日本書紀 推古天皇16年(608)記事を検証する

2021.10.26

  隋書俀国伝大業四年記事と日本書紀推古天皇十六年記事を比較する

  中国史書を先入観なしに読み、一つの史書内そして各史書間における繋がり、整合性を追求していくと、「倭(わ)国は7世紀後半まで九州に存在していた」という史実が浮かび上がってくる。これに対し、日本側の史書、特に日本書紀では、はじめから「倭」を「やまと」と読み、倭(やまと)国は畿内大和にあったとしている。中国史書と日本書紀では、その記述の内容はまるで異次元の世界のように食い違っている。
  私は、拙著『日本書紀10の秘密』で、倭(わ)国が存在し統治していた九州の地において、畿内の「やまと」が活躍する日本書紀の記事は一体何を意味しているのかを検証した。それはあくまでも国内の国同士による事件だったが、日本書紀には、中国史書に記録されている倭(わ)国の事件が畿内の「やまと」の事件のこととして語られているものもある。その中でも有名なのが推古天皇16年(608)の「唐」が遣使してきた記事である。
 下の表は、その記事と、それと同じ事件を記録したものとされる隋書俀国伝の記事とを比較したものである。邪馬台国畿内説者は、この二つの記事は、俀国が畿内大和にあったとする見方を後押ししているとみているようであるが、この二つの史書の記述には矛盾や不一致点が多々ある。

 西暦 隋書 俀国伝  日本書紀 推古天皇
 600年  開皇二十年、俀王がおり、姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩雞弥と号した。使を遣わして闕に詣った。
 上(文帝)は役人にその風俗を訪ねさせた。使者がいうには「俀王は天を兄とし、日を弟としている。天がまだ明けないとき、出かけて政を聴き、胡坐をかいて坐り、日が出れば、理務をとどめ、我が弟に委せよう、という」と。高祖は「これは大いに義理のないことだ」といい、訓えてこれを改めさせた。
 王の妻は雞弥と号する。後宮に女が六、七百人いる。太子を名づけて利歌弥多弗利という。城郭はない。
 内官に十二等がある。一に大徳といい、次は小徳、次は大仁、次は小仁、次は大義、次は小義、次は大礼、次は小礼、次は大智、次は小智、次は大信、次は小信、員に定数はない。
 軍尼が百二十人いて、中国の牧宰(国主)のようである。八十戸に一伊尼翼を置くが、今の里長のようなものである。十伊尼翼は一軍尼に属する。
 その服飾は、男子は裙襦を着るが、その袖は微小である。履物は木靴の形のようで、その上に漆を塗り、これを履く。庶民は多くはだしで。金銀を飾りとすることができない。昔、衣は横幅の広いもので、結束して互いに連ね縫うことはなかった。頭にはまた冠はなく、ただ髪を両耳の上に垂れるだけだった。隋になり、その王がはじめて冠を制した。錦綵でこれをつくり、金銀で花をちりばめ飾りとした。婦人は髪を束ね、また裙襦、裳を身につけ、みなひだかざりがある。
竹で櫛をつくり、草を編んでしとねとする。雜皮で表をつくり、文皮で縁とりをする。弓、矢、刀、矟、弩、[矛賛]、斧があり、皮に漆を塗り甲とし、骨を矢鏑とする。兵はあっても征戦はない。その王は、朝会には必ず儀仗をならべ設け、その国の楽を奏する。戸は十万ばかりである。
 その仕来りでは、殺人、強盗及び姦するものは皆死刑、盗む者は盗んだものを計って物を酬いさせ、財のない者は身を没して奴とする。軽い重いによって、あるいは流し、あるいは杖でうつ。獄訟を問いただすごとに、承引しない者は、木をもって膝を圧えつけ、あるいは強弓を張り弦をもってその項を鋸のように引く。あるいは小石を沸湯の中に置き、競う者にこれを探させ、「理の曲がっている者は、すぐに手が爛れる」という。あるいは蛇を甕の中に置き、これを取らせ、「曲がっている者は、すぐに手をさされる」という。人は頗るもの静かで、争訟はまれで、盗賊は少ない。
 楽に五弦の琴、笛がある。男女は多くが黥うでや顔、身体に入墨し、水に潜り魚を捕らえる。文字はなく、ただ木を刻み繩を結ぶだけである。仏法を敬う。百済に仏教を求得し、はじめて文字をもった。卜筮を知り、もっとも巫覡を信じる。正月一日になるごとに、必ず射戲、飲酒をする。その余の節はほぼ中国と同じである。棊博(囲碁)、握槊(すごろく)、樗蒲(ばくち)の戯が好きである。
 気候は温暖で、草木は冬も青く、土地は肥え美しく、水が多く陸は少ない。小さい環を鵜
の首にかけ、水に入って魚を捕らえさせ、日に百余頭は得られる。習慣では盤爼はなく、檞の葉を敷き、手づかみで食べる。性質は素直で雅風がある。女が多く男が少ない。婚嫁には同姓をとらず、男女が互いに悦ぶ者はすぐに結婚する。婦が夫の家に入る時には、必ずまず犬(※火とする解釈が多い)を跨ぎ、そこで夫と互いに見える。婦人は淫妬しない。死者は棺槨におさめ、親しい賓客は屍について歌舞し、妻子兄弟は白布をもって喪服をつくる。貴人は三年、外に殯し、庶人は日を卜して埋葬する。葬るときは、屍を船の上に置き、陸地でこれを牽くのに、あるいは小さいくるまを用いる。
 阿蘇山がある。その石は故なく火が起こり天に接するもので、習慣として異となし、よって祷祭をおこなう。如意宝珠がある。その色は青く、大きさは雞の卵のようで、夜は光をはなつ、魚の眼精だという。
 新羅、百済は、みな俀を大国で珎物の多い国とし、ともにこれを敬仰し、つねに通使、往来する。

