「やまと」について

 「倭」は本来「やまと」とは読まない。それではなぜ「やまと」と読まれるようになったのだろうか。邪馬台国畿内説、邪馬台国東遷説の人たちは、少しの疑問も持たずに「邪馬台」を「やまと」と読んでいる。しかし私は「邪馬台」と書かれた原史料を見たことはなく、私が見ることができるのは「邪馬壹」「邪馬臺」「邪靡堆」である。「邪馬台」を「やまと」と読む人は、まず「壹」と「臺」を「台」に置き換え、さらに「台」を「と」と読んでいるのである。
 古田武彦氏は『「邪馬台国」はなかった』で、すでに「臺」と「台」は別字であることを指摘しているが、安本美典氏もそれは認めているものの、「臺」は「と」と読めるとしている。その理由として、『日本書紀』景行天皇紀に「夜摩苔波区珥能摩倍邏摩(やまとは国のまほらま)」とあるように、「苔」は「乙類のト」であり、「臺」と上古音、中古音も同じであるから、実際例にはなくても「臺」は「と」と読める、というのだ。何かおかしくないだろうか。資料事実では「臺」は「と」と読まれたことはないから、「邪馬臺」は「やまと」と読まれたかどうかはわからない、というのが現時点での結論でなければならないはずである。
 安本氏はさらに、「臺」と「台」は「早くから通用したようで」といっているが、卑弥呼の時代に「台」が「臺」に代わって使用されていたことが証明されなければ、「臺」と「台」が通用したことにはならない。
 「台」を「と」と読む例はある。『日本書紀』神代上に「興台産靈(こごとむすび)」というのがあり、「台」を「と」と読んでいる。しかし「臺」は「台」とは別字であるから、「臺」を「と」と読むことにはならない。
 橋本進吉氏の『古代国語の音韻に就いて』の中の万葉仮名類別表には、「ト」の乙類に万葉仮名としてはどこにもないはずの「臺」があり、逆に『日本書紀』にあるはず(前掲「興台産靈」)の「台」がない。橋本氏の著作集3『文字及仮名遣の研究』にもこの表があり、やはり「臺」はあるが「台」はない。しかし「臺」は( )の中にあり、その後尾に刊行委員附記として、[橋本博士は後に増訂した一覧表を『古代国語の音韻に就いて』の巻末に附けられた。今、それと対照し、増補せられた部分を括弧にくくって追加する]と書かれている。「臺」は後になって「ト」の乙類に追加されたのである。橋本氏はなぜ「臺」を後から追加したのだろうか。「臺=台=ト」と読もうとする人たちに組してしまったのだろうか。今となってはその真意はわからない。
 同じ『古事記』『日本書紀』『万葉集』の仮名について、有坂秀世氏の『上代音韻攷』の分類表には、「ト」の乙類に「台」はあるが「臺」はない。私が調べた結果も有坂氏と同じだった。
 このように、「臺」は「台」ではなく、「臺」は「と」とは読まないことは、資料上明白である。 「壹」あるいは「臺」を「台」と書き、原史料上に存在しない「邪馬台」を「邪馬臺」に代えて使用することは、文献学を志すものとして、その姿勢を問われることになっても仕方ないだろう。

