帯広駅西口前(元の駅前)
北海道は明治時代に屯田兵をはじめとする開拓者によって開拓されたが、帯広は明治16年(1883年)に「依田勉三」
(よだ・べんぞう)という人を中心とした「晩成社」(ばんせいしゃ)の人たちによって開拓された土地であり、今でも市内にある中島公園という所に翁の銅像が有る。
帯広も地域毎に入植した団体が異なり、私の住んでいた地域は「伊勢」(三重県)の人が多かった。
隣町の「大正」(たいしょう)という所は「加賀」(石川県)の人が多いそうである。
明治35年(1901年)に帯広町になる。明治38年には釧路・帯広間に鉄道が通り、帯広駅が出来た。
大正4年に幸震・売買・上帯広村が合併して大正村となる。大正13年に大正村から川西村が分離。
以上の資料については昭和43年版の「おびひろ」という小学校の社会科の副読本を参考にした。
なお西村京太郎氏の小説「スーパーとかち殺人事件」は帯広が舞台になっているので、興味の有る方は読んで欲しい。
このHPを作成した時点では、検索で帯広関係のホームページを探した際に帯広という街を的確に紹介しているホームページが少なく、
自分の生まれ育った街がこんなに取り柄の無い所かと思うと寂しくなってしまう反面、帯広の人というのは郷土愛が希薄なのかとも思ってしまいました。
「この指とまれ」で自分の出身校の情報を探してみましたが見つからず、農家じゃコンピューターなんてやる人間はいないか? 等と思ってしまいます。(苦笑)
最近になってやっと公式ページが開設されたようです。
(’97年10月) 帯広市のページ
。観光関係については「なかよし...」に詳しい。
帯広市出身や、ゆかりの有名人
小野寺昭(俳優・帯広三条高校卒業)・十勝花子(女優、タレントで帯広三条高校卒業・故人)・原千晶(タレント)・
スピードスケートの清水宏保選手(長野冬季五輪の金メダリスト)、安住紳一郎(TBSテレビのアナウンサー)・
中島みゆき(帯広第三中・帯広柏葉高校卒業)、平淑恵(女優・文学座)※原千晶と安住紳一郎は従兄弟とのこと。
帯広という所。
帯広はこれといって観光の目玉になるものは無いが、街の作りはワシントン市を摸したとの事で碁盤の目の様に整然と道が整備されている。
その昔ブームになった広尾線の「愛国から幸福」で有名な愛国と幸福駅は帯広に有る。
参考までに愛国と幸福の間には大正という駅が有って、昔はここまで4Kmの道のりを歩いて汽車に乗ったり、バスで帯広に行ったものである。
(大正駅はホームだけが残っていた)
私事ではあるが、最寄りのバス停は歩いて1Km程度の所に有った富士小学校の所に有り、帯広からは「岩内仙境」行きの国鉄バスが走っていたが、本数が少ないこともあって大正まで行った記憶がある。
大正といえば鮭,鱒の孵化場が有り、小学校の遠足の時に行った。
鮭の稚魚が泳いでいたのは覚えているが成魚がいたかは記憶に無い。現在サケマスの孵化場は廃止されてしまっている。
昭和55年、離道以来はじめて帯広に戻った時は富士を通るバスは1時間に1回のみであったが、今はどうなっているか判らない。
当時は国鉄バスが走っていた。初めて自宅の跡地に立ち寄った時は、あまりの変わり様に驚いたものである。
家の裏を流れていた小川は埋め立てられてしまい、坂になっていた所は整地されて面影は無くなっていた。
私の家と近所の畑の境に有った落葉松は随分と逞しく太くなっており、あらためて10年の歳月の重みを感じたものである。
近年は離農による過疎化が進み段々と農家の数は減っているようで、私の同級生でも農家をやっている人間は僅かである。
私が卒業した小学校も廃校になって久しい。
この辺りは酪農と豆類やビート(甜菜)と呼ばれる砂糖の原料になる大根の親戚のような物とか、ジャガ芋等が主要な産物である。
