「やあアンドレ。今日も早いな。」
 「これはフェルゼン様。おはようございます。」
 「昨日は楽しませてもらったよ。それにしても、オスカルは強いな。いや、実は先程オスカルを見かけたが・・・あれはそのように見せているのではないな?」
 「いえ、ご心配には及びません。まったく何事もなく平然といつも通りでございまして・・・フェルゼン様?」
 「・・・・・・い、いや、そうだと思っていたのだが・・・恥ずかしい話だが・・・本音をいうと私はかなり辛いのだ。」
 「それが普通でございます。オスカルは、なんと申しましょうか、底なしというか、そもそも底がないというか・・・・その・・・申し訳ありません。」
 「お前が謝る必要はないぞ。そうではなく・・・お前も大変だな。あれだけ飲むのが好きだという事は、オスカルが潰れたら・・・ありえないか?」
 「はい、あり得ません。」
 「・・・だろうな。とにかく昨夜は楽しかったよ。」
 「それを聞いてオスカルもきっと喜ぶでしょう。」
 「ああ。オスカルによろしく伝えてくれ。」
 「かしこまりました。フェルゼン様。」

 アンドレは貴公子と出会う。
その度に貴公子は走るのをやめて親友の従者に気さくに言葉をかけてくれる。それはアンドレ自身に対してだったり、オスカルの様子だったり、天候の事だったり色々だった。伯爵はアンドレから別れのあいさつを受けるとすぐに走り出す。 会う度にそれが繰り返された。

走るのは・・・忙しいからだろうし、よく出会うのは、伯爵が王妃のお気に入りとして宮廷に頻繁に出入りしているからだろう。それに、伯爵は背が高い。フランス人は総じて背が低いから、長身の北欧人である貴公子は目立つのだろう。だから目に留まるのだと、アンドレは考えていた。だが・・・

 最近妙な場所でばかり会うような気がするのだが・・・

一昨日は公演後の後片付け最中のオペラ劇場の壁沿いに走る伯爵と会った。あそこには使用人用の入口が目立たないよう壁の模様に合わせて作られていて見つけにくいが、伯爵には関係のない出入り口だし・・・・そうい言えばマダム・アデレードの音楽室の壁を押してたこともあったよな?あれも不可解だった。思い出したが、伯爵はいつも壁際を走っているんだよな? 邪魔にならないようにだろうけれど、いつも手が壁にあるような・・・まさか、隠し部屋を探しているとか?でもそんなもの探しても・・・

アンドレは、外務関係筋から仕入れた “フェルゼン伯爵はスパイではないか?” という話を思い出した。しかし、彼の人となりを知れば知るほど、そんな器用な芸当が出来るとは到底思えなかった。アンドレは貴公子の走り去って行った方向をぼんやりと見つめた。

気にする必要などないんだ。だって、普通に会ってもおかしくない場所でも会うし、するとオスカルが嬉しそうに・・・
アンドレは不意に暗い表情をすると目を伏せた。

オスカルは貴公子に惹かれていた。

それは、アンドレがいくら否定しようとしても否定できない事実であった。他の者なら知らず彼女のちょっとした変化ですら彼には一目で分るのだ。

アンドレは、手をぎゅっと握りしめると顔を上げた。
 「考えたってしかたないじゃないか。」
アンドレはわざと明るい口調で声にした。

そうだ、考えたって仕方ない。だって、伯爵はあらゆるものを持っている。地位に名誉に財産。見栄えのする容姿に誠実な人柄。礼儀正しく人当たりの良い態度等。探せば他にも色々あるだろう。もし、おれが女だったら・・・おれだってきっと惹かれるに違いない。女性であれば尚更だ。大体、大胆にも伯爵に告白した御方もいると聞いたし・・・まてよ、そう言えば2日ほど前に聞いたあの噂は・・・

それは貴公子についての艶聞で、一つは貴公子が女性よりも男性に興味があるという噂―――これは間違いなく悪意のある噂だ。―――そしてもう1つは女性に対して恐ろしく手が早い上に見境がないというもので、毎晩掛け持ちで乱交を繰り返していると―――これもアンドレは信じてはいなかった。―――が、今アンドレの頭にそれが現実の事として重く圧し掛かってきた。

