La Rayon Vert

Summer

緑の光線


監督・脚本 エリック・ロメール

撮影 ソフィー・マンティニュー

音楽 ジャン・ルイ・バレロ

出演 マリー・リビエール / リサ・エレディア / バンサン・ゴーティエ

あらすじ

 デルフィーヌは一見、社会生活に良好に適応できているように見られるが、年齢相応の社会性を獲得しておらず、コミュニティにおいて他者との関係を上手く構築することが困難である。それは、同性間にも認められるが、異性間においてより著明に表れる。持続的関係を維持することに必要以上の消耗をし、またそのことにより相手に対しても心理的圧迫をかける傾向があるようだ。

 自己の(社会性を伴った)価値観が構築できない段階で精神的成長が止まっており、特定の考え(着想)や事柄に強い執着を示す。ストレス下においては、落ちているものなどにさえ過剰な意味を見出したがる。

 孤独を強く怖れ、何事にも他者からの保障を必要とし、それと同時に他者に対する要求水準はきわめて高い。

個人的な感想

-運命・奇跡・祝福-

 かつて自分の感じた想いをなぞるかのように、ストーリーは進んでゆく。悲しいまでに等身大の主人公。彼女が涙を流す時は、自分が孤独に泣いた時の感情が鮮烈に胸に蘇る。あまりにいたたまれない。

 だがこれは、ロメールが仕組んだ罠だ。無防備な我々は、陳腐な文化人類学的な寓話の世界に、容易く引きずり込まれてしまう。

 主人公は、様々な出来事のなかに「運命」の香りを捜そうとする。過剰な意味付けは、見ている我々にとって嫌悪を催すほどである。我々は、神話が力強く生きていた時代に引き戻されたかのような錯覚に陥る。

 なかなか目にすることが出来ないとされる「緑の光線」は、彼女にとっては待ち望む「奇跡」の象徴であると同時に「神からの祝福」でさえもある。

 彼女は単に確率の低い(滅多に見られない)事象を待っているのではない。ふと(トランプを拾ったように)買い求めた宝くじが当たって大喜び!なんてことを待っているのではないのである。宝くじにあたることは「幸運」と呼ばれることはあっても、決して「奇跡」とは呼ばれない。彼女は「幸福」を求めているのではない。

 奇跡は言うまでもなく、絶対者の意志を前提にした言葉なのである。誰か(絶対者)のつけた「跡」なのだ。ドラマの終わり間際で知的な好青年と親しくなるだけでは、彼女は満足しないし、この(極めて長いプロローグを持つ)物語は完成しない。

 ラストシーンで、彼女は青年と「奇跡」を待つ、息を殺して。水平線に一瞬の緑の光を見たとき、彼女は彼と共に(神の)祝福を受けるのだ。

 この映画を見た後に感じる不思議な充足感は、シェーンベルクの「浄夜」を聞いた後に残る余韻に、もしかしたら似ているのかも知れない。
 



Eric Rohmer
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