 (推古天皇8年) 隋書俀国伝に該当するような記事なし
 607年  大業三年、その王多利思北孤が使いを遣わして朝貢した。使者がいうには、「海西菩薩天子が重ねて仏法を興すと聞いている。故に遣わして朝拜させ、兼ねて沙門数十人が来て仏法を学ぶのである」と。
 その国書には、「日出ずる処の天子が日没処の天子に書を致す、恙はないか。云々」とあった。帝はこれをみて悦ばず、鴻臚卿に「蛮夷の書は無礼なところがある。二度と使者の話を上申するな」と命じた。

 (推古天皇15年)7月3日、大礼小野臣妹子を大唐に遣わした。鞍作福利を通訳とした。
 608年  明年(大業四年)、上(煬帝)は文林郎裴清を使者として俀国に遣わした。
 百済を度り、竹島に行き、南に耽
羅国を望み、都斯麻国を経て、はるかに大海の中にある。また東に行って一支国に至り、また竹斯国に至り、また東に行き秦王国に至る。その人たちは華夏に同じで夷洲とするも、疑わしく明らかにすることはできない。また十余国を経て海岸に達する。竹斯国より東はみな俀に附庸する。
 俀王は小徳阿軰臺を遣わし、数百人を従え、儀仗を設け、鼓角鳴らして来て迎えさせた。十日して、また大礼哥多毘
を遣わし、二百余騎を従え都のはずれに出て客をねぎらわせた。すでに俀王の都に着いていた。
 その王は清と互いに見え、大いに悦んでいった。「私は海西に大隋礼義の国があると聞き、遣わして朝貢した。私は夷人で海隅に僻在し礼義を知らない。そこで境内に留まり、すぐに互いに見えることをしなかった。今、ことさらに道を清め館を飾り大使を待っている。大国惟新の化を是非お聞きしたい」と。
 清が荅えていった。「皇帝の徳は二儀にならび、沢は四海に流れる。王は化を慕うの故をもって、行人(使者)を遣わし来させ、ここに宣諭するのである」と。すでにして清を引いて舘に就かせた。その後、清は人を遣わし、その王にいった。「朝命はすでに達した。すぐに塗(みち)を戒めるように」と。そこで宴享を設けた。
 清を遣わすことにより、再び使者をして清に随い来させ、方物を貢させた。この後ついに絶えた。