もし昨日の深夜のあれが・・・王室礼拝堂で出会ったのが密会なら辻褄が合うではないか?ならばあの話は噂でないかもしれない。もしそうなら伯爵はオスカルに・・・
途端、アンドレは激しく動揺した。

貴公子がオスカルに対してそういう感情など一切抱いてはおらず、それどころか未だにオスカルを女性として見ることが出来ずにいるのは分かっていた。しかしである!オスカルは貴公子と会う時は必ずといっていいほどアンドレを置いて一人で出掛けるのだ。

そりゃあ、二人きりになりたいオスカルの気持ちは十分に分かる。だけど!だけどもし、万が一あの噂が・・・まるっきり真実ではないとしても一部でも事実なら?もしもフェルゼンがおれのいない時、おれのオスカルに手を出そうとしたら・・・・

心臓に鋭い痛みが走るのと同時に叫びそうになりアンドレは慌てて口を押さえると唇をかみしめた。

考えちゃいけない。考えて何になる?あれはあくまで噂なんだ。だからおれは・・・そうだ!おれは出来るだけオスカルを一人で会わせないようにすればいいんだ。理由なんて何でもいい。とにかく出来る限り二人だけで会わせないようにする為に・・・

 「なあ、どいてくれないか?」

アンドレは我に返ると声のした方を見た。見ると料理人が野菜を持って睨んでいる。アンドレはここがどこかようやく気付いて慌てて扉の前から退いた。料理人は不審そうな顔付きでアンドレをジロジロ見ながら扉を開けた。

 「お前も、隠し部屋探しか?」
 「いや、おれはただ・・・」

アンドレは言い訳しようとしたが、料理人はさっさと中に行ってしまった。アンドレは小さく息をついて・・・それから先程の料理人の言葉を思い出した。
隠し部屋探しって・・・そういやここは、鉄仮面の噂がある部屋じゃなかったか?

少し前、パリである芝居が評判を呼んでいた。それは鉄仮面にまつわる物語で、鉄仮面がルイ14世の庶子で、彼はベルサイユ宮のの隠し牢獄に幽閉されていたという何とも滑稽な物語であった。

しかし、鉄仮面の話はいつの時代でも人気がある。昔から鉄仮面の正体については様々な憶測が飛び交っていたにもかかわらず、謎のままだからだ。そしてそれに拍車をかけていたのが、「ルイ14世の大暗号」である。

ルイ14世の治世、王の元で暗号解読者として腕を振るったロシニョルという親子がいた。彼らは王の命によりすばらしい暗号を作りだした。それは後に「ルイ14世の大暗号」と呼ばれるもので、あまりにも複雑な暗号であった為、何人たりともその暗号を解読することが出来なかった。

この暗号を使い、王の秘密の手紙、機密文書が暗号化された。その為、いくら他国のスパイが文書を手に入れても宝の持ち腐れ。外交面においてフランスは他国に対し優位を保ち続けたのだ。

しかしこれにはおまけがついた。ロシニョル親子はこの暗号の解読方法を誰にも教えなかったのだ。つまり、彼らの死後、暗号化された機密文書は誰一人として読めなくなってしまった。そして、その中の一つに「鉄仮面」の正体について書かれている文書もある。わざわざ暗号化しなければならない「鉄仮面」の正体とは何か?

大勢の人間がこの暗号解読に取り組んではいるが、誰一人解き明かした者はいない。つまり、「鉄仮面」の正体は謎のままである。だから今回のように鉄仮面の話が注目を浴びるたびに鉄仮面探しをする輩が現れるのである。そして今回はその矛先がベルサイユ宮の隠し牢獄を探しという方向に向いていた。

アンドレはまたしても考え込んだ。
えーと、秘密の牢獄へ通じるという噂があったのは、ここ調理室と礼拝堂と音楽質と・・・????ということはあれか?伯爵も鉄仮面がここベルサイユ宮の隠し牢獄に幽閉されていたと信じてる口か?それならば深夜のあんな場所で会ったのも納得がいくじゃないか。そうだその方が納得いく!つまり伯爵は鉄仮面の謎に迫るべく・・・

 「お前・・・まだいたのか?」

その声にアンドレはびくっと顔を上げた。すると先程の料理人が呆れたようにアンドレを見つめている。アンドレは愛想笑いをすると、慌てて向きを変えると次の工事現場へと走った。