最近は長芋やアスパラガス等も特産になっている様子。
豆
帯広は全国でも有数の豆の産地である。小豆(しょうず=あずき)をはじめ、金時(きんとき=煮豆にする)や大豆、光黒(ひかりくろ)と呼ばれる黒大豆、手亡(てぼう)と呼ばれる白い餡の原料等々沢山有る。
我が家では売り物以外に小豆では「大納言」(だいなごん)と呼ばれるのを作っていた。
これは味は良いのだが、あまり収穫が良くなかった様に記憶している。
他にも煮豆にするのに中長(ちゅうなが)という、うずら豆を作っていた。
ビート
HONDAの軽自動車でもなければ無線でピーピーいう物でもない。
甜菜(てんさい)といわれる大根の親戚のような砂糖の原料であり近所では大抵の家が作っていた。
ジャガイモ
馬鈴薯(ばれいしょ)ともいう。北海道といえば男爵(だんしゃく)やメークイーン,農林1号というのが有名。
我が家では「紅丸」(べにまる)という品種を作っていた。これは花が白く、身の色は赤みを帯びている。
澱粉が多く取れる品種だそうだ。
夏ごろのイモは皮も薄く弱いため包丁や皮むきでは上手く剥けないので桶等に入れて板で掻き回すのである。
そうすると上手い具合に皮が剥けるという寸法である。
離道して以来、新ジャガ芋を食べる機会も無くなってしまった。
カボチャ
南瓜である。これも色々と種類が有り、マサカリで無いと割れないような固い皮の物も有った。
マサカリ南瓜は美味
いのだが皮が固いのが難点であり、包丁では切れずマサカリで割ることから「マサカリかぼちゃ」と名付けられたのかもしれない。
そのうち作らなくなってしまった。オモチャ南瓜といって小型の物も有ったし、牛や馬に食わせる家畜用の大きなカボチャも有った。
よくテレビ等で100Kgを越えるカボチャの大会を見掛けるが大半はこの手の物であ
る。
世界一長いベンチ
帯広はかってはギネスブックに載っていた400mの「世界一長いベンチ」というのが緑ヶ丘公園という所に有るが、
この記録は北陸の何処かに抜かれてしまったそうである。しかしながら、帯広は市民が手作りなのに対してこちら
は業者が作ったそうである。記録が塗り替えられたのは仕方ないが、記録を破るためだけに作らせたというのは
元,帯広市民としては何とも許し難いものがある。(^^;)
依田勉三(よだ・べんぞう)
帯広開拓の父、最大の功労者。「晩成社」(ばんせいしゃ)の社員27人とともに開墾した。市内の中島公園に銅像が有る。
余談ではあるが「六花亭」(ろっかてい)のお菓子には翁の『開墾の初めは豚と一つ鍋』との句に因んだ「一つ鍋」という「鍋」を象った最中が古くから有る。
「六花亭」とならぶ「柳月」(りゅうげつ)というお菓子屋に、かっては「十勝石」という、十勝石(とかちいし=黒曜石)を模した羊羹があり、これが我が家の土産の定番だったのだが十勝石の方は消滅してしまい残念である。
六花亭は札幌に有る「千秋庵」という店から暖簾分けした店だが、事業の関係で千秋庵に暖簾を返して昭和52年に現在の社名に変更したそうである。そのため私が帯広にいた頃は「帯広千秋庵」だった。
帯広市・中島公園の「依田勉三」翁の銅像
お菓子
帯広はお菓子の美味い所である。
全国的に有名になった「ふきのとう」の絵の包装で有名な「ホワイトチョコレート」
の『六花亭』や、『柳月』といった店が有る。
六花亭の「マルセイバターサンド」や、モンドセレクションで最高金賞を受賞した柳月の「三方六」(さんぽうろく)というバームクーヘン等、美味い菓子が多い。
「三方六」は作家の三浦綾子先生が推薦文を寄せているほどである。
六花亭の菓子や三方六は新千歳空港の売店等でも買うことが可能だが柳月
の菓子は珍しい。
昨今は通販や市内のスーパー等でも「三方六」は売る場合が有るようになったが...
