「目多利思比孤」について

2006.12.14

 『通典』(北宋版)には「倭一名日夲」のほかにもう一つ気になるものがある。それは「倭王姓阿毎、名自多利思比孤」の「自」である。この「自」は『唐類函』や『異称日本伝』所載の『通典』には「目」「日」、また『新唐書』にも「目」として現われる。今回はこの「自」「目」「日」について考えてみる。

 北宋版『通典』、『唐類函』及び『異称日本伝』所載の『通典』、『異称日本伝』所載の『唐類函』における『通典』、そして『新唐書』には次のような部分がある。

隋文帝開皇二十年、倭王姓阿毎、名多利思比孤、其國號阿輩雞彌、華言天兒也、遣使詣闕。其書曰、日出處天子致書日没處天子、無恙云云。帝覽之不恱、謂鴻臚卿曰、蠻夷書有無禮者、勿復以聞。(北宋版『通典』)。

隋文帝開皇二十年、倭王姓阿毎、名多利思比孤、其國號阿輩雞彌、華言天兒也。遣使詣闕、其書曰、日出處天子致書日没處天子、無恙云云。帝覽之不悦、謂鴻臚卿曰、蠻夷書有無禮者、勿復以聞。(『唐類凾』所載の『通典』

隋文帝開皇二十年、倭王姓阿毎、名多利思比孤、其國號阿輩雞彌、華言天兒也、遣使詣闕。其書曰、日出處天子致書日没處天子、無恙云云。帝覧之不悦、謂鴻臚卿曰、蠻夷書有無禮者、勿復以聞。(松下見林『異称日本伝』所載の『通典』

隋文帝開皇二十年、倭王姓阿毎、名多利思比孤、其國號阿輩雞彌、華言天兒也。遣使詣闕、其書曰、日出處天子致書日没處天子、無恙云云。帝覽之不悦、謂鴻臚卿曰、蠻夷書有無禮者、勿復以聞。(松下見林『異称日本伝』所載『唐類凾』『通典』

次海達。次用明、亦曰多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通。次崇峻。崇峻死、欽明之孫女雄古立。(『新唐書』)

 これから、『通典』及び『通典』を載せた各史書では「自」「目」「日」のところだけが異なっていることがわかる。上記のその部分だけを示すと次のようになる。

倭王姓阿毎、名多利思比孤。(北宋版『通典』)
倭王姓阿毎、名多利思比孤。(『唐類凾』所載の『通典』
倭王姓阿毎、名多利思比孤。(松下見林『異称日本伝』所載の『通典』
倭王姓阿毎、名多利思比孤。(松下見林『異称日本伝』所載『唐類凾』『通典』
次用明、亦曰
多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通。(『新唐書』)

 これをみると、松下見林『異称日本伝』所載『唐類函』の『通典』で「日」となっていることに違和感を覚える。しかし、『唐類函』所載の『通典』及び『異称日本伝』所載の『通典』のこの部分が「目」となっていることから、これは松下見林が、『唐類函』所載の『通典』には「目」とあったものを「日」と誤写してしまったものであることがわかる。そうすると、『唐類函』の撰者・兪安期と松下見林が使用した『通典』には「自」ではなく「目」とあったのであり、『通典』には「自」と書かれた北宋版『通典』と、「目」と書かれた『通典』が存在していたことになる。「目」と書かれた『通典』も北宋版だった可能性はある。
  それでは『通典』に書かれた「自」と「目」は、どちらが本来のものなのだろうか。『通典』の問題の部分は『隋書』からの引用部分の中に存在しているが、正史『隋書』では次のようになっている。

開皇二十年、俀王姓阿毎、多利思北孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕。
大業三年、其王多利思北孤遣使朝貢。使者曰、聞海西菩薩天子重興佛法、故遣朝拜、兼沙門數十人來學佛法。其國書曰、日出處天子致書日没處天子無恙云云。帝覽之不悦、謂鴻臚卿曰、蠻夷書有無禮者、勿復以聞。(『隋書』)