 (推古天皇16年)4月、小野臣妹子が大唐から帰ってきた。唐国は妹子臣を蘇因高といった。大唐の使人裴世清、下客十二人が妹子臣に従って筑紫に着いた。難波吉士雄成を遣わし、大唐の客裴世清らをめした。唐客のためにさらに新館を難波の高麗館のほとりに造った。
 6月15日、客らは難波の港に泊った。 (中略)
 8月3日、唐客が入京した。 (中略)
 12日、唐客を朝庭に召し、使いの旨を奏させた。阿倍鳥臣・物部依網連抱の二人を客の導者とした。大唐の国の信物を庭中に置いた。使主裴世清は書を持ち、二度お辞儀をして、使いの旨を言上して立った。
 その書には、「皇帝は倭皇に問う。使人の長吏、大礼蘇因高らがやってきて思いを全くした。朕は宝命をよろこんで承け、天下を治めている。德化をひろめ、全人類におよぼそうと思う。愛育の情は、遠くも近くも隔てない。皇が海外に独居して、人民を撫で寧んじ、国内は安楽、風俗は融和し、深い気、至れる誠あり、遠く朝貢していることを知った。丹誠の美をほめてとらせる。ややあたたかである。この頃はいつものように変わりはない。鴻臚寺の掌客裴世清らを遣わして、ようやく往意を宣べる。あわせて物を送ること別のようである」とあった。
 阿倍臣が進み出て、その書を受けて進行した。大伴囓連が迎え出て書を承け、大門の前の机の上に置いて奏した。事がおわって退出した。この時、皇子、諸王、諸臣は、ことごとく金の挿花を頭に着けていた。また衣服にみな錦、紫、刺繍、および五色の綾羅を用いた。「服の色はみな冠の色を用いる」といわれている。

 16日、唐の客らを朝堂で饗した。
 9月5日、客らを難波の大郡で饗した。
 11日、唐客裴世清が帰国した。また小野妹子臣を大使とし、吉士雄成を小使とし、福利を通訳とし唐客に副えて遣わした。ここに天皇が唐帝に聘うた。その辞には、「東の天皇が敬いて西の皇帝に申し述べます。使人鴻臚寺掌客裴世清らが来て、久しい思いが解けました。季秋で寒くなります。あなた様はいかがお過ごしでしょうか。清くのびのびとお過ごしのことと思います。こちらはいつもと変わりありません。今、大礼蘇因高、大礼那利らを遣わします。謹白、意をつくせません」とあった。
 この時、唐国に遣わした学生は、倭漢直福因、奈羅訳語恵明、高向漢人玄理、新漢人大圀、学問僧新漢人日文、南淵漢人請安、志賀漢人慧隠、新漢人広済ら、あわせて八人である。

※隋書では「倭」を「俀」と書いている。「倭」のことであることは間違いないが、原本に随い「俀」をそのまま使用した。

  この表から、二つの史書の記事の矛盾、不一致点を挙げると次のようになる。

① 隋書では、俀王が遣使朝貢したのも、中国から俀国に遣使してきたのも隋であるが、日本書紀では、推古天皇15年(607)、16年(608)に通交した相手国は唐であるとしている。
② 俀王には妻がいるとあるが、推古天皇は女性なので妻はいない。
③ 隋書には600年と607年に中国への遣使朝貢記事があるが、日本書紀には607年にあるだけである。
④ 607年の隋書の記事には、俀王が遣使朝貢した理由が書かれているが、日本書紀には遣使したことしか書かれていない。
⑤ 日本書紀では、中国(ここでは唐)がやまとの使者小野妹子のことを蘇因高といった、とあるが、隋書には蘇因高も小野妹子という名も一切出てこない。
⑥ 608年の隋書の記事には、朝鮮半島南端から俀国の都・邪靡堆(邪馬臺)への行路が詳細に書かれているが、日本書紀では「→筑紫→難波→京(都)」となっているだけである。
⑦ 608年の隋書の記事では、俀王は隋の使者裴清に見え、悦び、隋の教えを乞い、裴清はそれに答えているが、日本書紀では、皇帝からの書が披露され、やまと側からは何もなく、その日は終わっている。
⑧ 中国からの使者の名は、隋書では裴清であるが、日本書紀では裴世清である。
⑨ 裴清が帰国する時、隋書には俀王からの辞があったとは記録されていないが、日本書紀では、天皇が皇帝に辞を送ったとしている。そこには「東の天皇が敬いて西の皇帝に申し述べます」とあり、隋書の大業3年(607)の、俀王が皇帝に送った国書に「日出ずる処の天子が日没処の天子に書を致す、恙はないか」とあるのとは、その態度に大きな隔たりがある。
⑩ 日本書紀では、唐への使者や学生の名はかなり具体的に書かれているが、隋書では、隋への使者の名も書かれていない。
⑪ 隋書では、608年以後二国の通交は絶えた、とあるが、日本書紀では、これが中国との通交の始まりの記事になっている。

