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〔013〕 特権階級が生活する北京の特殊な区域 − 大院
【2002/10/20】

  『鬼子来了(鬼が来た)』で触れた姜文が育った中国の「大院」や、テレサ・テンが生まれ育った台湾の「眷村」とは何かという質問が寄せられた。中国語の大院と眷村、日本ではほとんどなじみのない言葉だ。

 党、政府、軍など主に国の指導機関に所属する党幹部や行政幹部、軍隊幹部といった国家職員用に建てられた、職場と住居が同じ敷地内に構成される区域を大院という。

 高い塀で囲まれ、住居区域には商店、レストラン、病院、郵便局、銀行などが整えられ、幼稚園から中学・高校までの教育施設が設置されているところもある。塀の外よりもはるかに快適な衣食住に関する生活環境が整えられ、限られた人たちのための小さな社会が大院内で形成されてきた。

 大院は北京の北部地域に集中する。ここで生活するのは新中国建国後に、北京にやって来た人々だ。私の友人たちで大院生活者をみても、両親の出身地は湖南省、山東省、上海など全国各地におよんでいるが、共通するのは抗日戦争や国共内戦に参加した革命幹部としての経歴を持っていることだ。

 新たな支配者として北京に入った彼らの住居不足解消と職務の効率化を上げる目的で、1950年代に入ってから大院の建設が始まった。

 日本の省庁に相当する、国務院直属機関の大院に行ったことがある。しかし外国人は立ち入ることができないため、塀の周囲をめぐることしかできなかった。黒塗りの高級乗用車が頻繁に出入りする大院とは対照的に、塀の周りには民家が密集しざわついた庶民の生活が広がっていた。

 その大院で生まれ育った息子は政府職員の道を選ばず、大院を出て生活していた。彼は結婚していたが、妻となった女性には大院に出入りする許可証が発行されず、両親を訪ねるためには毎回、手続きを行わなければ中に入れない。

 最近、夫の弟が外国人女性と結婚することになり、女性側の両親が挨拶のために訪中した。だが、この時でさえ中国側の両親は大院内にある自宅に招き入れることができなかった。

 その大院は重要な政府機関にふさわしく、正門で24時間、二人の守衛が出入りを厳しくチェックする。正門には、機関名を示す類のものはいっさいなかった。重要機関になるほど看板はなく、番号札が掲げられているだけだった。

 手入れの行き届いた2車線幅の並木道が正門から一直線に300メートルほどのび、その先は緑地帯になり道路は左右に分かれるよう設計されていた。大院内の様子を正門から見せないために、緑地帯に目隠しの役割をおわせているようだった。

 友人が書き記してくれた大院の内部は職場と住居区域が厳格に区分けされ、同居する家族であっても職場区域に入るには特別な許可証が必要だという。

 一度、大院の中へ潜り込んだことがある。軍の大院だった。ある作業が行われるため、大勢の作業員にまぎれこんで入った。5台の車が列をなして正門に進み守衛に書類を見せたが、守衛は車の中を覗き込むだけで中に入ることを許可した。

 しばらく進むと、住居区域に入った。3階建てのアパートが整然と並び、公園の中に住宅が建つといえるほど緑豊かな木々が生い茂り、大院の外の喧噪とは無縁の恵まれた生活環境が広がっていた。

 さらに2分ほど車で進むと、再びたゲートがあり、その前で軍服を着た二人の守衛に車を止められた。あらかじめ連絡されていたため、守衛は車の台数と人数を書類に記載された数字と照合し、中に入ることを許可した。

 到着した区域は職場区域だと説明されたが、平屋建てのレンガ造りの建物が並んでいた。建物のドアは鍵がかけられ、内部を見ることは不可能だった。屋外では軍服を着た若い兵士が隊列を組み行進の訓練を行っていた。ここで日本語を話せば外国人であることが発覚するため、人と話すことは厳禁された。

 同乗者の説明によると、この区域の奥にはさらにゲートがあり、守衛に許可証を見せ訪ねる人物の名を告げ、守衛が訪問先の人物と電話連絡して許可と確認が得られないかぎり、絶対に内部には立ち入れないという。

