強い風が吹き抜け、中庭全体がザァーと音を立てた。
オスカルは驚いて中庭を見た。しかしそこには何もなく―――風で葉が鳴っただけだ―――オスカルは苦笑して通り過ぎようとした。だがすぐに立ち止まると再び庭を見た。オスカルは訝しげな顔をすると目を凝らした。中庭にはカトル・セゾンが植えてあった。だがそこには葉があるだけで花はどこにも見当たらなかった。オスカルは暗い庭を見つめた。
カトル・セゾンは春と秋に花を咲かせる。特に秋は、日に日に冷え込みの厳しくなる中、そのピンクの大輪の花は強い香りと共に鉛色の風景に変わる冬の直前に最後の彩りを添えてくれる。オスカルは毎年、蕾が少しずつ開いていく様子を楽しみにしていた。なのに今年は最初の花がいつ咲いたのかも、いつ散ったのかも思い出せなかった。
気づかぬうちに散ってしまった。花はもう、どこにも無い。
オスカルは弾かれたように自分の部屋と反対側にある別棟の建物のある方角に目をやった。彼女の顔は不安げな表情に変わる。しかし彼女はそれを打ち消そうとするかのように頭を振った。
薬の所為でようやく熱も下がったと、ばあやが言っていたではないか。
オスカルは自分の部屋に歩みを進めた。その時、強い風が吹いて葉を鳴らした。
彼女は立ち止まると俯いた。オスカルは足元を見つめていたが、顔を上げると向きをかえて別棟の建物に走るようにして向かった。
オスカルはそっと扉を開けた。部屋の中は暗く、彼女は扉を開けたままにして明かりを探すとそれに火を灯した。彼女は音をさせぬよう注意して扉を閉めると寝台に近づいた。オスカルは寝台の横ある椅子に腰掛けると彼の顔を見た。
穏やかな寝顔だった。彼女はアンドレの額に手をやった。少し熱かった。だが高熱というほどではなかった。オスカルはほっとしたような表情をした。そしてすぐに呆れ顔をすると誰に言うでもなく呟いた。
「部屋で寝ているだけなのに、何故風邪など引くのだ?」
しかしアンドレは目を覚ます素振りもなく眠ったままだ。オスカルは微笑んでアンドレの顔をじっと見つめた。彼女は彼の顔に暴動に巻き込まれた時に受けた擦り傷が残っているのに気づいた。オスカルは思わず唇を噛んだ。
折れた肋骨が完全に治るまでに1ヶ月近くはかかるだろう。それから背中。わたしをかばった所為だ。あの時、辻馬車を拾ってショセ・ダンタンの詰め所へ飛び込んで軍医と共に服を脱がせると・・・
オスカルは思わず声を上げそうになり、左手で口を押さえた。彼女は暫くそのままでアンドレを見つめた。
アンドレからは規則正しい寝息が聞える。彼女は躊躇ったが彼の頭の横に自分の頭を置いた。オスカルはほうと、小さく息を付くとアンドレの顔をじっと見つめた。
眠っているアンドレはいつもより幼く見えた。オスカルは微笑むと右腕で彼の左肩を抱くようにして寄り添うと髪に顔を近づけた。アンドレの匂いがした。それは寝顔と相まって、子供の頃の彼を思い出せた。彼女の胸に懐かしさがこみ上げてオスカルは思わずアンドレの髪に触れてそっと口づけた。
“愛しているのですか?”
オスカルの表情が沈んだ。彼女は指を離すとアンドレを見た。アンドレは相変わらず穏やかな様子で眠っている。オスカルは身体を起こすとその様子を悲しげに見つめた。彼女は先程のジェローデルとの会話を思い返した。
ジェローデルはオスカルにアンドレを愛しているのかと尋ねた。婚約を解消する理由がアンドレだと言えば彼でなくともそのように考えるだろう。しかしオスカルは分からないと答えた。彼女にはそうとしか答えられなかった。それでもジェローデルは彼女の言葉に納得した。
「わたしと同じ・・・か。」
オスカルはぽつりと呟いた。
だからジェローデルはわたしの為に身を引くと言った。それとも言外に匂わせたわたしへの忠告だったのだろうか?
