度忘れと3Cブーム

 

              社団法人日本経済研究センター
                 会長  香西 泰

 

 経済企画庁に23年いて、数多い思い出の中で、忘れられないのは仕事の

上での失敗である。この機会にざんげしよう。

 

 一つは「度忘れ」事件である。34年夏、私は内国調査課総括班の新兵で、

白書はまだ書かせてもらえず、用字用語の統一と校正を一手に引受けていた。

当時は文部省のルールだけでなく、調査課ルールなるものも存在していて、

「一層」「いっそう」ではなく「一そう」と書けという。このルール、矢野

智雄先輩の制定にかかると聞いたが、どう考えても論理的とはいえない。し

かも苦心して統一した原稿を各班に回し、返ってきたのをみると、また元の

黙阿弥、各班流だ。頭にきてまた直す。それをまた回覧するとまた元通り。

サイの河原の石積みだ。皆は戦いすんで日は暮れているのに、こちらは一人

でやきもきし、奔命に疲労困憊してしまった。とうとう白書打上げ会で乾杯

したとたんに人事不省になり、担ぎこまれた下宿でおばさんに「こんなにお

酒を飲ませて」と叱られて、送ってきた内野達郎先輩以下が平謝りに謝った

とか。

 

 ところが出来上がった白書をみると、白表紙のタテに「昭和34年度年次

経済報告」とあるべきところ、「度」がない。水も漏らさぬ校正をしたつも

りだったが、表紙を度忘れしていた。白書をずらり書棚に並べると、この年

だけ「度」が抜けていて、目立つことおびただしい。この失敗、白書が保

されるかぎり残るのだから、今も気が重い [写真:昭和34年度経済白書]。

 

 つぎは3Cブーム事件である。昭和43年であったか、0ECDから調査

団が来て、その日本側通訳を命じられた。英語は不得手だと固辞したが、な

にしろ2年も留学させてもらった直後だから、聞き入れてもらえない。

 

 もっとも質問は前もって届いており、答えも各省折衝で日本語原稿が用意

されている。前夜必死で和文英訳し、イット・イズ・ア・キャット式発音で

読んでいると、何とか話が進行する。ようやく愁眉を開きかけた頃、隣の赤

沢璋一調整局長が、突然脚本にない発言をされた。いま日本は3Cブームで

景気がいい、このことを教えてやれ、という。

 

 3Cブームと聞いて相手はがぜん興味を示し、3Cとは何々かと聞いてく

る。まず「カー」と答えたら、これが分らない。発音が悪いのだろうと思っ

て「かアー」「カあール」「カーる」といろいろ鳴いたが、まだ通じない。

満場大爆笑のなか、「シー・エー・アール」といってハンドルを動かす真似

をしたらやっと頷いて、「オー、オートモビルズ」とのたもうた。

 

 そのつぎ、「クーラー」とやったら、また通じない。「くぅーラ」「クう

ルあ」「くラー」みな駄目。「この部屋にいる貴方をして冷たく感じせしめ

つつあるところのマシンである」と説明したら「オー、エアコンデイショナ」

と来た。満場再度三度大爆笑。

 

 最後はというので気を取直し「カラーテレビジョン」と叫んだら、敵はに

やりと笑って「カラーテレビジョンセッツ」という。なるほど、テレビジョ

ンは電波かなにかで、耐久消費財はテレビ受像機といわなければならない。

敗戦投手がゲームセットを宣告されたようにがっかりした。

 

 あとで赤沢局長からは「君の通訳、なかなかユーモアがあってよろし」と

お誉め(?)にあずかったが、以後企画庁では、香西に通訳はさせられない

いうことになったらしく、ご用命が途絶えてしまった。

 

     (経済企画庁OB誌「経友」より、筆者の許可を得て転載)
 
 

    なお、上記の昭和34年度経済白書の写真を撮影する際の苦心談を
  「個人のホームページつくり」に記してある。
 
 
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