『桓檀古記』について

2007.02.01

  檀君神話

  『桓檀古記』は20世紀の初めに桂延寿によって編修されたといわれている。『桓檀』は、天神桓因とその子桓雄、そして桓雄の子檀君王倹の「桓」と「檀」をとったものと思われる。
  檀君王倹の母親は熊から人間になったと檀君神話は書く。井上秀雄氏は『古代朝鮮』(NHKブックス)で「この伝承の源流は高句麗や百済の始祖生誕伝承で、中国禹の生誕伝承にも通じ、熊にたいする信仰は、アジア・ヨーロッパ大陸から北アメリカにまで広く分布している民間伝承である。檀君神話も高麗前期までは、平壤地方の民間信仰の一つであったと思われる」と書いている。さらに続けて「この伝承が広まる12世紀前半から13世紀前半にかけては、宮廷貴族政治が崩壊し、武臣の権力争奪がおこるとともに全国的な民乱が長期にわたって続発した。1231年モンゴールの侵入がおこると、高麗武臣政権は都を江華島に移した。(中略)高麗の国民は各地でこの侵略軍と戦い、支配者の庇護はなくても、自分たちの村を守るため最後まで戦った。このように侵略軍と戦う農民の中に、支配者とは別な愛国心が広範に広がっていったと思われる。その愛国心の象徴が檀君神話なのであった。」「しかし、そうした事情をふまえたものか、『三国遺事』の檀君神話は現実の支配者との関係を厳しく拒否している。(中略)この檀君神話は現実の高麗王朝はもちろん、高句麗や新羅の王朝とさえ結びつけようとしていないのである」と書く。
  このことは、檀君神話は高句麗の歴史には直接結びつくことのない独立した神話である、ということを意味している。しかし逆に、現実の体制に結びつかないからこそ、この神話を心の支えとして一般の国民は生きてきたともいえるのである。
  『桓檀古記』はこうした神話を載せ、そこには檀君神話の精神が貫かれている。このことも偽書説の一つの理由になっているのかもしれないが、偽書だからといってすべてが偽史だとは私は思わない。このことは日本の古史古伝にもいえる。

  鹿島説

  ところで、『桓檀古記』といえば鹿島曻氏が有名であるが、鹿島氏は日本の古史古伝と絡め、非常に特徴ある説を唱えている。そのいくつかを次に挙げる。

(1)『記紀』ではイワレヒコ(神武天皇)の父ウガヤフキアエズは一代となっているが、ウガヤ王朝は51代あった。
(2)『隋書』の「阿毎多利思北孤」の王朝は倭人の王朝である。
(3)『記紀』は九州から大和を支配していた倭人の蘇我王朝の歴史を抹殺した。
(4)「大化の改新」は新羅の「毘雲の乱」の翻訳である(金春秋=中大兄皇子、金庾信=中臣鎌足)。
(5)白村江の後、新羅が日本史をつくり金春秋が天智になったが、その後百済人が政権を奪い日本史をつくり直し、百済王子豊璋が天智となった。
(6)『記紀』の主体は百済史の和訳にすぎない。

 (1)については信じられないこと、といえる。しかし、長い過去の歴史の後にイワレヒコが生まれたと考えればそれほど不思議なことではない。これはある民族の長い歴史を一王族のものとして表現したものなのではないか。ウガヤ王朝ということではなく、民族の長い歴史だと考えれば、そこには否定する理由は特に見つからない。(2)の「阿毎多利思北孤」の王朝が倭人の王朝であるとすることは私も同じである。しかし(3)(6)については、そのように考えなければならない理由が私にはどうしてもみつからない。また鹿島氏は九州から大和まで倭国だったとみているが、そう考えないと(3)(5)は成立しないのである(大和に倭国がないと、倭国に代わる歴史を借史してまでつくる意味が存在しなくなる)。倭国は九州であり日本国は大和に7世紀後半に成立した国である、とする私の説では(3)(5)は当然成立しない。
  ただ(6)について、『記紀』は百済史の和訳だとするのは少し大げさではあるが、これを全部否定することはできないように思う。本国百済の歴史とはいえなくとも、日本列島に渡り、あるいは日本列島に亡命し、日本建国の中心となり日本人となった百済人によって、彼らの歴史の一部が倭人の歴史と共に日本の歴史の一部として書かれた、それが『日本書紀』だったのではないかと私は思っている。そのことは欽明紀をみればよくわかる。

