「高句麗広開土王碑」について

2007.02.17

 はじめに

 朝鮮史料における「任那」は、20世紀はじめの史書で偽書といわれている『桓檀古記』を除くと3箇所しか現われない。一つは「高句麗広開土王碑」であり、一つは「真鏡大師宝月凌空塔碑」であり、もう一つは『三国史記』である(06「任那」について 参照)。「高句麗広開土王碑」は、高句麗第19代王の偉業を称え次代の長寿王によって414年に建てられたものであり、「真鏡大師宝月凌空塔碑」は924年に崔仁滾によって撰せられたものであり、『三国史記』は12世紀に金富軾によって編纂されたものである。したがって、「高句麗広開土王碑」は「任那」を記録する資料の中で唯一の同時代史料であり、「任那」を考える中で非常に貴重な資料の一つとなっている。
  「任那」についても後で少し触れるが、今回は「広開土王碑」の碑文について気になっている部分があったため、そのことを中心に考えてみた。
  「広開土王碑」は「好太王碑」とも呼ばれているが、高句麗王は歴代「好太王」といわれていたということであり、碑の建てられた第19代の王に特定するため、引用によるものは別として、ここでは「広開土王碑」に統一した。


「碑文徴実」について

  李炳銑氏はその著書『任那国と対馬』で、「広開土王碑」の欠落部分を補う資料が発見されたとして、李裕岦著『広開土王聖陵碑文訳注』、『韓国学』掲載の『広開土王聖陵碑文徴実』にあるとされる、桂延寿と李観楫が碑文を調査し徴実したという「碑文徴実」を紹介している。李炳銑氏はその内容についてまったく疑いを持っていないようにみえるが、私にはそれがどうしても納得いかないのである。このことについてはすでに批判があり、解決しているのかもしれないが、私なりにこの問題を考えてみることにした。李氏によれば「碑文徴実」は次のようになっている。

(前文 李炳銑氏による訳文)
戊戌(1898年)5月、高句麗古都をみるため、(中略)舟で鴨緑江を渡り、直ちに輯安県に到着するや、李徳洙君と金孝雲君と白善健君が先に碑石街に来ていた。(中略)同行者が、まず、酒と果物を供えて祭を行い、また、油を灌ぎ水を敷いて洗い出した後、碑の全文を写したが、字数が総1802字であった。字画が精整なので良く判読することができたが、写すことができなかった字が唯117字であった。15年過ぎた壬子(1912)年月に、また来て(前年のように)、祭を行い、碑をみると、字画がもっと減って前にみたのと大変違っていた。(中略)ここに、私らの知識が浅薄で拙劣なるにも拘らず、敢えて前に写したものを以って(再び確認して)、この徴実を作り、備えて古きを保存する旨を読者は諒察されたい。

(特に問題となっている第2面の徴実による碑文)
官兵 躡跡而越 夾攻来背 急追至任那加羅 從拔城 城即帰服 安羅人戌兵 拔新羅城 □城 倭満倭潰 六城 被我攻 盪滅無遺 倭遂挙国降 死者 十之八九 盡臣率来 安羅人戌兵 満假□□ 倭 欲敢戦与己呑卓淳諸賊 謀□□ 官兵 制先 直取卓淳而左軍 由淡路島 到但馬 右軍 経難波 至武蔵 王 直到竺斯 諸賊 悉自潰 遂分爲郡安羅人戌兵

 「徴実」の碑文には問題点がかなり多い。一番問題なのは「官兵 躡跡而越 夾」の7字と「被我攻 盪滅無遺 倭遂挙国降 死者 十之」の16字である。これら23字は、石碑の形状によって実は字を彫ることができず、もともと碑文にはあるはずのない字なのである。このことは王健群氏が『好太王碑の研究』で碑を実見し証明している。桂延寿と李観楫が碑を実見したのであれば、このような間違いは起こらないはずである。
  また、淡路島、但馬、難波、武蔵といった名が記録されているが、4世紀末から5世紀初めにすでにこれらの名があったのかどうか、これも疑問である。20世紀の知識による疑いが濃いのである。徴実した一人が『桓檀古記』を編修した桂延寿であることもひっかかる。
  李炳銑氏が『任那国と対馬』を書いたときには王健群氏の『好太王碑の研究』はすでに刊行されており、「徴実」を検証せずにそのまま信用してしまったことは非常に遺憾である。
  これらのことだけでも「徴実」の信用性はまったくないのであるが、このような史料ができるにはそれなりの理由もあったのだと思われる。しかしたとえ自らの考えを主張する手段であったとしても、歴史を混乱させる捏造は決してしてはならないことである。またそれを検証せずに、その主張の根拠とした研究者の責任も大きい。しかし李炳銑氏の「任那」に対する見方はなかなかおもしろいと思うし、この見方を簡単に無視してはならないとも思っている。李氏は残念ながら「徴実」の犠牲者になってしまったのかもしれない。
  「徴実」の「官兵制先直取卓淳而左軍由淡路島但馬右軍経難波武蔵」という見方は、『桓檀古記』の「任那伊倭之屬莫不稱臣海東之盛於斯爲最矣」に共通しているように思えてならない。


