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〔014〕 テレサ・テンも生まれ育った台湾の軍人村 − 眷村
【2002/11/11】

  「売れているものが売れなくなってしまう、その件に触れるのであれば協力できない」

 テレサ・テンのレコードを発売する会社の一人から取材協力を断られたことがある。テレサが台湾で発言している内容や生い立ちについて、彼女から直接、聞いてみたいと考えていたのだが、彼女の連絡先がわからず協力を頼んだ。

 断られた以上、自力で見つけ出すしかない。当時、テレサはフランスに滞在していると伝えられていた。そこで、天安門事件にからんでフランスに亡命した中国人に連絡をとってもらった。

 取材主旨を伝えると、彼女は快諾してくれ、近々、日本に行くといって、日本での連絡先を教えてくれた。しかしそれから数ヶ月後、彼女は急死、ついに話を聞くことができなかった。

 話を聞きたいと思ったのは、テレサが「軍中情人」(軍の恋人)と呼ばれ、2、3年に一度、台湾で陸海空三軍の兵士や関係者を前にしてコンサートを行い、「大陸の人々は私たちの帰りを待ち望んでいる。一刻も早く大陸に戻ろう」と叫ぶことの真意、彼女が生まれ育った眷村についてだった。

 この件について、台湾では公になっていたが、日本では報道されてこなかった。だからこそ、尋ねてみたいことがたくさんあった。外省人としてのテレサであれば、大陸反攻を口にしても少しも不思議ではなかったし、その理由として眷村で生まれ育ったことが大きく関係していると考えていたからだ。

 1995年5月、台北市第一殯義館で、中華民国国旗・青天白日満地紅と国民党党旗・青天白日旗で棺が覆われ、連戦・行政院長 (首相=当時)を始め蒋仲苓・国防部長(国防相=当時)、宋楚瑜・台湾省長ら台湾政府や国民党幹部が参列、李登輝・総統(大統領=当時)からの弔辞が読まれるテレサの葬儀と金宝山公墓での埋葬が行われた。

 国民党として最高レベルとなる華夏褒章や、国防部からは民間人に対してはもっとも栄誉とされる陸海空軍褒章が贈られてしばらくした後、彼女の生まれ故郷、雲林県褒忠郷龍岩村へ行った。

 斗六駅から乗ったタクシー運転手は、龍岩村にはテレサの家族はもう住んでいない、なぜあんな所へ行くのかと尋ねた。どんな眷村なのか見ておきたいというと、外省人ばかりでいやな所だと彼は顔をしかめた。運転手は本省人だった。

 1949年、共産党は勝者として北京に入った。一方、国民党は敗者として台湾に逃れた。勝者と敗者の違いはあっても、新天地に移った両者には解決しなければならない共通の問題があった。住居の確保だ。

 当時の人口約600万人といわれる台湾へ、200万人ほどの国民党関係者が流入した。共産党は北京で大院を建設し始めた。国民党幹部の一部は台湾から引き揚げた日本人の家屋に移り住んだが、圧倒的多数の兵士やその家族には住む場所がなかった。

 国民党は、軍人と家族のために日本人が生活していた地区や空き地に住宅建設を始める。とりわけ、都市部や大陸と向かい合う台湾海峡側の軍事基地となる地域に集中して建てられた。テレサの故郷となる龍岩村も、台湾海峡まで16kmほどの所に位置する。

 「最初は、木や竹にワラと泥を塗りつけた、雨風がしのげるだけの掘っ立て小屋がほとんどだった」と、河北省から来た元兵士が教えてくれたことがある。

 粗末な住宅しか建設しなかったのは、当時、国民党は「3年で大陸反攻、4年で共産党一掃」というスローガンを掲げ、大陸に攻め帰れると本気で思い込み、仮住まいとなる場さえ確保できればと考えていたためだ。

 建物は軍や部隊ごとに建設されることが多かったが、大院と共通項があった。塀で周囲の世界と区切り、本省人と接触しないで生活できる空間を確保した。これらが眷村と呼ばれた。

 やがて、「3年で大陸反攻、4年で共産党一掃」がはかない夢とわかり始めると、眷村は台湾での国民党軍の前線基地としての役目を負わされ、反党的な本省人への襲撃基地となり、恐怖と憎悪をいだく本省人が多くなった。

 「負け犬として逃げてきた者が、台湾で主人の顔をし始めた。あつかましいどころか、やつらは盗っ人だよ。眷村はそんなならず者が住む巣窟だ」と、はっきりした日本語で本省人の老人が怒りをぶちまけたことがある。

 本省人は、眷村を「軍人村」と日本語翻訳する場合がある。彼らは敗残兵だという軽蔑と、何かにつけて暴力をふるわれる恐怖心が入り混ざった、外省人に対する本省人の本音がこの言葉にはにじみ出ている。