  『桓檀古記』原文抜粋

  私は基本的部分において鹿島説に賛同するものではない。しかし鹿島氏が力を注いだ『桓檀古記』の、神話時代ではなく、歴史時代を記録する「高句麗国本紀」「大震国本紀」には興味深い記述が多々あり(任那や伊都など)、私のこれまでの見方によればこれらの記録はどのように解釈できるのかを試してみたいと思うようになった。次にそのことについて述べてみたい。『桓檀古記』の、その関連部分を挙げると次のとおりである(句読点は見やすくするため、鹿島氏の訳文を参考に矢治が付した)。

〈高句麗國本紀〉

一自渡海、所至擊破倭人倭人百濟之介也百濟先與倭密通、使之聯侵新羅之境
帝躬率水軍、攻取熊津・林川・蛙山・槐口・伏斯・買雨・述山・進乙・禮奴・斯只等城、路次・俗離山、期早朝祭天而還。時則、百濟・新羅・駕洛、諸國皆入貢不絶。契丹・平涼皆平服。任那伊倭之屬、莫不稱臣。海東之盛於斯爲最矣。

先是、陜父奔南韓、居馬韓山中。從而出居者、數百餘家、未幾歳、連大歉、流離遍路。
陜父乃知將革、誘衆裏糧、舟從[氵貝]水而下、由海浦而潛航、直到狗邪韓國。乃加羅海北岸也。居數月、轉徙于阿蘇山而居之。是爲多婆羅國之始祖也。後併于任那聯政、以治。三國在海、七國在陸。初弁辰狗邪国人、先在團聚。是爲狗邪韓国。多婆羅一稱多羅韓國。自忽本而來、與高句麗早已定親。故常爲烈帝所制。

多羅國與安羅國同隣而同姓。舊、有熊襲城。今九州熊本城是也。

任那者本在對馬島西北界。北阻海有治。曰國尾城。東西各有墟落、或貢或叛。後、對馬二島、遂爲任那所制。故自是任那乃對馬全稱也

自古、仇州對馬乃三韓分治之地也、本非倭人世居地

任那又分爲三加羅。所謂加羅者首邑之稱也。自是三汗相爭、歳久不解、佐護加羅屬新羅、仁位加羅屬高句麗、鷄知加羅屬百濟是也。

永樂十年、三加羅盡歸我。自是海陸諸倭、悉統於任那分治十國、號爲聯政。然直轄於高句麗、非烈帝所命、不得自專也。

〈大震國本紀〉

正州依慮國所都。爲鮮卑慕溶廆所敗、憂迫欲自裁忽念、我魂尚未泯、則何往不成乎。密囑于子扶羅、踰白狼山夜渡海口。從者數千、遂渡定倭人爲王。自以爲應三神符命、使羣臣獻賀儀。或云、依慮王爲鮮卑所敗、逃入海而不還。子弟走保北沃沮。明年子依羅立。自後、慕溶廆又復侵掠國人。依羅率數千、越海、遂定倭人爲王。

日本舊有伊國、亦曰伊勢、與倭同隣伊都國在筑紫、亦卽日向國也。自是以東屬於倭。其南東屬於安羅安羅本忽本人也

北有阿蘇山安羅後入任那、與高句麗早已定親。

末盧國之南曰大隅國。有始羅郡。本南沃沮人所聚。南蠻・屠忱彌・晥夏・比自[火本]之屬、皆貢焉。南蠻九黎遺種、自山越來者也。比自[火本]弁辰比斯伐人之聚落也。晥夏高句麗屬奴也。

時倭人、分據山島、各有百有餘國。其中狗邪韓国最大、本狗邪本國人所治也。海商船舶、皆會於種島而交易。呉・魏・蠻越之屬、皆通焉。始渡一海、千餘里至對馬國。方可四百餘里。又渡一海、千餘里至一岐國。方可三百里。本斯爾岐國也。子多諸島、皆貢焉。又渡一海、千餘里至末盧國。本挹婁人所聚也。東南陸行五百里、至伊都國。乃磐余彦古邑也