 「やまと」を「倭」と書くことについて、「邪馬台」の成長からとらえる見方がある。倭国の畿内にあった「小さなヤマト(邪馬台)」が大きく成長し、倭国そのものを「ヤマト(邪馬台)」と呼ぶようになり「倭」が「やまと」と読まれるようになった、というのものである。これは邪馬台国畿内説、邪馬台国東遷説にとっては一般的な考え方のようである。このような考え方はどこからくるのだろうか。
 『三国志』「魏志」倭人伝は、倭国女王卑弥呼は邪馬壹国を都としていると書き、『隋書』は、俀国(倭国)の都は邪靡堆と呼ばれ、『魏志』でいう「邪馬臺」だと書く。『魏志』倭人伝では倭国とその都・邪馬壹国、『隋書』では俀国(倭国)とその都・邪靡堆をはっきりと書き分けている。中国正史を見る限り、都の名が全体の国の名となったという例は見当たらない。
 それでは『古事記』『日本書紀』ではどうだろうか。『古事記』では、「倭」は全体を指しているようにみえるものもあるが、ほとんどが人名や大和地方あるいは大和の中の一地域を指す場合に使用されている。『日本書紀』では全体を指す場合には「日本」を使用することがほとんどで(「大倭」もあるが少ない)、「倭」は大和あるいは大和の中の一地域を指す場合に使用されている。『記紀』では「小さなヤマト」もすでに「倭」であり、「小さなヤマト」の成長した姿が「倭」であるというふうにはなっていない。
 このように、中国正史にも『記紀』にも、「倭」が「小さなヤマト」の成長した姿だといえる史料はまったく見出しえない。「倭」は「邪馬台」が成長したものとみることができる史料は、中国にも日本にも存在しないのである。これが資料からみた事実である。「邪馬台」が成長し「倭」になったというのは、「邪馬台」を畿内ヤマトとする、思い込みの産物の何物でもないのである。

 万葉仮名ではない「やまと」は、『日本書紀』では「東」「倭」「大倭」「委」「日本」があるが、このうち「大倭」は「倭」に「大」をつけたものであり、「委」は『百済本記』文中のものであるから、基本的には「東」「倭」「日本」が「やまと」である。ところが「やまと」と読む字にはもう一つある。それは651年につくられたとされる、元興寺の塔の露盤銘にあった「山東」である。現在この露盤銘は存在していないが、「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」に記録されている。

○・・・令作奉者 山東漢大費直名麻高垢鬼 名意等加斯費直也 書人百加博士 陽古博士 丙辰年十一月既 爾時使作金人等 意奴彌首名辰星也 阿沙都麻首名未沙乃也 鞍部首名加羅爾也 山西首名都鬼也・・・

である。この「山東漢」は『日本書紀』の「東漢」「倭漢」(やまとのあや)にあたる。
 森博達氏は、『日本書紀』をα群とβ群に分け、α群は中国人が書き、β群は日本人が書いたものだという。「東漢」は雄略紀・欽明紀・敏達紀(6世紀末)のα群にあり、「倭漢」は皇極紀(7世紀中頃)以降のα群と、応神紀・推古紀・天武紀のβ群にある。このことから、日本人の主張がはいるβ群はすべて「倭漢」で統一され、中国人が書いたα群は、敏達紀(6世紀末)までは「東漢」で、皇極紀(7世紀中頃)からは「倭漢」であることがわかる。これは、「やまとのあや」は、6世紀末から7世紀中頃までの間に「東漢」から「倭漢」に変化したことを意味し、また「東漢」は「山東漢」の「山」が省略されたものであるから、「やまとのあや」は「山東漢」→「東漢」→「倭漢」と変化していったものであることがわかる。つまり「やまと」と読む最初の漢字は「山東」だったことになる。

 この「山東」という字はなぜ生まれたのだろうか。元興寺の塔の露盤銘には「山東」のほかに「山西」というのがある。これは「かふち(かわち)」と読む。山の東西が「やまと」と「かわち」なのである。ところで、この「やまと」と「かわち」の両方に関係している人物がいる。それは饒速日(ニギハヤヒ)命である。『先代旧事本紀』には、ニギハヤヒは正哉吾勝々速日天押穂耳尊の子で、天磐船に乗って河内(かわち)の哮峰に天降り、さらに大倭(やまと)の鳥見の白山に遷った、と書かれている。この話はどこまで信じられるか、という問題もあるが、これに続くイワレヒコ(神武天皇)の「やまと」東征によって「やまと」の歴史が始まっていることを考えると、まったく無視するわけにもいかない。私はニギハヤヒのこの事件を、倭人の「かわち」「やまと」への移動の記録とみている。
 ニギハヤヒは「かわち」に到着し、その後「やまと」に移った。「やまと」は「かわち」から見て「山の東」にあった。そこで人々はその地を「山東=やまとう→やまと」と呼ぶようになったのではないか。「山西」と書いて「やまにし」あるいは「やませい」などと読まず「かわち」と読むのは、「かわち」という名が「やまと」より先に存在していたことを示している。