 こうした経緯があり、台湾出身者と大陸出身者の対立は敏感な問題としてとらえられて、本省人と外省人の結婚は許さないという家もあった。対立は大人だけではなかった。

 台湾映画「クー(牛+古)嶺街少年殺人事件」(監督=楊徳昌/エドワード・ヤン)では、子どもたちの間でさえ本省人と外省人の対立があることを描写している。

 1992年、戸籍法が改正され、本籍地を書く欄は削除された。両者の対立をなくそうという狙いだったが、いまだに省籍の対立は一掃されたとはいえない。

 本省人は人口の80%近くを占めるが、政権の中枢は長く少数派の外省人が独占し、力ずくで多数派の本省人を押さえ込んできた。それだけに、1987年に戒厳令が解除され民主化が進んだ現在でも、もっとも対立が鮮明化するのは選挙だ。

 1996年、初の総統選挙が実施されたとき、台湾政府は天安門事件で各国に亡命した大陸出身者の台湾入国を許可した。そのうちの一人と一緒に、国民党や民進党の立ちあい演説会に出かけようとしたとき、台湾の関係者から国民党の集会では日本語を、民進党の集会では中国語を話さないようにと注意された。

 大陸の中国人と日本人が一緒にいて話す言葉の種類によっては、支援者を刺激するおそれがあるというのが理由だった。本省人は台湾語と中国語が話せるが、普段は台湾語(びん南語)しか使わない、大陸の中国人には好意をよせていない。外省人は中国語しかしゃべれないし、日本に対して反感を隠さない人も多い。

 この時の国民党系のテレビ局や新聞は、李登輝候補が眷村の改善に対し熱心に取り組んでいることをさかんに報道した。2000年の第2回目の総統選挙でも、国民党の連戦候補が早々と眷村を訪問し、眷村の住民も支持を表明するといった記事が目立った。台湾全土で約900ヶ所ほどの眷村があり、今も国民党の大票田として眷村は位置づけられている。

 しかし李登輝も連戦も実は本省人だ。李登輝はかつて岩里政男という日本名を持ち、京都大学の学生であったこともある。現在は国民党の党籍取り消し処分を受け、国民党批判を繰り広げている。

 連戦は西安生まれだが、日本の台湾支配を逃れて父親が大陸に移っていたときに生まれたものの、本省人と位置づけられている。眷村詣でを行わなければならかった二人の思いはどんなものだったのだろうか。

 現在、40歳半ばになろうとする台湾人がいる。彼は台湾生まれの台湾育ちだが、山東省出身の祖父が国民党軍とともに台湾に移ってき外省人だ。大陸への親族訪問が許可され、初めて大陸に行ったときのこと。

 成田を飛び立った飛行機が北京の空港に着陸した瞬間、座席から立ち上がり万歳と叫んでスチワーデスから注意された。故郷に戻れたといううれしさがこみ上げてきたためだという。

 彼は、外省人としての意識がとりわけ強い。手紙に自分の住所を書くとき、必ず中華民国台湾省と書く。アメリカ留学中、アメリカ人から中国人かと聞かれると、「私は中華民国から来た」といつも答えてきた。

 一般のアメリカ人には、中華民国と中華人民共和国の区別さえつかないことを知っていても、「中華民国から来た」と答えていた。意地だった。台湾人ではないし、大陸の中国人とは混同されたくないからいうのが口癖で、選挙では毎回、国民党候補に投票しているという。

 彼も眷村の出身だ。その彼がテレサの思いに触れたことがある。

 「眷村は、祖父母や父母の故郷の世界が凝縮された故郷だ。これは眷村育ちだけがわかりあえる思いであり、例え台湾にあっても眷村は大陸へつながる唯一の場所。ただし大陸とはいえ、中華人民共和国ではなく中華民国としての大陸だ。現実には無理だとわかっていても、台湾は仮の住まいという思いが染みついてしまっている。テレサとは同世代だけに、彼女にもその思いがあったと確信している」

 彼は軍関係者が集まったテレサのコンサートに行ったことがある。彼女の叫びも聞いたことがある。

 「テレサが、『一刻も早く大陸に戻ろう』と叫ぶことで、眷村育ちの私たちの気持ちがどれだけ救われることか。彼女の叫びは私たち無名の外省人の声でもあるんだ。その叫びに身震いしたのは、けっして私だけじゃなかったよ」

 徴兵され兵士となっていたときを思い出して、彼がよく口ずさむ歌がある。テレサが歌っていた「君在前哨」だ。兵士の間では好まれている歌だという。

 今日、あなたに私の思いを送る。あたたかく送ってくれてありがとう。あなたが前線で私を守ってくれる・・・。

 守っても攻め戻ることができなかった無念からか、外省人の中には大陸がのぞめる場所、あるいは大陸の方向に向けて自分の墓を立てる人も珍しくない。台湾社会に同化されていく少数者という焦りが、外省人の心の中にはある。一方、本省人は自らを台湾人と呼び、台湾人意識は独立を意味する台湾ナショナリズムへと結びつきだしている。

 北京の大院からは新北京人が誕生したが、眷村からは新台湾人が生まれるのだろうか。たかが塀に囲まれた住居とさえいわれたこともある。眷村は老朽化が進み、取り壊して再開発される所も多くなった。しかし塀に囲まれた住居から巣立っても、同化と融合を隔ててきたもう一つの塀を乗り越えるには、まだまだ時間がかかりそうだ。


◆ 君在前哨/中国現場情報 ◆





君在前哨/中国現場情報
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