 碑文徴実の前後

  拓本には、初期廊填本、原石拓本、石灰拓本、模刻本の四種類がある。廊填本とは紙を碑面にあて、軽く叩いて字形をなぞり、字以外の部分を墨で塗ったものであり、正確には拓本とは呼べないものであるが、原石拓本がとられるまでの初期段階のものは、この方法によってとられていたという。李進熙氏が、日本陸軍参謀本部が石灰偽造したものだという酒匂本は、この廊填本である。
  昨年2月に出版された徐建新氏の『好太王碑拓本の研究』によれば、酒匂本は1883年に酒匂景信が手に入れたもので、石灰を塗って拓本をとるようになったのは1890年代になってからだという。ここでは、李進熙氏の「石灰塗布作戦」とそれに対する王健群氏、徐建新氏、また日本の研究者諸氏の批判・反論の内容については述べないが、拓本がどのようにとられたか、という研究だけをみても、「石灰塗布作戦」などというものは存在しなかったことがわかる。また石灰塗布がおこなわれたとする字そのものに、石灰塗布によって日本陸軍参謀本部のもくろみ(皇国史観)が表現されているかというと、それはまったくなく、李進熙氏の主張は空回りしている。「石灰塗布」は王健群氏、徐建新氏もいっているように、現地の採拓者が、拓本をとりやすくするため、字形を明確にするためにおこなったものとみてよいと思う。
  徐建新氏は『好太王碑拓本の研究』で新発見の拓本について書いている。拓本は石灰拓本で、徐氏はその拓本を文運堂本と呼び、これまで石灰拓本の中で一番早い時期のものとされていた内藤湖南本よりも古く、1890年半ば以前のものとみている。徐氏の見方は論理的であり、各種拓本が作られた年代については、徐氏の見方に従いたい。
  これらの各種拓本と徴実の時期を比べれば徴実の実体がわかってくる。これらの内、主なものを徐氏の見方に従って制作年代順に並べると次のようになる。

①酒匂本(初期廊填本)      1883年に入手
②水谷拓本(原石拓本)      1889年に李雲従が採拓
③文運堂本(石灰拓本)      1890年~1894年の間
④古呉軒本・呉椒甫本(石灰拓本) 下限1894
⑤シャバンヌ本(石灰拓本)    1907
⑥上田正昭本(石灰拓本)     1910年前後
⑦中野政一本(石灰拓本)     1912
⑧朝鮮総督府本(石灰拓本)    1913年

  徴実の前文にあるように、桂延寿と李観楫は1898年5月に初めて碑を見て、碑の全文を写した。それが前掲した「官兵」以下の碑文である。それは①~⑧でいうと④と⑤の間だったことになる。したがって、桂延寿と李観楫が碑文を写したということが事実であるならば、碑文は古呉軒本あるいは呉椒甫本と同じか、シャバンヌ本あるいは場合によっては上田正昭本とも同じであった可能性がある。しかしかつて、これらの拓本に徴実の碑文と同じ碑文を持った拓本があったということを聞いたことがない。もしあったとすれば大騒ぎになっていたはずである。徴実は、高句麗軍は任那・加羅だけではなく、日本の畿内にまで到達していたという、とんでもない内容を含んでいるからである。
  碑の第2面左上の、前述したように字が彫られていない部分、第2面の終りから第3面第1行の部分は、酒匂本においても、文運堂本においても、また朝鮮総督府本においても、いくつかの字が石灰補修によって異字となっているものもあるが、ほとんど同じである。徴実のように欠字をぎっしり埋めているような状況はこれらの拓本にはない。碑文は1898年の前もその後も、大きく変化することはなかったのである。これが拓本からみた結論である。


  徴実に似た出来事

  実はこの徴実と同じようなことが1903年にすでに起こっていた。王健群氏によれば、栄禧は1903年『古高句麗永楽太王墓碑文攷』の中で、光諸八年の壬午(1882)に、山東の平民の[一の下に丌]丹山(きたんさん)に石摺りをしに行かせ、完璧な拓本を手に入れた(王健群氏による要旨)、と書いているという。そしてさらに第3面第1行の欠落部を次のように補ったという。

