む住宅近くでも、銃撃戦があった。

 戦況不利と見た共産党は長春からの一時撤退を決定し、高島さらも同行を決断する。

 「電球一つ、絨毯一枚、ボルト一個、使用できるものはすべて運び出すことにした。ここ長春に必ず戻ってくるために」

 馬車や列車を乗り継ぎ、哈爾濱(ハルビン)を越え、さらに北上した。目的地はソ連国境にほど近い合江省興山、長春から700キロほど離れた現在の黒龍江省鶴岡市だった。

 「共産党の情報収集能力には驚かされた。あの混乱のさなか、安全を確保でき映画制作に必要な電力が確保できる町を共産党は探し出してきた」

 興山は炭坑の町だった。到着後、かつての日本人学校を作業場に、映画館をスタジオに変えるなどして、撮影所の建設をすすめる。

 その一方で、農場を作り自給体制も整え、東北電影公司は46年10月、東北電影製片廠(映画製作所)と改称する。田方は秘書長に就任した。ここで3年近くをすごし、映画制作を始めた。

 48年秋頃から共産党の八路軍が攻勢に転じ、長春を解放する。高島さんの決意通り、翌年、長春に戻ることができた。

 49年10月、中華人民共和国が成立。52年2月、東北電影公司は、新中国建国後初の撮影所となる長春電影製片廠と改称され、翌53年、高島さんらは日本へ帰国する。

 満映から長春電影製片廠にいたる間、高島さんらは中国映画人に映画制作の技術を教えた。その多くが、新中国建国後、北京や上海など各地の映画製作所に散る。

 この中に、呂憲昌という人物がいた。呂は『橋』や『中華女児』など、中国映画史において名作とされる重要な作品に参加した録音技師。彼が長春から派遣されたのは、田方が初代所長に就任した北京電影製片廠だった。

 やがて中国は本格的な社会主義制度の確立を目指し、反右派闘争、文化大革命へと動き、日本人と中国人との絆は途切れたかにみえた。ところが、1990年代に入り、思わぬ展開となる。

 94年、2人の若い中国映画人が来日する。一人は北京電影製片廠、もう一人は内蒙古電影製片廠所属の録音技師で、日本の文化庁招聘による研修生としてやって来た。彼らは陳凱歌や張芸謀のスタッフとして、母国で第五世代の映画作りを支えていた。

 10月から翌年の3月まで、日活などで研修を積んだ。このうちの一人、北京からやって来た技師は呂から録音技術を学んでいた。

 彼らを日本に導いたのは、神保小四郎さんだった。神保さんは台湾で少年期を過ごし、旧制神戸一中を卒業後、黒沢明の『羅生門』を皮切りに今村昌平監督らと仕事を行ってきたベテラン録音技師で、張芸謀の『菊豆』、陳凱歌の『さらば我が愛〜覇王別姫』、田壮壮の『青い凧』などの後期録音を依頼されていた人物。

 神保さんのこの仕事が縁となり、中国映画人は日本で台湾映画人とも交流の場をいくども持つことができた。その後、中国からは8人の研修生が来日する。これらの話を高島さんにすると、高島さんは目を細めた。

 「私がしてきたことも、少しは役に立っているんですね」

 満映から端を発し約60年。ごつごつと、ひしひしと、満州、中国、台湾、日本をめぐる人の絆は今も続いている。


◆ 君在前哨/中国現場情報 ◆





君在前哨/中国現場情報
 トップ・ページへ  返回首頁