  隋書と日本書紀の記事の矛盾・不一致点は何を意味するのか

  ①から⑪をみると、隋書と日本書紀の記事には、ほとんど一致するものがない。なぜか。それは、隋書が書く俀国と日本書紀が書く「やまと」は別の国だからである。そう考えるのが理屈である。私は一連の中国史書とその整合性を重視し、倭国と「やまと」は別国であることを唱えてきた。隋書と日本書紀の記事を対比してみると、そこには倭国と「やまと」の歴史の違いがはっきりと出ているのが確認できる。人物や歴史が違えば、それは同じ国だとは言えない。しかし、それが通用しないのが日本古代史なのである。厄介なものである。
  ①から⑪は、俀国と「やまと」が別国であることを証明するものとして、私は理解している。一つの項目では確定できなくても、複数の項目からなら、それも確定できる。これらの記事全体が二国は別国であることを示している。
  俀国と「やまと」が別国であるとしても、①の日本書紀の記述は不可解で、逆に興味をひかれる。そこで、①について 特別に考えてみたい。
  古田武彦氏はかつて、608年の隋書と日本書紀の記事について、隋の使者はまず俀国に行き、それが隋書の記事となり、その後畿内の「やまと」に行き、それが日本書紀の記事となったのではないか、というようなことを言っていた記憶がある。私もそういうことなのかな、とあまり深く考えないでいた。しかし、改めてこの二つの記事を並べてみてみると、そう考えるのは少し危険なのではないかと思えてくるのである。
  古田氏の説では、やまとへ行ったのも当然隋の使者ということになるが、日本書紀はこの使者を唐の使者としている。隋の使者が俀国に行った後、その足で「やまと」に行ったのに、「やまと」ではその使者を唐の使者だという。この状況の中で、俀国に行った使者を「やまと」に行った使者と同一視してよいものなのだろうか、という疑問が沸いてくる。隋使は「やまと」には行かなかったのではないか、だから、隋使とは書かれなかったのだ。ではなぜ、このような記事が書かれたのだろうか。私は、「やまと」にこれに近い時代に、これと似た中国からの遣使があったのではないかと考えている。
 新唐書に「用明、また目多利思比弧という。隋の開皇(581~600)の末にあたる頃、はじめて中国と通交した」とある。用明天皇の在位は、私の調査では586~587年である。、用明天皇在位時期は開皇時代に含まれる。やまとは6世紀末にはじめて中国と通交を持ったのである。隋のときに中国と通交するようになったという事実と、推古天皇在位(593~628)中に隋と唐の両国と通交したという事実が、日本書紀編纂に何らかの細工をする口実を与えてしまった、という可能性は考えられる。ただ隋の時代は、通交の主体は俀国で、「やまと」はまだそれに随行する従の立場にあったのではないかと思われる。それが日本書記に「隋」という名が出てこない理由なのかもしれない。
 推古天皇15年(607)、16年(608)は隋の時代であるが、推古天皇26年(618)からは唐の時代になる。推古天皇在位は36年(628)で、唐の時代の在位は10年ある。 推古天皇15年(607)、16年(608)の記事は、隋の時代に置き換えられた「推古天皇の在位期間中の唐時代に起きた事件」だったのではないか。それは「唐」の時代の「唐」なのだ。つまり、唐の時代になってはじめて「やまと」は主体として唐と通交するようになり、唐から使者が来た。その時の記録が推古天皇15年(607)、16年(608)に、日本書紀の編纂者により少しアレンジされて使われた。そう考えると、何となくしっくりする。ただ、この場合でも、隋の時代を書いているのだから「隋」とすればよいだけの話なのに、なぜ唐を隋に替えて書かなかったのか。書きミスなのか、それとも、隋の時代であっても「唐」と書かなければならない理由があったのか。
  余談になるが、推古天皇15年(607)、16年(608)の記事は、教科書や参考書では「遣隋使」として扱われている。隋書と日本書紀の記述にこれだけの違いがあるにもかかわらず、しかも日本書紀はこのときの通交の相手国を「唐」だと言っているのに、である。隋書の記事と大きく記述が異なり、さらにその時代を「唐」としているのだから、そこに疑問を持ち検証するのが研究なのでは、と思うのだが。