官兵移師百残、囲其城。百残王惧、復遣使献五尺珊瑚二、朱紅宝石筆床一、他倍前。質其子勾拏。(王健群著『好太王碑の研究』)

  栄禧が補ったのは栄禧自身が、栄禧の研究に基づいて推定したものに過ぎなかった。徴実の内容は栄禧のものとはまったく異なるが、桂延寿は栄禧の『古高句麗永楽太王墓碑文攷』をみて、欠落部の造文を思い立ったのかもしれない。
  推定した欠落部がたとえ史実に近かったとしても、歴史家として絶対してはいけないことを栄禧はしてしまった。ましてやそれが史実とまったく異なっていたとすれば、その責任は重大である。栄禧が徴実を生んだといえるかもしれない。


  李炳銑氏の誤解

 李炳銑氏は、今西龍が1913年におこなった広開土王碑調査の報告文(1915年『日本古代史』「広開土境好太王陵碑に就て」)の、

此碑欠落せし部分少からず、碑面風雨に侵食せられ小凸凹を生じ且刻字浅露となれり、第一面第二面最も甚しく、第三面は欠落せし部分少からざれども残余の碑面は第二面のそれに比して稍平なり。

を引用し、《「欠落した部分は第1面と第2面が最も甚しい」といったが、『大日本時代史』(1915)一巻(上)の前に載せられている拓本(冩真縮刷)には、第3面の欠落部分が最も甚しいことである。即ち、今西の調査内容と拓本の内容が違う点である》という。しかし今西龍の報告書をよくみると、これは李炳銑氏の読み方の浅さというか、誤解であることがわかる。
  引用部分は、碑面の小凸凹部分を主眼にして述べた文である、ということをまず知らなければならない。今西龍が「第一面第二面最も甚しく」といったのは、碑面の小凸凹のことであり、欠落部分のことではない。「此碑欠落せし部分少からず」は、「此碑」とあるように、碑全体の状態を表現したものであり、第一面第二面だけを指したものではない。「第三面は欠落せし部分少からざれども残余の碑面は第二面のそれに比して稍平なり」は、第三面は欠落部分は多いけれども、碑面の状態は第二面に比べると小凸凹が少なく平らである、といっているのである。このように今西龍は、「欠落した部分は第1面と第2面が最も甚しい」とは決していっていない。李氏の表現は正しくない。勝手に変えてしまっている。李氏は「徴実」に惑わされ、今西龍が報告書で言わんとしたことを誤読してしまったのである。
  また李氏は、第3面第1行の41字について、今西龍の『大日本時代史』の原稿に「三面第一行ニ下ノ四十一字アリ」という註があったにもかかわらず、『大日本時代史』(増補版1915)にはその41字は載っていなかったことから、今西龍が調査したときには41字はあったが、その後日本の参謀本部の手によって削り取られた、とみる。しかし今西龍は41字が明確な碑字だったといっているわけではなく、欠落字を含めて第3面第1行には41字があったことを報告しているに過ぎないのである。それまでこの第3面第1行は欠落字が多いため拓本にはとられていなかった。
  李氏は皇国史観に対する反発心の強さからか、史料を冷静にみる判断を失ってしまったようである。日本人の皇国史観はこれまでにも歴史をみる目を多く曇らせてきたが、まったくそれとは逆の強い気持ちも歴史をみる目を多く曇らせてしまうのである。史料は独立してそれだけをみるのではなく、一連の多くの史料の中で矛盾しない史料であることを確認してから使用しなければならない。私たちは改めてこのことを肝に銘じる必要がある。


  広開土王碑文の任那加羅

  前回・前々回にも任那について触れたが、ここでもう一度広開土王碑に現れている任那加羅について少し考えてみたい。『三国史記』や『桓檀古記』は時代がかなり下がるため、これだけでは任那の存在を疑問視する人が現われても当然と思われるが、広開土王碑に「任那加羅」という文字が彫られていることによって、その存在は否定できないものになっている。問題はどこにあったか、である。これがわかれば今度は『日本書紀』の記述がどれだけ真実性があるか判断できるようになる。
  王健群氏は『好太王碑の研究』で、第2面第8~9行の

