倭人と新羅人

2007.03.12

 『日本書紀』の新羅

 『日本書紀』における「新羅」の存在の仕方は不思議である。神話時代も神武天皇以後も朝鮮三国の中ではじめに現われるのは、敵対視が甚だしい「新羅」だからである。
  『日本書紀』神代上第八段一書(第三)には「素戔鳴尊、乃以蛇鋤之劒、斬頭斬腹」とあり、「韓鋤之劒」は素戔鳴尊が朝鮮半島から渡来した者であることを示唆する。また一書(第四)には「是時、素戔鳴尊、帥其子五十猛~、降到於新羅國、居曾尸茂梨之處。乃興言曰、此地吾不欲居、遂以埴土作舟、乘之東渡、到出雲國簸川上所在、鳥上之峯」とあり、「降到於新羅國(中略)此地吾不欲居」は、もともと新羅にいたのではないことをことさら強調しているが、一書の第三と合わせて考えると、真実はそうではないようにみえる。
  神話時代が終わったあと、最初の新羅は垂仁天皇三年春三月条に現われる。「三年春三月、新羅王子天日槍來歸焉。將來物、羽太玉一箇、足高玉一箇、鵜鹿々赤石玉一箇、出石小刀一口、出石桙一枝、日鏡一面、熊神籬一具、并七物。則藏于但馬國、常爲神物也」がそれである。
  一方『三国史記』「新羅本紀」によれば、倭と新羅が関係する最初の記事は、始祖赫居世居西干8年(BC50)の「倭人行兵 欲犯邊 聞始祖有神コ 乃還」である(この倭はヤマトではない)。垂仁天皇の時代は、『日本書紀』では紀元前後の頃とされるが、実際は4世紀初であり、『日本書紀』におけるヤマトと新羅との関係のはじまりは、「新羅本紀」における倭と新羅との関係のはじまりよりも大分遅かったことになる。倭と新羅はその後も抗争と通好を繰り返す関係となるが、ヤマトと新羅は垂仁天皇時代以外は常に敵対する関係となる。そのはじまりは、不思議なことに、その母が新羅系の出身であるという神功皇后からである。『日本書紀』の記述を史実とみるのは危険が大きく、『三国史記』についてもどこまで史実なのかという問題もあるが、「新羅」はいつのまにか「日本人」の敵として描かれるようになってしまった。このことは事実である。(※倭と新羅の関係を記した最初の記事はBC50年だったので、これを訂正するとともに、その他文構成も修正した。2007.11.23

  素戔鳴は新羅人

  出羽弘明氏は『新羅の神々と古代日本』の中で、「各地の神々を調べてみると『記紀』に記載の神の系譜は素戔鳴命に係わる系譜に集約されてしまうようである。古代の新羅の神の渡来とは素戔鳴命とその一族が対馬や筑紫地方を経由して渡来し、日本海沿岸地方をはじめ各地を開拓していったということである。(中略)『記紀』神話の中心は素戔鳴命に係わる系譜の神々(人びと)である。このことは古代日本の国家創造に携わった人々は新羅系の人々であったということである。天照大神を祭る皇大神宮の成立は文武天皇2年(698)のことであり、それ以前は伊勢大神と言われる地方の地主神であった(筑紫申真『アマテラスの誕生』)」と書く。
  『新羅の神々と古代日本』によれば、新羅神社は対馬・北九州・山陰・北陸地方などを中心として日本各地にあり、その祭神は多くが素戔鳴である。出羽弘明氏が総括した見方はなかなかおもしろい。かつて、原田常治氏が『記紀』以前の神社記録から導いたとする『古代日本正史』を思い出す。
  さらに出羽氏は、神武天皇の兄について『新撰姓氏録』に[新良貴氏は「彦波瀲武鵜葺草不合命の男である稲飯命の後なり。これ新羅に出ず。即国主なり。稲飯命は新羅国に出て、王は祖合す」、また豊前国田川郡香春町の『現人神社略縁起』に「現人大神は都怒我阿羅斯等の命なり。命は神倭磐余彦天皇(神武)の兄にましまして、新羅の国王となりました御毛入野命である。(以下略)」とあることから、兄が新羅人であるということは、弟の神武も新羅人ということになると書き、そしてまた、[対馬の伝承によれば彦火火出見命の子神「彦鵜葺草不合命」と「五十猛命」は同一神である。しかも、天日槍の子孫五十跡手とも共通している。共に新羅人であり素戔鳴命の子孫である。彼らはそれぞれ倭国と新羅国の王になっている]と書く。
  『記紀』の神話をそのまま信ずるならば、素戔鳴は新羅人であった可能性は高く、素戔鳴の姉である天照大神もまた新羅人となり、その子孫もある時代までは新羅人であったとみるのは当然のことといえる。しかしそれは神話であり、そのまま信ずるわけにもいかない。また、神話は史実に基づいたものとみる人たちが、素戔鳴を新羅人とみたとしても、天照大神やその子孫を新羅人とみる研究者がほとんどいないということも不思議といえば不思議である。神話のみならず、新羅を敵対視している『日本書紀』より後の成立の『新撰姓氏録』が、磐余彦の兄を新羅人であると書いている事実があるのに、である。