 『桓檀古記』説明と私の解釈

  の説明と私の解釈を若干加えてみたい。
について。「倭人百濟之介也百濟先與倭密通、使之聯侵新羅之境」は、高句麗広開土王(好太王)碑第2面に

九年己亥百殘違誓與倭和通王巡下平穰而新羅遣使白王云倭人滿其國境潰破城池以奴客爲民歸王請命太王恩後(慈)稱(矜)其忠□(誠)□(特)違(遣)使還告以□(密)□(計)十年庚子敎遣歩騎五萬住救新羅從男居城至新羅城倭滿其中官兵(軍)方至倭賊退□(自)來(倭)背急追至任那加羅從拔城

とあるように、広開土王永楽9年、10年の事件を表現したものであるとみてよい。「追至任那加羅」は「任那伊倭之屬、莫不稱臣」に対応し、「海東之盛於斯爲最矣」は高句麗の領土を広げた広開土王の時代にふさわしい表現である。①は史実に沿ったものといえる。ただし「伊倭」は⑨で説明するように畿内の国であり、「倭=畿内大和」という『新唐書』以来の「倭」に対する見方によるものであり、本来は「伊都」「倭」を指していたのではないかと思われる。高句麗広開土王碑は「追至任那加羅」であり「伊倭」はない。このあたりには『日本書紀』と同様の粉飾の臭いを感じる。

  について。陜父は高句麗の始祖朱蒙が東扶餘から逃れるときに行動を共にした友人の一人だと神話には書かれている。朱蒙は紀元前37年に高句麗を建国したとされている。これは日本の神武天皇と同様、史実として鵜呑みにはできないが、陜父はこの時代の人として描かれているということである。陜父は東扶餘を出た後、馬韓から狗邪韓国、そして阿蘇山に移ったという。
  ここには注目すべき記述がいくつかある。一つは、狗邪韓国は加羅海の北岸だという記述である。⑥に任那は三加羅に分かれたとあり、仮に任那を対馬だとすると、対馬は加羅と呼ばれた可能性があり、その北は加羅海となり、「狗邪韓国は加羅海の北岸」に符合する。しかし一方で、加羅は朝鮮半島南部の加耶諸国地域のことを指す場合もあり、この場合もこれらの国の南は加羅海となり、「狗邪韓国は加羅海の北岸」となる(対馬を任那だとする決め手にはならない。2016.06.13  ※任那及び任那加羅については、雑考ノート「任那再考」が私の最新の見方なので、そちらを参照してください。2017.09.30
  二つには、阿蘇山に移った陜父の国は多婆羅国の始祖であり、後に任那を併せたという記述である。多婆羅国はで多羅国と書かれているように、多羅韓国であり多羅国である。多羅国は欽明天皇23年〔562〕春正月条の一本にある、「別言」の任那の一国である(前回の「任那」について 参照)。多羅国は任那を併せたのではなく、任那の中の一国になったということなのかもしれない。また、多婆羅国は高句麗と以前から親しく高句麗烈帝の制する国だと書くが、陜父は朱蒙の友人であるから、これは当然のことといえよう。ただ朱蒙と陜父は実在した人物かどうか、日本の建国神話と同様その実在性には疑問も多く、集団の移動ととらえた方がよいかもしれない。

  ③⑩について。多羅国は安羅国と同隣同姓で、安羅も高句麗と以前から親しく、後に任那に入ったという。安羅は多羅と同様、任那の中の一国であることが欽明紀一本の「別言」でわかるが、多羅と安羅の立場からみても、多羅が任那を併せたのではなく、安羅と同様、任那に入り高句麗の配下になったと見た方がよいと思う。熊襲城、熊本城というのは20世紀の知識によるものと思われる。

  ④⑤⑥について。任那は対馬の西北にあったが、任那が対馬二島全部を制した。しかし任那は三つの加羅、すなわち佐護加羅(新羅)、仁位加羅(高句麗)、鷄知加羅(百済)に分かれ相争ったという。対馬はこのように三韓が支配していたところであり、九州も同様であり、もともと倭人が住んでいたところではないと書く。
  九州・対馬はもと倭人がいたのではなく、三韓の支配するところだったというのは、日本列島には朝鮮半島からの渡来者が常にいたということを示すものであり、日本の弥生時代のはじまりを考えるとき、北東アジア系の人たちが日本人の大半を占めているという遺伝子研究の成果をみるとき、これは特に不思議なことではない。ただここではっきりさせておかなければならないのは、これらのことは、朝鮮半島にあった国が日本列島を支配したということを意味しているのではなく、さまざまな集団が朝鮮半島と日本列島の間を行き来し、また定住したりしていたという経緯を示しているものだ、ということである。また、ここでいう倭人は「倭(やまと)」の人を意味しているように私には思える。内外の歴史家を問わず、「倭」は「やまと」とみている人が多く、ここの記述もその域を出ていない。倭人が日本列島に渡って水稲耕作技術を伝えたことからすれば、対馬や九州に倭人がいなかったということはありえない。