  推古天皇8年(600)に中国への遣使記事がないのはなぜか

  日本書紀推古天皇15年(607)に、大礼小野臣妹子を大唐に遣わした、という記事がある。同年、隋書にも俀王の遣使記事があり、これは同一の事件で、一般的には歴史的に符合しているとみられている。しかし、開皇二十年(600)の遣使については、日本書紀は何の記録もしていない。なぜなのか。このことについて、隋と自分の国との違いに大きな衝撃を受けたからではないか、とする見方をする研究者もいるようだ。あまりのショックで記録することすらはばかられたということになる。しかし私は、この見解には納得できない。なぜなら、その七年後に、俀王は隋の皇帝に「日出ずる処の天子が日没処の天子に書を致す、恙はないか」という、隋の皇帝を怒らせるような国書を渡しているからである。これが中国との違いに衝撃を受けた者の言うことなのか。まったく私には理解できない。
  開皇二十年(600)の記事の内容をみると
ア 俀国王の統治方法に対する隋の皇帝からの教え
イ  俀国の統治制度
ウ 俀国の服装・生活
エ 俀国の刑法
オ 俀国の音楽・娯楽
カ 気候
キ 習俗・習慣
ク 地理・地形
ケ 新羅・百済との関係
などとなっている。イからクまでは、皇帝に聞かれたことに対する説明であり、ケでは、俀国は新羅・百済から大国だとされ敬われている、といっており、アにおいても、隋の皇帝から教えを承けただけのことで、俀国が中国との違いに衝撃を受けるような事柄は見当たらない。これに対応する記事が日本書紀にないことを、どこにも書かれていない「中国との違いに衝撃を受けた」としてしまう。ここに、倭国と畿内やまとを同一国だとみることによる弊害が起きているのがわかる。「やまと」にはそういう事実がなかったから、ここには何も書かれていないのだ、と考えばよいだけのことであり、それが史料による事実なのである。

  大業三年(607)に対応する日本書紀の記録の少なさ

 「(推古天皇157月3日)大礼小野臣妹子を大唐に遣わした。鞍作福利を通訳とした」。607年、日本書記にはこれしか書かれていないが、隋書にはもう少し具体的に、朝貢の理由は仏法を学ぶためだとはっきり書かれている。そのあと、あの有名な「日出ずる処の天子が日没処の天子に書を致す、恙はないか」という俀王からの国書のことが書かれている。俀王は単純に両国の位置関係から、「日出ずる処の天子」「日没処の天子」という表現をしたのではないかと思われるが、隋の皇帝は漢文の意味するところは当然理解しているから、俀国が「日出ずる処」で、隋が「日没処」には完全に頭に来てしまったようである。
  隋皇帝と対等に渡り合っている俀王のこのような態度は、日本書紀にとって非常においしい情報のはずである、「やまと」の立場をにここぞとばかり大々的に記すチャンスのはずである。しかし、日本書紀はこれらのことにはまったく触れていない。「やまと」にはこのようなことはなかった、と考えるしかない。国書を送った当人ならば、相手の国の名が「隋」であることを知っているのは当然のことで、それを「唐」と書くことなどあり得ないのである。隋書に対応する記事の少なさ、しかも相手国を「隋」ではなく「唐」と書く。これらのことは、「やまと」が当事者の「俀国」ではない、ということを証明している、といえる。
 

  大業四年(608)、隋の使者は九州の俀国の都・邪靡堆に行った

  隋の使者裴清は、俀国の都・邪靡堆(邪馬臺)に行き、その王阿毎多利思北孤に対面した。ここには、朝鮮半島南端から邪靡堆までの行路が書かれている。私が問題にしたのは、「都斯麻(対馬)国を経て、はるかに大海の中にある。また東に行って一支(壱岐)国に至り、また竹斯(筑紫)国に至り・・・」の、対馬から「東」に行って壱岐に着いた、という部分である。この部分は魏志倭人伝では、「対海(対馬)国から南へ海を渡り一大(壱岐)国へ着いた」となっている。対馬から壱岐への方位が、魏志倭人伝では「南」となっているのに対し、隋書では「東」となっているのである。このことについて、ほとんどの研究者は、隋書の「東」は実際の方角である「東」とし、邪靡堆(邪馬臺)は畿内大和のこととしている。しかし、このような見方は隋書のほかの記述に合致しない。
  その一つが、開皇二十年(600)の阿蘇山がある。その石は故なく火が起こり天に接するもので、習慣として異となし、よって祷祭をおこなう」である。阿蘇山があるのは九州である。畿内に邪靡堆(邪馬臺)があったとして、その所在の説明としてはるか遠くの阿蘇山を挙げたりするだろうか。「東」は実際の「東」ではないことがわかる。二つには、この表は日本書紀との比較のためのもので、ここには掲載していないが、「その国境は東西に5か月程の距離があり、南北は3か月程の距離がある。東西南北はそれぞれ海に接している」である。先ほど説明したように、魏志倭人伝の「南」と隋書の「東」が同じ方角を指していることを考慮すると、これは実方向で「東西三月行南北五月行」となる。俀国は、「周りを海に囲まれ、東西対南北の距離の比が3:5の島国」だといっているのである。そこに阿蘇山が加わる。このような条件を満たすところは九州しかない。隋書では、「東」は実は「南」を指していることは、以上二つのことが証明している。隋書の記述には、邪馬臺が畿内大和である要素はまったく存在しない。隋書では、「東」は実は「南」のことだ、という理解ができれば、そのほかの地理地形の説明も矛盾せずに理解できる。これは史料が示しているものである。しかし邪馬台国畿内説者にとっては、それはどうでもよいことのようだ。自説と合致しない史料は無視する。しかし合致しないものを、根拠を示さず合致しているように見せかけるのは学問とはいえないだろう。
 裴清が行った邪靡堆(邪馬臺)は九州内にあった。
29年前、私はこれらのことを「市民の古代」第14集(1992年)で発表した。歴史は時間と時間の連続性の中で起きる事象を扱う学問で、そこで起きている事象の連続性に整合性がなくてはならない、というのが、歴史を考えるときの基本だと、私はいつも肝に銘じている。魏志倭人伝だけでは歴史にならないのである。
  隋の使者裴清は、「周りを海に囲まれ、そこには阿蘇山という火山があり、東西対南北の距離の比が3:5の島国」にある、俀国の都・邪靡堆(邪馬臺)に行き、その王・阿毎多利思北孤に対面したのである。