電牧
正確な名称は忘れてしまったが牛を放牧している場所に電線を張り、これに電流を流して牛が逃げ出さないようにしていた。
触るとビリビリと感電し、特に雨の日等は刺激が強かった。今となってみれば随分と危険な事をしていたものである。
乳牛
ホルスタインだったがニュージャージーだったか忘れたが、一頭ごとに血統書が付いていたように記憶している。
乳しぼりは手で搾ることも有ったが大抵は機械で搾っていたようである。
下手な人間がやると牛が嫌がって怒るとも聞いた。
搾りたての牛乳は脂肪分が多く、胃腸の弱い人には向かないとも聞く。
サイロ
酪農家の家には必ず有る。牛の餌の牧草やトウキビ(トウモロコシ)の茎等を裁断して貯蓄しておくための倉庫である。
愛国駅
「愛の国から幸福へ」でブームになった愛国駅だが、名前の由来は元々は「忠君愛国」から来ているそうである。
現在は交通記念館になっておりSL(9600型)が置いてある。
55年に行った時は「幸福行き」の切符と「入場券」のみ発売し、それ以外は近くの売店に委託していた。
現在は当然のことながら駅員も居なければ列車も走っていない。
昨今は駅前も閑散しており日曜でも観光客はまばらで幸福駅と比べると人気は雲泥の差。
現在は駅舎の傍にはハート型の噴水が作られたが、それでも人気回復とは行かないようで残念である。
昭和55年頃の愛国駅
幸福駅
ここもブームになった場所だが畑の中にポツンと有る無人駅であり、バスの停留所のような物である。
訪れた人の持ってきた紙が所狭しと貼られており、名刺はもちろん無線のQSLカードや、中には交通違反の切符まで有る。
当時の列車の車両も2輌ほど展示されており、中も見学できる。
駅前には売店が有り愛国から幸福行きの切符を初めとする土産が買える他に、駅長の服を借りて記念撮影もできる。
昨今では結婚式も挙げられる。
98年10月・幸福駅 |
ご存じ「愛国から幸福行きの切符」 (昭和55年5月2日・広尾線が現役の時代) 愛国駅で買ったもので、本物?の切符 55年5月5日と5並びでないのは行った日が2日だったため |
雪
それほど豪雪地帯では無いが、それでも降る時には1m近くは降り,屋根の雪を降ろさないと重みで屋根が押し潰されてしまうことが有るので、雪の日は要注意であった。
この辺りでは屋根は大半がトタンであり、間違っても「瓦」は使っていない。
現在は昔に比べると少なくなったと地元の友人は言うが、雪が降ると当然ながら道が無くなってしまうので靴に雪が入らない様に、足に腕カバーの様な物をして歩いて行くことはザラであった。
主要な道路だけは市で除雪をしてくれたが、それとても即日では無かったし...
春になると雪が溶けて、それが固まり、上に乗っても沈まなくなる「固雪」という現象が有り、春になると朝の内は楽しみであった。
何しろ一面が雪なのであるから道の無い所は歩けないのだが,この時ばかりは何処にでも行けるのである。
太陽が上がって雪が溶け始めるまでソリに乗ったりして遊んだ。
吹雪
雪とくれば次は風である。雪+風となれば吹雪である。新雪の時は雪もサラサラのパウダースノーだから軽く飛んでしまい、吹き溜まりとそうでない所が出来る。
これによって飛ばされた所は雪が無く、吹き溜まりになった所は乗り越えるのさえ大変な程の高さになってしまうのである。
吹雪の最中は温度も下がるし視界も悪くなるので出歩くことは滅多に無かったが、それでも学校帰りとかに会うと辛かった。
大寒
冬といえば大寒である。1年で最も寒い時であり、私の記憶ではマイナス20度はザラであったが、友人が言うにはマイナス30度の時も有ったとか?