  について。永楽10年(400)、任那の三加羅はすべて高句麗下となり、倭もことごとく任那に統率されたという。任那に統率されたということは高句麗下に入ったということである。広開土王碑には、この年の事件として「追至任那加羅」とある。「分治十国」は欽明紀一本の「別言」の十国からとったのではないかと思われる2016.06.13

  について。依慮は扶餘国王であり、285年鮮卑の慕溶廆に破れ自殺する。その後扶餘は再建されるが、慕溶廆のたびたびの侵略に、依慮の子依羅は海を渡って倭人を定め国をつくったという。この真偽はわからないが、次に述べるようにこの国が安羅だったとすると、任那十国の一つであり、倭人を定めたかどうかは別として、ありえないことではないように思う。

  について。日本にはもと「伊」という国があり、またの名を「伊勢」といい、「倭」の隣にあったという。この「倭」は「伊勢」の隣にあるのだから明らかに「やまと」を指している。「倭」がすべて「やまと」を意味していることがわかる。『桓檀古記』は「倭=畿内大和」の認識で書かれているのである。
  「伊都國在筑紫、亦即日向國也」は、伊都国は筑紫にあり、それは日向国であるといっているのだから、日向は宮崎県の日向ではないことをこの記事は示している。「自是以東屬於倭」は『隋書』の「自竹斯國以東、皆附庸於俀」によったものと思われるが、『隋書』と同じ方位観を持っていたということである。南東に安羅があるというのは、私が『隋書』俀国伝の方位についてこれまで述べてきたように、筑紫から東にある倭が九州島そのものであることからすれば、南東は筑紫の南にあたり、安羅の位置を示すの「北有阿蘇山」に合致している。
  忽本は卒本(扶餘)であり、安羅がもと忽本人であるということは、安羅は扶餘の出であり、陜父が阿蘇につくった国が多婆羅国であることを考えると、を考慮すれば、安羅は依羅が倭に建てた国ということになる。

  について。末盧国の南は大隅国であるというのは、末盧国の南に大隅国が接しているという意味ではなく、南の方角には大隅国があるということである。

  について。初めの部分は中国史書によるものであるが、種島に会して交易するという「種島」についてはわからない。壱岐がもと斯爾岐国であるというのは、任那の「別言」に斯二岐国というのがあり、二つの国名の発音は同じとみてよく、この類似は対馬と壱岐との間に何らかの関係があったことをうかがわせる。
  「伊都国は磐余彦の古邑である」というのはの「伊都國在筑紫、亦即日向國也」と『記紀』によるものと思われる。伊都国は筑紫にあるが、それは日向国であるという。『記紀』ではイワレヒコは日向国を発って大和に向かう。日向国はによれば伊都国だから、イワレヒコが発ったのは伊都国だったということになる。したがって「伊都国はイワレヒコの古邑」となるのである。
  この筑紫を九州全体とし、日向を宮崎県だとすると、伊都国も宮崎県にあったことになり、『魏志』倭人伝などの記述に矛盾する。また安羅は多羅の隣で熊本にあったのだから(③参照)、これでは安羅が日向の南東には存在しなくなり、『桓檀古記』自身に矛盾してしまう。
  これは、日向を宮崎県だとする学者が多い中で、ある意味画期的な見方である。伊都国がイワレヒコの古邑だというのは、『記紀』との合成による偶然のたまものかもしれないが、イワレヒコが九州北部のある地点から東へ発ったというのは、今ではかなり有力な説である。

 私がみた『桓檀古記』

  『桓檀古記』における任那と日本列島に関係する部分については、概略以上のようであるが、このことから、「倭=畿内大和」ではないという、私のこれまでの日本古代史に対する見方によっても、矛盾なく解釈できることがわかる。というより、そう考えたほうが、より正しく『桓檀古記』を理解できるのである。(現在私は、神話部分を除いて、倭・日本に関する部分において、『桓檀古記』は「山家要略記」や『日本書紀』などにヒントを得て、桂延寿が自分の考えによって創作・再構成したものではないか、と疑っている。2016.06.13)。鹿島氏のように、日本史が朝鮮史の借史であると考える必要性をそこには見出せない。中国史書・朝鮮史書・日本史書、それに遺伝子などの情報を正しく理解すれば、真実は自ずと現われてくるはずである。
  最後にを年代順にわかりやすく整理してみよう。