  新羅人とは

  私は神武(磐余彦)の即位は3世紀中頃とみており(「日本国について」の項参照)、そうすると『記紀』の神武以前の時代、つまり素戔鳴がいたという新羅や、先に『新撰姓氏録』にみた新羅は、朝鮮半島南部にはまだ成立していなかったことになる。朝鮮半島南部は馬韓・辰韓・弁辰の、いわゆる三韓の時代であった。
  馬韓・辰韓・弁辰については『後漢書』、『三国志』の『魏書』に記録がある。三韓のうち、『日本書紀』『新撰姓氏録』などがいう新羅は辰韓に相当するものと思われるが、『後漢書』『魏書』に「弁辰與辰韓雜居」とあることや、6世紀中頃に弁辰の地にあった伽耶が新羅に併合されたことから、弁辰の地も新羅と表現された可能性がある。したがって神話時代に新羅と呼ばれた国は辰韓のみならず弁辰の地も含まれていたと考えることができる。

『後漢書』韓伝

其南界近倭、亦有文身者(馬韓)
辰韓、耆老自言秦之亡人、避苦役、適韓國、馬韓割東界地與之(辰韓)
弁辰與辰韓雜居(弁辰)
其國近倭、故頗有文身者(弁辰)

『魏書』韓伝

其男子時時有文身(韓)
其言語不與馬韓同(辰韓)
似秦人(辰韓)
男女近倭、亦文身(弁辰)
弁辰與辰韓雜居、亦有城郭。衣服居處與辰韓同。言語法俗相似(弁辰)

 『後漢書』韓伝からは、辰韓人は中国秦からの亡命者だと受け取れる。辰韓の地には秦人が住むようになったというから、辰韓人は秦人なのだろうか。しかしその真相はよくわからない。百済は高句麗から分かれたとされるから、百済は高句麗と同族であり、北方系である。馬韓の地は後に百済の地となるが、馬韓人は北方系ではなさそうである。「有文身者」とあり、倭人の風俗を持っているからである。江南から水稲を持ってやって来た倭人が住んだのは馬韓や弁辰の地域なのである。
  朝鮮半島南部には中国江南から水稲耕作技術が伝わった。それは当然人の移動を伴っていた。中国江南の人たちは倭人であり、倭人は直接日本列島に渡ったものもいれば、朝鮮半島南部を経由したものもいた。
  倭が日本列島にはじめて姿を現わすのは、『漢書』地理志においてである。

樂浪海中有倭人、分爲百餘國、以歳時來獻見云。

  「樂浪海中有倭人」は、その後の日本列島に関する中国正史の記録をみれば、日本列島内の倭人であることがわかる。そこからは、百余りあった倭人の国が最終的に一つの倭国という国になっていったことが理解できる。要するに、その国が倭人の国であったからこそ倭国と呼ばれるようになったということが理解できるのである。倭国という国に入ってきて、そこに住むようになったから倭人と呼ばれたのではないということである。そういうこともあったと思われるが、それは後のことであり、本来は倭人の国であったから倭国と呼ばれたのである。
  朝鮮半島に渡った倭人は、さらに日本列島に渡ったり、あるいは朝鮮半島の土着の人たちと混血したりしたと思われるが、朝鮮半島に残った人たちはやがて馬韓人、辰韓人あるいは弁辰人と呼ばれるようになったのではないだろうか。倭人は日本列島に入っても倭人だった。それは多分、それまでの日本列島には特別な呼び方がなかったからだと考えられる。日本列島はまだ無垢な地だったのである。
  北方から南下してきた高句麗や後の百済は別として、それまでに朝鮮半島南部にいた人たちは、北方系の縄文人(日本列島に渡らなかった)、南方系の縄文人(日本列島に渡らなかった)、倭人、そしてそれらの混血人だった。弥生時代に日本列島に渡り、倭国形成の主役となったのは、これらのうちの倭人とその混血人で、総じて倭人と呼ばれた人たちだったことになる。これらの人たちは朝鮮半島内では、馬韓・辰韓・弁辰の地に住んでいたのである。
  出羽氏によれば、『訂版對馬島誌』には、「天孫族は出雲族と同じであり最初に国を造った人々は海人族であったこと、あるいは素戔鳴命は倭人(半島の倭か)であったこと、彦火火出見の一族は筑紫国に住んでいたこと」などが書かれているという。素戔鳴は朝鮮半島から来た倭人であったこと、天孫も同じであったことを対馬の歴史は語っている。畿内大和が倭(やまと)と書かれていたことからみても、私は饒速日も磐余彦も倭人だとしてきたが、そのことを対馬の歴史は裏付けているようである。
  ここで私は何が言いたいかというと、素戔鳴がいた新羅や『新撰姓氏録』がいう新羅とは辰韓・弁辰のことであり、新羅人とは辰韓・弁辰人を指し、それはとりもなおさず倭人のことなのである、ということである。馬韓人・弁辰人は文身していたとあり、辰韓人にはその記載がなく秦人だとされているから、倭人が多く住んでいたのは馬韓から弁辰にかけてだったと思われる。したがってここでいう新羅とは、さらに範囲を狭めれば、弁辰地域のことを指している可能性が高くなる。
  素戔鳴、五十猛、磐余彦らは倭人ではあったが、後の新羅である辰韓・弁辰の地から日本列島に渡ってきたから新羅人とされたのである。彼らは朝鮮の人たちから見れば新羅人であり、素戔鳴は日本列島におけるその始祖として、後の新羅人からも新羅神社に多く祀られるようになったのではないだろうか。