寒くなると食用の油とか酒が凍るのである。もっと寒くなると醤油が凍るそうであるが、これは流石に見たことは無い。
洗濯物を干しておくと凍って板の様になってしまい、無理に形を変えようものなら溶けた後で破れてしまうのである。
また寝ていても、起きると枕元の息が凍って霜状になっていることも有った。
歩いていても足の指先から冷えて来るのである、これは経験したことの無い人には判らない世界である。
寒いとか冷たいなんてものでは無く、痛いに近い感覚である。唐辛子を入れると温まるとか言われて試したことも有った。
耳など下手に出していようものなら千切れてしまいそうなくらいで、まさに「しばれる」のである。
こういった時期に不用意に濡れた手で金属なんか触ろうものなら「瞬間接着剤」のように一瞬にして凍りつき、取るのに苦労する。
北海道の最低気温は旭川で記録された、マイナス41℃だそうである。非公式には、これ以下の記録も残っているそうだが..余談では有るが道産子は手袋を『履く』と言うのである。
本州では間違っても言わないから、こういう人を見つけたら間違いなく「道産子」と思って良いだろう。
夜になると水道が凍るので水を落としてしまい、朝は凍った蛇口に熱湯を掛けて溶かして水を出したものである。
冬の夜は寒くて眠れないので、昔は「湯たんぽ」だった。朝は「湯たんぽ」の水(ぬるま湯)を使って顔を洗う。
しかし気をつけないと沸騰した湯を入れるため「低温やけど」を起こす。
私は火傷をしたことは無かったが兄や弟は火傷の跡が残っている。
その後、「湯たんぽ」は「あんか」に変わったが、「あんか」は豆炭を使うため、これも気を付けないと不完全燃焼による「一酸化炭素中毒」を起こす虞が有った。
ストーブ,薪割り
冬の暖房といえばストーブである。本州の様に申し訳程度の石油ストーブ等では役に立たない。
私が住んでいた頃は石炭か薪であった。学校は石炭の「ルンペンストーブ」だった。今はたぶん石油だと思うが...
窓も二重窓が多かった。
家では木を切って、それを鋸で切り、マサカリで割って燃していた。そのため私も小学校の高学年くらいになると冬は薪割りやら薪切りを手伝わされたものである。
家の木はハンノキというのが多くて簡単に割れたが、中には柏とか赤ダモというのが有り、コイツは木の繊維が密集しており中々割れずに苦労したものである。
スケート
帯広という所は十勝平野の中心である。平野だから当然スキー場は無い、だからスキーではなくスケートが冬の運動であった。私の行っていた小学校にも6年の時にやっとリンクが出来、冬は体育の時間はもとより休み時間はスケートであった。
スケートといってもフィギュアの様に華麗でもなく、ホッケーの様に豪快でも無い。スピードスケートであった。
中学に行っても同様だったので、同級生の中には市の大会で好成績を収めた人間も居た。
私は運動神経がイマイチで走るのも速い方ではなかったのでダメだったが..