  推古天皇16年(608)の記事は大業四年(608)の記事に対応しているのか

  ①から⑪とダブるところがあるが、608年の隋書と日本書紀の記述表記を対比してみると次のようになる。(隋書の記述⇔日本書記の記述)
(1) 中国の国名:隋⇔唐
(2) 日本の国名:俀 ⇔ 記載はないが、やまと
(3) 中国の使者:文林郎裴清、裴清、清 鴻臚寺の掌客裴世清、裴世清、唐客
(4) 日本の使者:なし ⇔ 小野妹子(唐は蘇因高と呼んだ
(5) 目的地:都(邪靡堆) ⇔ 京(桜井豊浦宮のこと)
(6) 行路:朝鮮半島南端~(詳細)~都 ⇔ 筑紫-難波-京
(7) 使いを迎えにやった場所:海岸 ⇔ 筑紫
(8) 都・京の場所:海岸(都のはずれ) ⇔ 記載はないが、推古天皇の桜井豊浦宮
(9) 中国皇帝の呼び方:皇帝 ⇔ 皇帝・唐帝・西の皇帝
(10) 日本の王の呼び方:俀王・王 ⇔ 倭皇・皇・天皇・東の天皇
(11) 中国からの国書:なし ⇔ あり
(12) 日本の王と中国の使者との対面でのやり取り:あり⇔なし
(13) 中国使者からの教え:あり⇔なし
(14) 中国使者との面会時の列席者:記載なし ⇔ あり(皇子・諸王)
(15) 中国使者の帰国に際して日本からの国書:なし ⇔ あり
(16) 中国使者の帰国に際して派遣された日本の使者:あり(名前の明記なし) ⇔ あり(小野妹子)
(17) 中国使者の帰国に際して派遣された日本からの学生等:なし ⇔ あり(具体的な名あり)
(18) これ以後の中国との通交:絶える ⇔ 記載なし(日本書記などの記録ではこれ以後も続く)
   ※(1)~(18)の「日本」は日本書記の「やまと」のことではなく、現在の国名であり、ここでは「俀」と「日本」の二国を指す。