 北京を象徴する一つ光景に胡同がある。胡同に住む人たちは老北京人と呼ばれ、商店やサービス業に従事する一般庶民が多い。この老北京人に対し、大院で生活する人々は新北京人と呼ばれる。新北京人は新中国の主人となった特権階級であり、息子や娘たちにはこぞって高等教育を受けさせた。

 その結果、官僚や政府職員、学者や作家、映画界や放送局、新聞社などのマスコミ、あるいは親の特権を利用して実業家の道に進んだ者が多い。

 日本で知られる映画人でいえば、陳凱歌、田壮壮の両親も革命前からの共産党員であり、映画関係者であり、革命後に北京にやって来た新北京人だ。彼らが当初、住んだ場所は「宿舎」と呼ばれた。革命直後で、大院の建設はまだ着工されず、北京の中心部、故宮にほど近い老城区内の四合院が北京撮影所の宿舎としてあてがわれた。

 すでに取り壊されてしまったが、その四合院は清の時代に頤和園の修築材料が横流しされて建設されたと、住民たちの間でまことしやかに語り継がれた古い家屋だった。

 宿舎と呼ばれたのは、職場とは離れた別の場所にあったためだという。以前は、国務院宿舎、外交部(外務省)宿舎も存在した。50年代後半から大院の建設が本格的に始まり、北京撮影所内にも職員のための住居が建設された。

 このため、北京撮影所内も他の大院と造りはほとんど同じだ。塀に囲まれ、正門には守衛が立ち、職場と住居区域から成り立ち、商店や食堂などが住居区域に並ぶ。撮影所で生まれ育ったカメラマンの話によると、大院や宿舎育ちに共通するのは、外部の人に対する警戒心が強く排他的だという。

 政府系の大院で育った人物は、中学を卒業するまで大院での生活が一般的な生活だと思いこんでいた。彼は中学までは大院内に設置された学校で学び、高校生になって初めて大院の外にある学校に通学し始めた。そこで初めて、自分たちの話す言葉が一般の北京人の言葉とかなり違いがあることに気づくと同時に、生活レベルの差にも驚かされた。

 大院や宿舎の中には、映画を観るためのホールがあった。映画鑑賞券を手に入れるのに、何時間も並ぶことは一度も経験せず、映画は週末に自由に見られるものだと思い込んでいたという。

 文化大革命時、彼は紅衛兵になるには年齢的に若すぎたが、これが幸いし北京の親元で暮らせた。一つ上の紅衛兵世代が下放により農村で作業している時期、彼は親のコネを利用して欧米のロックやポップスのレコードを手に入れ、こっそり聞いていたという。

 「大院での生活は快適で、大院の外に出なくても日常生活に不便はなかった。それだけに、大院の住民は塀の外で暮らす“人民”の生活などに思いを寄せることはなかった。しかし、これが北京の都市としての機能整備を遅らせた。わざわざ混み合った公共バスに乗る必要がなかった。なぜなら、外出するさいには、職場の車を適当に利用することができたんだから。こんなありさまだから、行政職に就いた者でさえ公共サービスの向上など思いつくはずがなかった。しかし、もっとも大きな弊害は、恵まれた生活環境が大院の住民の特権意識をくすぐり、“人民”に対して優越感を持ってしまったことだ」

 大学卒業後、快適さよりも閉鎖性を嫌って大院を飛び出し、さらに自由にものを言えない国内の息苦しさに我慢できず、アメリカに渡った青年はこう言って大院を総括した。

 共産主義政党として、中国共産党は人民の平等をことあるごとに唱えてきたが、党がひとりよがりに理想としてきた良い階級としての革命幹部とその家族には、公私にわたって特権的優遇策をほどこしてきたのが実情であり、その象徴の一つが大院だ。市場経済化した現在でも、大院はいぜんとして高い塀で囲まれている。

 しかも、1949年以降、人間を出身階級により区分し格差を設ける制度は中国の基本的な社会構造となってきただけに、世界中の金儲けを企む人たちが熱い視線を注ぐ“驚異的な経済発展を遂げる現代中国”を牽引するというやり手の起業家の多くも大院育ちが多い。

 次回はテレサ・テンが生まれ育った台湾の眷村を紹介する。眷村は中国語だが、この言葉は中国ではほとんど知られていない。若い世代では、台湾映画「クー(牛+古)嶺街少年殺人事件」(監督=楊徳昌/エドワード・ヤン)を見て初めて知ったという人が多い。


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