オスカルはクスリと笑った。
「そうかも・・・しれないな。」
オスカルは呟くとアンドレを見つめた。
アンドレの不幸がわたしの不幸であると言い切れるこの気持ちが愛というなら、わたしは確かにアンドレを愛している事になるだろう。それと失う恐怖。彼女は思い出して思わず身震いするとそれを抑えようとして手をギュッと握り締めた。
馬車が襲われた時、アンドレを失うかもしれないと気付いた時のあの恐怖と体の半分を持って行かれるような感覚。これはそう呼ぶべきものなのか?これが恋と言えるのか?
「・・・分からない。」
オスカルは小さな声で呟いた。
そのような対象として考えたことなどない。アンドレから思いを告げられた後ですら一度としてわたしは・・・・
オスカルは左の二の腕を強く掴むとアンドレから顔をそむけた。
「・・・欺瞞だな。」
オスカルは呟いた。
わたしにはアンドレの思いを受け入れられない。つまりはそういうことなのだ。今回の件でもわたしはアンドレに言葉一つかけられなかった。その挙句、どうだ。
オスカルは思わず目を閉じた。
運ばれた二つのグラス。正装のアンドレは、夜の祈りが済んでいるとわたしが答えると何故か穏やかに微笑んだ。それはまるで全ての苦しみから解放でもされたような表情だった。わたしはそれを見て不審を抱くどころか、久しぶりのアンドレの笑顔にほっとしたのだ。そしてわたしの手からグラスが払い落されるまで・・・否、瞳から涙が溺れ落ちるまでわたしは・・・
オスカルは深く息を吐くと閉じていた目を開くと悲しげにアンドレを見つめた。
わたしが追い詰めたのだ。一番幸せになって欲しいと願っているのに、わたしがしたのはそれだ。
オスカルは俯いた。
わたしにはおまえが望むようには愛せない。わたしの中のどこを探してもフェルゼンを愛した時のような思いは、あの喜びも切なさも期待も・・・
「何も・・・無いのだよ。」
オスカルは消え入りそうな小さな声で呟いた。
わたしはおまえに何もしてやれない。わたしに出来るのは・・・
“もう永久に会うことはできないな”
オスカルの脳裏に突然フェルゼンとの別れの言葉が浮かんだ。オスカルは顔を上げると驚いてアンドレを見つめた。そういう選択もあったのだと彼女は思い知った。だがそれは彼女にとって考えるどころか、今まで想像すらしなかった選択だった。
思いに応えられないなら?
「もう、二度と・・・会わない。」
彼女は呆然と呟いた。フェルゼンがわたしにしたように?それと同じ選択をアンドレにする?
「無理だ。」
オスカルは自らに問いかけたそれをすぐに切り捨てた。
「出来るはずがない!」
彼女は繰り返した。
長い年月を片時も離れず共に生きて来たのだ。アンドレのいない人生など考えた事もない。たとえそれがフェルゼンに対する思いとは違っても、これが恋でなくとも、それが何だというのだ!なくてはならない、大切でかけがえのない存在。わたしの・・・
「アンドレ。」
彼女はアンドレの寝顔に囁いた。
「アンドレおまえもそうだろう?」
アンドレは答えなかった。規則正しい寝息が聞えるだけだった。
彼女の胸に不意に痛みが走った。彼女は胸を押さえるとアンドレを見つめた。
わたしはおまえがいればいい。それでいい。だが、アンドレ。おまえはどうなのだ?
“もう、永久に会うことはできないな”
「違う!」
彼女は急いで否定した。
アンドレはそんな事は望んでいない。決してそんな事は望まない!
“何故そう言いきれる?” 心の中で別の自分が囁いた。オスカルは否定しようとして、だが今度は出来なかった。オスカルは呆然としてアンドレを見つめた。
「違うだろう、アンドレ?」
暫くしてオスカルは囁いた。しかしアンドレは答えるはずもなく相変わらず規則正しい寝息だけが聞えた。 オスカルは唇を噛み締めるとアンドレの寝顔を黙って見つめた。