  (1)~(18)をみると、隋書と日本書紀の記述が一致するものはほとんどといっていいくらいない。内容が一致しているといえるのは(16)くらいである。(16)は状況が同じという点で、両書に矛盾はない。結果として、18項目の中で、不一致ではない、という程度のものが一つあるだけ、ということになる。
  推古天皇16年(608)は中国では隋の時代であるが、推古天皇紀は日本書紀においてすべて唐で統一されており、日本書紀上では矛盾がなく統一感さえ感じる。ただ、この中には隋書の記述に通じる匂いがするところもある。それは(3)と(9)(10)である。
 (3)で、日本書紀は隋の使者裴清を唐客裴世清としている。裴世清と書くのには、そのように書くための史料があったからであり、それはどう考えても隋書だったとしか考えられない。旧唐書にも新唐書にもそのような名は登場しないからである。そうすると、正しいのは「裴清」であり、「裴世清」は日本書紀編纂者により考え出された名である可能性が高くなる。日本書紀編纂者は、推古天皇16年のこの件(くだり)を書くにあたって、ここに大業四年の隋の俀国への遣使を想定したに違いない。なぜその時代を「唐」としたのかは後で考えるとして、ここに「裴清」と書いたのでは隋の時代のことになってしまい、嘘がばれてしまう。そこで考えたのが「」と「清」の間に「世」を入れることだった。隋の時代の使者は「裴清」で、唐の時代の使者は「裴世清」で別の人物だ、と言い訳ができる。唐の時代としながら、その使者の名を隋の使者の名に似せることで、大業四年の中国からの遣使が「やまと」への遣使だったように思いこませること、日本書紀の目的はそこにあったのではないか。そして、その思惑はまんまと成功した・・・。
  (9)(10)の「西の皇帝」「東の天皇」は、大業三年(607)の「日出ずる処の天子が日没処の天子に書を致す」の「日出処天子」「日没処天子」を思い起こさせる。「日出処」は「東」であり、「日没処」は「西」である。これも隋書によった書き方だといえる。「唐」の時代だと言いながら、その記事の内容は隋書に似せ、隋書と日本書紀の記事は同じ事件を扱ったもの、と錯覚するような書き方をしている。
  岩波文庫の『日本書紀』の読み下し文では、「東」を「やまと」、「西」を「もろこし」と読んでいる。この「東の天皇」と「西の皇帝」というのは、天皇から皇帝に送った辞の中にある言葉として出てくるものであるが、「東の天皇」と「西の皇帝」といっても、「東」は「やまと」のことで、「西」は「もろこし」と読み唐の国名のことだなどとは、唐の皇帝はまったく知る由もない。日本書紀の編纂者はただ単純に、「東(ひがし)に位置する天皇」「西(にし)に位置する皇帝」という意味で使用したのではないか。俀王も「日出ずる処の天子が日没処の天子に書を致す」は「東の方にいる俀王が西の方にいる皇帝に思いを書きます」という程度の理解だったのではないか。日本書紀の編纂者も俀王の心を知ってか知らずか、この「東」と「西」を採用し、大業四年の記事が、さも「やまと」への遣使のことだと錯覚するように仕立てたのではないだろうか。私にはそんな風に思えてならない。
 (1)~(18)の項目の対比から、結論としては、推古天皇16年の記事は大業四年の記事にほとんど対応していない、ということになる。同じ608年の事件を装っても、これだけの不一致点がある。もし(1)~(18)の中のほとんどの項目で一致しているのであれば、国名だけは「隋」と書くべきところを、勘違いで「唐」と書きミスをしてしまった、という言い訳もある程度できるかもしれないが、ほとんど一致するものがないのでは、その言い訳も通らない。日本書紀推古天皇16年の「唐」は書きミスではなく、何らかの意図をもって書かれたものとみるしかない。

  なぜ日本書紀は「隋」の時代を「唐」としたのか

  推古天皇15年(607)、16年(608)の記事で、最大の疑問は、 この年は隋の時代であるのに、遣使してきた中国の国名を「唐」と していることである。たとえ「隋」時代の事件でなくても、「隋」としておけば済んだはずなのである。それなのになぜ、日本書紀編纂者はこのようなわかりきった「時代違い」な記述をしたのだろうか。上の比較表でみるように、日本書紀の記述には隋書といくつもの食い違いがある。その理由は、「やまと」は「俀国」ではないからだ、ということに尽きるが、日本書紀というのは、九州の倭国を含む新しい国「日本(やまと)」を、そのはじめから日本列島の唯一無二の国とするための歴史書なのである。このことを理解すると、この「唐」記述の問題も少しわかってくるのではないかと思う。 
  新唐書によれば、「やまと」は用明天皇のとき(586~587)にはじめて中国と通交した。これは隋の時代である。しかし日本書紀には、隋と通交したという記録は一切ない。それは隋と通交したという実態がなかったからなのではないか。用明天皇のときはじめて中国と通交したのは事実であっても、その実態は遣使の主体としてではなく従的な立場での通交だったのではないかと推測される。推古天皇16年はまだ従的な立場の時代だったのではないだろうか。そう考えれば、推古天皇紀、というより日本書紀に「隋」という国名が登場しないのも理解できる。ここでの通交の主体は「俀」であり、「やまと」は従なのである。
  608年は隋の時代であるにもかかわらず、日本書紀は何度もはっきりと、相手国は「唐」だと言っている。隋の時代に、隋とやまと主体の通交があったのであれば、日本書紀編纂者は、矛盾を犯してまで「唐」などと書かずに「隋」とはっきり書いたはずである。つまり、推古天皇16年の記事は、「隋」ではなく、本来は「唐」の時代の事件の記事だったのではないか。
  日本書紀は「やまと」の歴史書であり、日本列島に関する歴史はすべて「やまと」が関わっていなければならなかった。実際に、日本書紀はそうなっている。そしてそこには、旧唐書までの中国史書の記録とは大きな食い違いが山ほどある。その理由は、中国が通交してきた国は「やまと」ではなく「倭国」だったからである。しかしその倭国の歴史も、日本書紀編纂者にとっては「やまと」の歴史でなければならなかった。すべて「やまと」のことにしなければならなかった。
  ところが隋書俀国伝の608年の記事に対応する事件は「やまと」にはなかった。そこで日本書紀編纂者は、「やまと」への中国からの遣使記事を捜したが、隋の時代には通交記録はなく、仕方なく唐の時代の中国からの遣使記事で608年の状況に合う記事を探し出しこれにあてることにし、多少の粉飾をし、推古天皇16年の記事とした。しかしそのとき、それが隋の時代を描くものであることを忘れてしまったか、敢えて、未来のある日、この記事の矛盾から、日本列島の正しい歴史を見つけ出してくれる人が出てくることを願ってなのか、「唐」時代の事件を「唐」はそのままにして載せた。推古朝は隋と唐の時代にまたがっており、隋を唐としてしまっても、そんなに違和感なく読み過ごしてしまうことができたのかもしれない。本来、この記事は「遣唐使」だったのではないか、と私は推測している。

