宮殿はヨーロッパに数多ある。その中でもベルサイユ宮は圧巻だ。

狩猟の為の質素な小さな館は、ルイ14世の意向により、50年という長い年月をかけて増改築が繰り返された。そして、ブルボン王朝の威信と絶対権力を示す宮殿へと変貌を遂げたのだ。

宮殿の天井には 名工の手により絵画が描かれた。壁面の漆喰の浮彫には、本物の金でメッキが施された。至る所で最高級の大理石が惜しみなく使われ、釘1本にすら彫刻が施された。特に当時の技術の粋を集めて作られた鏡の間は、他国にフランスの優位をまざまざと見せつけた。

噂を聞き、大勢の人々が宮殿へやって来た。そして宮殿を前に誰もが皆、言葉もなく立ちつくす。

何というすばらしさ!
金で出来た夢の御殿!
生きているうちに一度はベルサイユ宮へ!

見物人はますます増えて、宮殿の名声はますます上がる。しかし、そこに住まう人々にとって名声や称賛は何の意味も持たなかった。

増改築を繰り返した結果、宮殿はまさに迷路のようだったし、総大理石張りの暖炉は、冬になると凍りついた。金ぴかの幾何学模様の壁は毎日見ていると目眩どころか、気持ちが悪くなり気が滅入ってくる。華美に装飾された部屋はだだっ広くて寒々としていただけでなく、部屋同士が廊下で繋がれていないから、隣の部屋へ行くには部屋の中を通り抜けねばならない始末。

つまり、王の権力を象徴する壮大で重厚な豪華絢爛、華美華麗さは、住みやすさには少しも恩恵を与えてはくれなかったのだ。

これでは誰だって我慢できなくなる。そこで何がされるかというと・・・誰もが考える何の変哲もないことだ。つまり改装による快適性の追求である。

 改装には、様々なものがあった。
壁紙や家具が変わるような単純なものだけではない。一つだった部屋が2つになる、若しくはその反対。通り抜けできるはずの廊下にいきなり壁が出来る。又は壁に穴が開き、通路になる。それどころか、いきなり天井に穴が開いて階段が現れたりもした。こうなると警備上の由々しき問題である。またベルサイユ宮に出入りする工事人の人数も大きな問題だった。

届出はされていた。現実の出入りの人数も。勿論それらを監督する建設総局には、担当者も大勢いた。しかし、担当の線引きは曖昧で、その上「自分こそが責任者だ。」と皆が言い張った。つまり、多すぎて誰が正しく把握しているのかさっぱり分からなかったのだ。

功労の為に与える役職が足りなくて、同じような役職をたくさん作った結果がこのような事態を招いたのだ。
危機管理という点では、ベルサイユ宮の現状はお粗末以外何者でもなかった。

 だからオスカルは、宮殿で行われる増改築の管理を近衛がすべきだと上申した。
当然だ。誰もしないのなら、宮殿内の警備を掌握する近衛だけでも把握すべきではないか。

改装は、この宮殿の主を筆頭に絶大な権力を持て余している方々が思いついたように突然命じるのだ。その上!担当者を差し置いて、我々に工事内容と工期を提出してからでしか改装は出来ないなどという越権行為が通ると思うのかね?ジャルジェ大尉。

 彼女の上申は却下された。
しかしオスカルは諦めなかった。出入りする人数の把握は出来ないとしても間取りの変更だけは把握せねばならない。そして彼女は実行した。もちろん実行したのは彼女ではない。そしてそれが出来るのは一人しかいなかった。

だからアンドレはオスカルの警護―――誰からも忘れられがちではあったが、これがアンドレの真の仕事だ―――とその他山ほどの雑用をこなす時間を何とか遣り繰りしてべルサイユ宮を走り回り、あらゆる所から情報を集めた。

彼の人当たりのよさが幸いしたのか、それとも彼に優れた情報収集の能力があったのかは分からない。アンドレはオスカルの希望通り、必要な情報を収集してベルサイユ宮の正確な地図を作り上げた。

 しかし、これは頻繁に変わる地図である。この地図の正確さを保つ為には、絶えず調べ続ける必要があった。だからアンドレは調べた。これはオスカルが近衛を去り衛兵隊へ移るまでの十数年間、毎日続いた。アンドレは地図の為にいつもベルサイユ宮を走り回った。

 アンドレは走る。彼は今日もまたベルサイユ宮を走り回る。だがベルサイユ宮を走るのは彼だけではない。北欧の貴公子、ハンス・アクセル・フォン・フェルゼン伯爵もベルサイユ宮を走っていた。

【ベルサイユ宮殿について】
1. 改装や改築が行われていたのは間違いありません。ですがどれくらいの頻度で、またどの程度の規模まで行われていたのかは推測です。また予算の都合上、本物の金ではなくメッキの類も多用されていたそうです。

2.当時、建設総局という部署が、建築行政(都市計画から設計、予算から工事まで)を取りし切っていました。しかし予算に関してはかなりシビアだったそうですので、ここに書いたように簡単に工事とは行かなかったでしょう。ですのでここではあくまで、個人的な資金で工事がなされていたという設定です。また、建設総局にどれくらいの役人がいたのかは不明です。そして、いつの世もそうですが、時の権力者の意思と財政状況で工事の変更や停止や建築家の更迭は当たり前、未完のまま放置など日常茶飯事だったそうです。

3.ベルサイユ宮には絶えず3000人から10000人の人々がいたそうです。ですが実際に住んでいたのは王の家族、親族、それから王のお気に入りの廷臣だけです。(どの程度の人数が住んでいるかは不明)他の廷臣(貴族)と侍従は、ベルサイユ宮の外にある大共同館という建物の部屋を与えられ、そこで暮らしていた模様。

4.建築物に快適性(居住性)などが求められるようになるのは、18世紀後半になってからです。特に、廊下で部屋を繋ぐという発想がなかったようなのです。(理由は、召使の動線と分ける為らしいですが・・・よく分かりません)ですから快適性に目覚めつつあったベルサイユ宮に住まう方々も何とかしようとしたのではないかと・・・そうです、これもあくまで推測ですが。(^_^;)

6.しかし、居住性について考えるなら一番最初に考えなければならないのはトイレのはず!
昔、ベルサイユ宮で使用されていた便器の実物を見る機会がありまして(^_^;)、簡易トイレの存在には驚きました。まさかトイレの絶対数が足りなかったとは!想像すらしませんでしたよ。ええ。
意匠に回す予算をトイレの増加に使えたなら・・・評判も上がったでしょう(^_^;)。