昨年,秩父までスケートをしに行ったが何とか転ばずに滑る事ができ、やはり体で覚えたことは何年経っても忘れないものだと妙な所で納得してしまった。
98年の長野冬季五輪のスピードスケート500mで帯広出身の清水宏保選手が金メダルを取ったのは記憶に新し
い。
児童会館
緑が丘公園の近くに有り、色々な施設が有った。小学校の高学年の時に泊まり込みで体験学習が有り、反射望遠鏡で土星を見たが丁度,土星の輪が地球から見て平行になり見えなくなる時期で貴重な体験をした。
(平成13年5月に開設されたホームページを見たら、望遠鏡は屈折型に変わったようである。)
望遠鏡の有る所から吊り下げられたフーコーの振り子? という、地球の自転に合わせて振れる物とか、初めて見
る物に驚いたものであった。
また翌日の生物の授業ではヒヨコの解剖で『死んでいるから』と言われたのに実は生きていて、今でもあの時の可哀相な事をしたという気持ちは忘れられない。
その他にも色々と興味をそそる模型等が有る。
私が見に行った頃は自動車のボデーを外したカットモデル等の模型?が有ったりしたものだが、その頃と現在では相当に様変わりしたようだ。
豚丼
世の中に親子丼,カツ丼,天丼,牛丼等と丼物は沢山有るが、豚丼というのは帯広くらいの物では無いだろうか?
これは、その名のとおりタレの付いた豚肉の大きな物を御飯の上に乗せたものである。
「ぱんちょう」という店が有名と聞くが未だに行った事が無い。
しかしブタ丼そのものは市内の食堂で食べることは容易だし、帯広駅でも駅弁で売っているので機会が有ったら話のタネに食べてみるのも悪くないと思う。
先日(98年12月)にテレビを見ていたら帯広が舞台で牛丼が云々という番組をやっていたが、帯広の人間はなんと言っても豚肉なのである。
いくら極上の和牛のスキヤキを食べさせられても、『やはり豚肉の方が良い』というのを聞いて、思わず頷いてしまったのは、私も帯広出身だからであろうか...
「三つ子の魂、百まで」とは言うが、子供の頃から慣れ親しんだ生活というのは容易に変えられないもののようである。
動物園
緑が丘という所に有る。小学校の時に何回か行ったのと、埼玉に越してから帰郷した際にも1度だけ行った。
今は冒険家の故,植村直己さんの記念館が有り、隣には「野草園」という植物園も有る。
帯広動物園(昭和55年頃)
温泉
私が住んでいた頃には無かったが、その後市内でも温泉が出るようになったとのことで市内で20軒くらいの入浴施設が有るようだ。
料金も銭湯並みとか? 泉質はモール温泉系のものだそう。
個人的には昨今は「緑ヶ丘温泉サウナビジネスホテル」
に泊まる機会が多いので、ここも茶褐色のモール温泉でツルツルする感じのお湯だが、他には自由ケ丘温泉に一度
入っただけ。
上記の宿は古くてお世辞にもキレイとは言い難いが兄弟や親戚の住んでいる所に行くのに近く、便利が
良いため昨今は利用している。
帯広市ホームページ | 六花亭(ろっかてい) ホワイトチョコレートやマルセイバターサンドで有名な、今や北海道を代表するお菓子屋さん。 |
帯広動物園 緑が丘公園内に有り、冒険家の故・上村直己氏の記念館も有ります。 | 柳月(りゅうげつ) 帯広銘菓・モンドセレクション最高金賞に輝く「三方六」(さんぽうろく)のお菓子屋さん。 |
幸福駅・愛国駅 旧国鉄・広尾線、「愛の国から幸福へ」駅 | JA帯広かわにし 帯広市の川西地区のJA(農業共同組合) |
児童会館 緑が丘公園の一角に有る。 | 藤丸(ふじまる) 帯広の老舗のデパート。 |
ホテルグランテラス帯広(旧帯広東急イン) 私も常宿にしていたシテイホテル。 | 紫竹(しちく)ガーデン 帯広市郊外に有るフラワーガーデン。 |
ばんえい競馬 世界でも珍しい馬そりを引いた農耕馬の競馬 | 帯広畜産大学 狂牛病の鑑定で有名になった畜産大学。 |
八千代公共育成牧場 帯広市郊外に有る牧場。 |
とかち空港ターミナルビル株式会社 十勝地方や道東・帯広市への空の玄関・とかち帯広空港 |
真鍋庭園 針葉樹を中心とした回遊式ガーデン | 十勝バス 空港連絡バスや市内のバスを運行するバス会社 |