 元興寺伽藍縁起幷流記資材帳にある608年の記録

  最後に、608年の記事に関して、元興寺伽藍縁起幷流記資材帳について考えなければならないことがある。資材帳には、一番新しい日付が天平20年(748)6月17日とあるので、資材帳が書かれたのはこの日以後ということになる。資材帳の最後のほうに、次のようなことが書かれている。

歳次戊辰(608)、大隨国の使者・主鴻艫寺掌客裴世清、副尚書祠部主事遍光高等がこれを奉るために来た。明くる年、己巳(609)四月八日、元興寺に座った(入った)。

 これによれば、608年に遣使してきたのは隋(ここには隨と書かれている)だとしており、日本書紀では「唐」とあったものを「隋」に訂正している。使者の名は裴世清で、これは日本書紀と同じになっている。資材帳の記録者は、608年の隋書と日本書紀の記事をみて、裴世清は裴清のことだと了解したが、推古天皇16年を唐の時代とすることにはどうしても納得いかなかったものとみられる。歴史を記録するものにとってそれは当然のことなのではあるが。ただ、資材帳によれば、隋使裴世清は翌年(609)まで「やまと」にいたことになっているが、隋書、日本書紀ともに、中国の使者は同じ年に帰国している。
 隋使が「やまと」に来た目的については、資材帳は、元興寺建立を祝う(これを奉る)ため、とはっきり書いている。しかし日本書紀には一切書かれていない。一方隋書には、大業四年(608)の記事に次のように書かれている。

「皇帝の徳は二儀にならび、沢は四海に流れる。王は化を慕うの故をもって、行人(使者)を遣わし来させ、ここに宣諭するのである」「朝命はすでに達した。すぐに塗(みち)を戒めるように」

  問題の608年の元記事は、隋書であり、それによれば、隋は、俀王に隋の皇帝の徳を教え諭すために、俀国に使者を送ったのであり、元興寺建立とは無関係であることがわかる。前年の大業三年に俀王が送った国書の内容(「日出ずる処の天子が日没処の天子に書を致す、恙はないか」)が皇帝の怒りを買ったからである。同じ608年の隋使の目的がまるで異なっている。
  これまでみてきたことによれば、この年には中国からの使者は「やまと」にはやってこなかったと考えるのが理屈というものである。したがって、隋使が「元興寺建立を祝うため」に「やまと」にやってくることはあり得ないのである。ただ、608年ではない年に、中国の使者(隋か唐)が元興寺建立を祝うためにやってきたという事実はあったかもしれない。それに608年に隋から俀国に使者がやってきたという歴史事実、そして推古天皇16年の記事、これらのことが結びつき、608年に「元興寺建立を祝うため」に隋使がやってきた、という、それまでにはなかった記録が生まれた、という可能性はあるのではないかと思う。

  推古天皇15年、16年の記事で「隋=唐」にした日本書紀は、一つの記事を別の時代にタイムスリップさせるというあり得ない手法で「倭(わ)=やまと」を完成させたのではないか。私にはそんな風に見えてきた。

 

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