  新羅 二つの見方

 『日本書紀』には、新羅に対して二つの見方がある。「親新羅」と「反新羅」である。「親新羅」といっても、新羅を敵視・蔑視していないという程度である。しかしそれでもこのギャップは大きく感じられる。
  新羅との関係が明白にされているのは素戔鳴である。しかし素戔鳴の姉である天照大神が新羅人だとする見方はほとんど存在しない。不思議に思えないか。神話とはいえ、弥生時代に相当する時代の事件とすると、これは無視するわけにもいかない。
  前述したように、神話及び神武以前の時代の新羅とは朝鮮半島南部地域を指したものであり、四世紀に成立した新羅のことではない。これらの地域は、いわば日本列島の倭人の、江南に続く第二の故郷のようなものである。素戔鳴も天照大神も倭人であり、後の新羅の地域から渡来したという意味においては新羅人なのである。素戔鳴や彦火火出見などの一族が新羅神社に祭られているのは、特に不思議ではなく当然のことなのかもしれない。新羅神社が『日本書紀』の一書(素戔鳴は新羅人であること)を裏付けたともいえる。
  それでは「反新羅」の新羅とは何か。それは「統一新羅」であると私は思う。『三国史記』にあるように、百済と新羅は伽耶地域をめぐって長年にわたって抗争を繰り返してきた。そしてついに660年、百済は新羅・唐の連合軍に敗れ滅亡する。百済の新羅に対する怨みは計り知れないものだったと想像される。『日本書紀』の「反新羅」の姿勢はここにその源があると私はみている。そうでなければ、素戔鳴や天照大神の故地である新羅を神功皇后の征伐の対象として描いたり、何から何まで徹底的に敵視する姿勢を理解することができないからである。
  『日本書紀』は、弥生時代をつくった倭人が朝鮮半島南部から日本列島に渡ってきた初期の状況を神話として語り(これにはさまざまな伝承があった)、神功皇后以後(『日本書紀』にはじめて百済が登場する)は百済人の朝鮮半島における成し遂げられなかった夢を、ヤマトを中心とした皇国史観によって、百済日本人の歴史として語ったのである。その『日本書紀』を編纂したのは日本人ではあるが、それは感情的にまで新羅を徹底的に敵視した亡命百済人、あるいはその子孫である新生日本の日本人だった。私にはそうみえる(この見方は今後さらに深めて行きたいと思っている)。
  『日本書紀』の新羅には、三韓時代の朝鮮半島南部地域に対する呼び方と、四世紀以後の新羅(※任那加羅の新羅も含まれるまれる)あるいは統一新羅に対する呼び方が、『日本書紀』の時代の中に区別されずに表記されていたのである。

  新羅・百済・高麗

  新羅神社は対馬・北九州・山陰・北陸地方などを中心として日本各地にあることは出羽氏の調査でわかったが、百済神社・高麗神社というのは果たしてどのくらいあるのだろうか。そのことが存在する地域と共にわかれば、新羅神社との相違もはっきりするはずである。
  実は新羅・百済・高麗は神社だけではなく、寺もある。私は寺社については調べたことがないのでよくはわからないが、住吉神宮寺は新羅寺というらしい。枚方市の百済王神社は百済寺の隣りに建っている。高麗神社と高麗寺も含め、これらは神仏混合になっているようである。新羅寺となると新羅神社とはだいぶ意味合いが異なってくるように思われる。
  ここでの話しは神社に限るが、百済神社 ・高麗神社はその名のとおり、朝鮮半島(もとはそうであったが、一旦任那に入った人たちだったかもしれない)の百済・高句麗の人たちが日本列島に渡りそれぞれの神を祭ったものとすれば、彼らは倭国形成ではなく、7世紀の日本建国に係わった北東アジア系の渡来人だったはずである。これに対し、新羅神社の新羅は四世紀に成立した新羅あるいは統一新羅を意味しているのではなく、朝鮮半島南部の後の新羅となった地域(倭国形成に係わった倭人がいた地域)を意味していることになる。この意味において、新羅神社は特別な存在であるといってもよい。
  素戔鳴や磐余彦の兄たちが新羅人であるという記録は、日本列島に倭国を築いた人たちが朝鮮半島南部から渡来した倭人であったことを示す、一つの証拠といえるかもしれない。


※内容の一部を訂正・修正した(※部分)。2007.11.23


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