A 高句麗始祖朱蒙の友・陜父は東扶餘から馬韓・狗邪韓国・阿蘇山へと移り、多婆羅国の始祖となった。多婆羅国は後に任那を併せた(任那に入った)。

B 任那は対馬の西北にあったが、対馬二島を制して任那は対馬全島の称となった。

C 任那は分かれて三つの加羅となった。佐護加羅は新羅に属し、仁位加羅は高句麗に属し、鶏知加羅は百済に属した。

D 九州と対馬はもともと倭人が住んでいたところではなく、新羅・高句麗・百済の三韓が分かれて統治していたところである(九州と対馬には大和人ではなく、朝鮮半島から渡って来た人たちが住んでいた。本当の意味での倭人はいた)。

E 大隅国には始羅郡があり、もと南沃沮人が住んでいた。

F 壱岐はもと斯爾岐国と呼ばれた。末盧国はもと挹婁人(現在の中国東部)が住んでいた。

G 伊都国は筑紫にあり、日向国とも呼ばれ、磐余彦の古邑である(これは伊都国=日向国と磐余彦の東遷出発地が日向であることを合成した結果から生まれたもの)。

H 日本には古くは伊勢という国が倭(大和)の隣りにあった。

I 伊都国より東(東南)は倭(九州の倭国)に属し、伊都国の南東(南)は、安羅(阿蘇山の南)に属していた。安羅は卒本扶餘の出であり、鮮卑慕溶廆に敗れた(285年)依慮の子依羅がつくった国である。後に任那に入った。

J 高句麗広開土王のとき、海陸の倭を任那に統属し、任那の三加羅、伊倭(九州北部の伊都国と倭)を配下に入れ(伊倭は広開土王碑の「追至任那加羅」からみると粉飾の感が強い)、任那は十国(このとき、三加羅のほかに高句麗系の多羅国・安羅国などがすでにあった)に分け統治した。

※『桓檀古記』では高句麗の力が朝鮮半島から九州北部まで広範に及んでいたことを強調しているが、400年頃の情勢は、広開土王碑の碑文によればまさにそのとおりだったといえる。高句麗の任那「分治十國」はありえないことではないが、「追至任那加羅」の後、高句麗は任那をどうしたのかということについてはまったく不明であり、「分治十國」がはたして史実なのかどうか確かめる術がない。分治十国の十国が、『日本書紀』欽明天皇23年〔562〕春正月条の一本の「別言」任那十国と同じであるとすると、それはすでに高句麗支配から離れていたように思われる。これは今後の課題となろう。

 偽書は偽史か

  偽書といわれている史書にあまり深入りするつもりはないが、偽書だからといってその内容がすべて偽史だとは限らないということは心に留めておく必要がある。
  歴史は支配者による見方と民衆による見方とは異なっていて当然であるが、どちらが史実に近いかというとそれは一概にはいえない。その支配者の時代の歴史は支配者による自己に有利な歴史に書き換えられていると一般的にはみられている。一方、民衆のみた歴史には民衆の誇りと夢や期待も入っており、政治・政略面でもどこまで史実に基づいているか疑問が残る。
  しかしながら歴史を考えるとき、これらの史書の「いいとこどり」や、偽書といわれている史書を偽史として頭から切り捨てるのではなく、多くの史書との照合の中でそれらを判断していくべきではないかと私は思うのである。

※『桓檀古記』は、編者・桂延寿が認められている歴史書を参考にしながらも、彼の持つ20世紀の強い思いが、その史実を曲げてしまった史書だと、現在私は理解している。2016.06.13


本文中に引用した高句麗広開土王(好太王)碑文は今西龍氏の釈文をもとにしているが、今回参考として、()内に王健群氏が実際に碑字を確認し従来と異なった字だとされたものを記載した。また先入観を防ぐため句読点をはずした。2007.02.13
※説明が的を射ていなかった部分があったので訂正・修正した。2016.06.13


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