 元興寺の塔の露盤銘と『日本書紀』から、「山東」の〈読み〉が「倭」の〈読み〉になったのではないかと推測されるが、そこにはどのような関係があったのだろうか。ヒントは「日の下のくさか」「飛ぶ鳥のあすか」「春日のかすが」などの枕詞である。
 安本美典氏は、倭と邪馬台の結びつきが密接であり、枕詞のように「倭の邪馬台」となり、「倭」を「やまと」と読むようになったのだろう、という。安本氏は邪馬台を「倭=邪馬台」とみている。しかしこれは前に述べたように、中国史料、日本史料にもないものであり、「倭=邪馬台」とすることに史料根拠はない。また中国の史料に基づく限り、邪馬台は倭国の中の一国であり、「倭の邪馬台」としても「倭の中の邪馬台」の意味となり、「倭」は枕詞にはならない。
 『古事記』には初期天皇名に「倭」「大倭」がつくものが多い。これは天皇家が倭人の血を引くものであることを示したいからだ、とみることができる。イワレヒコは日向から来た、あるいは九州北部から来た、といわれているが、そのとき九州は倭人の国であり、イワレヒコは倭人だったとしてよいと思う。
 ニギハヤヒは「やまと」で土地の豪族長髄彦の妹を妻とし、ナガスネヒコとともに「やまと」を治めていた。『日本書紀』にはナガスネヒコが前面に出て戦っていることを考えると、このときの「やまと」はニギハヤヒがたとえ倭人だったとしても、そこは倭人の国とはいえず、まだ「山東」だったのである。
 イワレヒコが「山東」を手中に収めると、イワレヒコが倭人であることから、そこは「倭人の国・山東」といわれるようになり、さらに「倭の国・山東」、「倭の山東」となり、「山東」は「やまと」と読むから「倭のやまと」となったのではないかと推察できる。そしてそれはやがて、「日の下のくさか」の「日下」が「くさか」、「飛ぶ鳥のあすか」の「飛鳥」が「あすか」、「春日のかすが」の「春日」が「かすが」となったように、「倭のやまと」の「倭」が「倭」だけで「やまと」と読まれるようになった、と考えられるのである。
 それでは、この「倭」が「やまと」と読まれるようになったのはいつのことなのだろうか。元興寺の塔の露盤銘には「山東」とあった。この露盤銘は651年につくられたものであるが、その内容は588年から596年までの建通寺(元興寺)建設についてのものである。この「山東」を『日本書紀』は、敏達紀までは「東」と書き、推古紀からはα群β群とも「倭」と書いた。そうすると、「山東」「東」は6世紀末までは使われていたのであり、7世紀中頃の皇極紀には「倭」と書かれるようになったのは確実であるから、推古紀の記録と元興寺の塔の露盤銘によれば、「やまと」と読む「倭」は7世紀初め頃出現した、ということができるのである。ただこのことは、そのときまで「倭」は使用されていなかったということではなく、「倭」は「わ」として使用されていたのであり、「倭」一字で「やまと」と読まれるようになったのが7世紀初め頃だという意味である。

 『古事記』『日本書紀』にいう「倭(やまと)」の語源は「山東」であり、その発音は橋本進吉氏が挙げる「曾」「登」「竜」などの例によれば、「やまとう」→「やまとー」→「やまと」と変化したのである。中国正史がいう「倭」は九州を指しており、その生い立ち、成り立ちは畿内ヤマトとはまったく異なっている。「邪馬台」(本当は「邪馬壹」「邪馬臺」)は「倭」ではなく「やまと」と読まないことは、資料事実から導かれているのである。