從男居城至新羅城倭滿其中官軍方至倭賊退
自倭背急追至任那加羅從拔城城即歸服安羅人戌兵

の「背急追至任那加羅」の前の二字を「自倭」と読む。この二字はそれまでは読めずに欠字となっていた。王氏はその字の状態について説明はしていないが、実見した結果「自倭」としたのだと思われる。そして「急追至任那加羅」を、倭の背後すなわち南から北へ攻めていったものだと解釈する。王氏は任那加羅を金官加耶だとするから、高句麗軍は金官加耶よりもさらに南から攻め金官加耶に至ったと考えなければならないことになる。しかしその前の文を読むと、「從男居城至新羅城倭滿其中」とあり、倭人がいたのは男居城と新羅城の間であり、新羅城は新羅の都城だと王氏はいっており、男居城も新羅内にあるとみて間違いなく、このことからすれば、倭人は新羅国内にいて任那加羅まで追われたと考えなければつじつまが合わなくなる。「自倭背急追」はさらにその前に「官軍方至倭賊退」とあるように、新羅に入ってきた高句麗軍に追われ倭が任那加羅方面に逃げたことによって、おのずと「自倭背」となったのである。「倭背」は決して任那加羅のさらに南を意味していない。
  「任那加羅」の次の「從拔城」は任那加羅にある「從拔城」とみられ、「任那加羅」は「任那」と「加羅」ではなく一つの国ではないかという見方もできないことはないが、《06「任那」について》の項でみたように、任那と加羅は近い関係にはあるが別々の国であるとみなければ、『宋書』などの史料と合わなくなる。倭王は任那と加羅をそれぞれ一国として数え、中国もそれを認めている。
  碑文からは任那の位置は確定できないが、任那は加羅とは地理的にも文化的にも政治的にも非常に近い関係にあったのではないか、ということはわかる。広開土王碑は少なくとも任那の存在は明らかにした、といえる。しかしそれは『日本書紀』に書かれた任那日本府の存在までも明らかにしたということにはならない。このことは勘違いしてはならない。


  広開土王碑の教訓

  李進熙氏の日本陸軍参謀本部による「石灰塗布作戦」説は完全に否定されたが、このことにより研究は大いに進展した。徐建新氏は拓本とは何かを広く知らしめ、碑文の理解を高めた(『好太王碑拓本の研究』)。王健群氏は碑を実見し拓本と比較することによりこれまでの間違いを指摘し、正確な史料収集の大切さを示して見せた(『好太王碑の研究』)。
  徐建新氏の釈文は広開土王碑の碑文では最新のものであるが、その中のいくつかの字は王健群氏が実見して記録したものと異なっている。碑文を解釈するに当たって、これらの異なっている字についてはどちらを採るかという問題があるが、私は王健群氏のものを採る。なぜなら王健群氏は碑を実見・精査しているからである。だからといって、徐建新氏が確認した字が間違っているというのではない。徐建新氏の釈文もまた正しいと思う。しかしそれは拓本においてである。拓本上においては正しいのである。
  かつての広開土王碑研究の問題点は、研究者によって使用する拓本が異なっていたこと、同じ拓本を使用しても不確かな字や欠落字をそれぞれが勝手に造った字で埋めてしまったことである。なぜそんなことができたのか。それは研究者が実物を見ずに不明瞭な拓本をその史料として使用していたからにほかならない。多くの研究者が歴史研究の基本中の基本のことをしていなかったのである。
  これとは少し異なるが、文献学にも同じようなことがいえる。『古事記』や『日本書紀』を知らない人が、中国正史の『漢書』地理志から『隋書』東夷伝までの倭関係記事を読んだとき、倭・倭国の位置をどうみるだろうか。さらに『旧唐書』東夷伝、『新唐書』東夷伝を読んだとき、倭国と日本国の関係をどう理解するだろうか。日本国は倭国のことだと言い切る人がどれだけいるだろうか。私はいつもこのことを考える。
  『古事記』『日本書紀』を読むことによって中国史書の記述を否定する見方が生まれてくる。そこにはそれを優先する史料批判がどれだけあったのだろうか。「倭の五王」をヤマトの天皇に比定したり、「阿毎多利思北孤」を聖徳太子に比定したりしようとする人は、『古事記』や『日本書紀』に書かれていないこれらの倭王を、『古事記』や『日本書紀』のヤマトの王に比定する根拠をどうやって証明したのだろうか(証明などしていない)。
  広開土王碑をめぐっての論争にしても、日本古代史に関する古くからの論争にしても、その根源にあるものは同じである。正しい史料(一連の資料の中で矛盾しない史料)を正しく理解すること、このことがないがしろにされているという、ただこの一点である。
  過去におけるいくつかの論争は決して無駄にはならない。しかしそれを反省しないでいると、また同じ論争が無駄に繰り返されるばかりである。


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