 ここで、卑弥呼が都した国は邪馬壹国だったのか、それとも邪馬臺国だったのか、という問題に少し触れてみたい。このことについて私はあまりこだわりを持たないが、どちらが可能性が高いかという観点から話をしてみたい。中国正史では、卑弥呼が都した国について次のように書かれている。

○南至邪馬壹国、女王之所都。(『魏志』倭人伝)
○其大倭王居邪馬臺国。【案今名邪摩惟音之訛也。】(『後漢書』倭伝)
○都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。(『隋書』俀国伝)
○居於邪摩堆、則魏志所謂邪馬臺者也。(『北史』倭国伝)

 『魏志』の邪馬壹国に対し、『後漢書』は邪馬臺国と書く。『隋書』『北史』は邪靡堆・邪摩堆とするが、それは『魏志』でいうところの邪馬臺だという。この部分をもって多くの人は『魏志』の邪馬壹国は邪馬臺国の間違いだとする。
 ところで現存する『三国志』は、5世紀に裴松之が校訂・注釈を施したもので、紹興本と紹煕本があり、ともに12世紀に刊行されたものだという。つまり、この刊本ができたときには『後漢書』も『隋書』も『北史』も存在していたのであり、そこには倭国の都が邪馬臺国と書かれていたことは、編纂者は知っていたはずなのである。ここで私が不思議に思うのは、編纂者はそれを知っていながら、なぜ邪馬壹国としたのか、ということである。私が思うに、底本とした『魏志』(写本)には邪馬壹国と書いてあったのではないだろうか。もし邪馬臺国と書かれてあったのなら、それをわざわざ今まで見たことのない邪馬壹国という国名にして書くはずはないからである。他の史書が「邪馬臺」と書く中、『魏志』はひとり「邪馬壹」と書き続けてきた、と考えなければならない。
 『後漢書』は卑弥呼が都した国は「邪馬臺」だという。また『隋書』は、俀国(倭国)の都は邪靡堆と呼ばれ、『魏志』に書かれている「邪馬臺」だという。『魏志』には「邪馬壹」と書かれてあったはずなのに、『隋書』はなぜ、その国は「邪馬臺」だと書いたのだろうか。その理由として、一つには、卑弥呼が都した国は本来「邪馬臺」だったということ、二つには、『後漢書』がその国を「邪馬臺」だと書いていること、が挙げられる。『魏志』には「邪馬臺」とは書かれていなかったが、卑弥呼が都した国の実際の名が「邪馬臺」であり、まわりの史書すべてがそうなっており、『隋書』の編纂者魏徴も、『魏志』にも「邪馬臺」と書かれてあったと錯覚してしまったのではないか。
 『後漢書』の注「案今名邪摩惟音之訛也」は唐の李賢によるものとされる。この「邪摩惟」は『隋書』にいう「邪靡堆」の間違いだろう。隋・唐時代、倭国の都は「邪馬臺」に近い発音がされていたようにみえる。そうであれば、倭国の都は卑弥呼の時代からすでに「邪馬臺」だったとしなければならない。「邪馬壹」は、この時代あるいは『魏志』編纂時に、中国側がつけた国名だったとみるしかない。
 『魏志』に「邪馬壹」とあるのは、「邪馬臺」の間違いではなく、この時代の中国の倭国に対する、歴史書としての忠実な記録の結果だったのである。しかし「邪馬壹」は本来の国名ではないから、したがって卑弥呼が都した国は何と呼ばれていたのかと聞かれたら、「邪馬臺」でよいのではないかと思っている。ただし、『魏志』を語るときは「邪馬壹」とするのが史書の正しい読み方だろう。


※元興寺の塔の露盤銘が作られたのは596年であるとしたが、これは元興寺(建通寺)完成の年であり、露盤銘がつくられたのは、遅く651年であった。訳文作成によりわかったのでこれを訂正した。2011.05.20
※現存する『三国志』を写本と表現してあったが、これは刊本の間違いなので訂正した。2011.05.20


ホーム   前のページ   次のページ