 『通典』は開皇二十年と大業三年の記事を合成しているが、その内容にうそや矛盾があるわけではない。ただ倭王名が異なっており、「俀王姓阿毎、字多利思北孤」の「」が「倭」、「字」が「名自」となり、「北」が「比」となっている。「北」か「比」かということについては、字体からは何とも言いがたく、「鉾」「彦」から云々する人もあり、今のところどちらともいえない、というのが正直なところである。「」は字体は異なるが、その意味するところは「倭」でよいと思う。「名自」については、これらの史書の成立年代を考えると、『隋書』の方が早いから、『隋書』に「字」とあったものが、次の『通典』では「名自」になったということになる。「字」は本名のほかにつける名であり、「字」が「名」に変ったとしても、漢字の意味の上からは理解できる。しかし「自」については、「名」のほかにこの字が追加された理由がみつからない。『唐類函』所載の『通典』と『異称日本伝』所載の『通典』には「自」ではなく「目」と書かれていることからすると、兪安期や松下見林がみた『通典』には「目」と書かれていたのであり、北宋版も「自」ではなく「目」と書かれていた可能性が高い。ただ「自」が「目」の間違いだったとしても、今度はそれではなぜ「目」が追加されたのかという疑問は残る。
  ここで気にかかるのは『新唐書』の「目多利思比孤」である。ずばり「目」なのである。『新唐書』が『通典』を参考として書かれたとすると、『新唐書』における「目」の出所は納得できる。しかしこれだと『通典』に「目」が書かれた理由は理解できないままである。
  ところで『新唐書』のこの記事には見逃せないものがもう一つある。それは「始與中國通」である。日本は用明のときにはじめて中国と国交を持ったというのである。もし用明天皇が多利思比孤と同一人物だったとすると、『魏志』以後書かれてきた中国と倭国の国交記事は何だったのだろうか、ということになってしまう。多利思北孤の国は「自魏至于齊、梁、代與中國相通」とあるように卑弥呼に通ずる国であり、隋開皇末になってはじめて中国と国交を持った国ではないのである。用明は多利思比孤ではない、とみなければならない。
  また在位の年代からみても、用明天皇は586年~587年であり、大業三年(607)に隋使迎え入れた王・多利思北孤とは時代が合致しない。
  用明天皇が多利思北孤ではないことは、これらのことから明白である。つまり、『新唐書』が書く「次用明、亦曰目多利思比孤」とは「用明天皇=多利思比孤」を意味するのではなく、「用明天皇=多利思比孤」を意味しているということなのである。
  それではこの「目」は何を意味しているのだろうか。この「目」について、内倉武久氏は『太宰府は日本の首都だった』で次のように書いている。

  用明「天皇」を「目多利思比孤」とも言う、との新唐書の記述はびっくりだ。「目」は「まなこ」の意味が普通だが、古い官庁用語では「軍の長官」とか「属官」をあらわす意味がある。

 『新唐書』は「倭=日本」を主張しているが、『旧唐書』のなごりを消しきれず、ところどころに「倭≠日本」も姿を現す。これもその一つである。『新唐書』は素直に、用明天皇が「目多利思比孤」であることを告白してしまったのである。内倉氏の見解は中国史書全体の中でみると正しいと私は思う。多利思北孤は用明の時代から俀王であった可能性はあり、「目」を内倉氏のように解釈すれば、時代的矛盾は起こらないで済むのである。
  『新唐書』には「目」が存在し、その存在する理由と意味を持っていた。『隋書』には「目」は存在していなかった。そうすると、『通典』の北宋版は『新唐書』成立以後に『新唐書』も参考にして追加修正されたものではないか、という見方が生まれてくる。「目」は『新唐書』を参考にしたものであり、「自」は「目」の間違いである、ということである。
  前回《「倭一名日夲」について》で書いたように、『通典』は、倭国がなくなり日本国のみとなった時代を同時代的にみた史書であり、「倭国=日本国」がその基調にある。『新唐書』は『通典』の「北宋版」と同じ北宋時代に成立した、「倭国=日本国」とみようとする正史であり、『通典』の「北宋版」が『新唐書』を参考にし、「次用明、亦曰目多利思比孤」の「目多利思比孤」全体を用明の名とみて『通典』の「当初版」を修正した可能性は大いにある。さらに用明を倭(日本)王とすれば、「倭王姓阿毎、名目多利思比孤」となりうるのである。
  『通典』の北宋版は『新唐書』を参考にした、と仮定してみると、『隋書』にはない「自(目)」がなぜ追加されたのかという疑問に答えることができる。
  『通典』が『隋書』の「俀王姓阿毎、字多利思北孤」のみをみていたのであれば、そこには「自」も「目」も入る余地はなく、「倭王姓阿毎、名多利思比孤」となっていたはずである。しかし北宋版の『通典』には「自」が入り、兪安期の『唐類函』、松下見林の『異称日本伝』所載の『通典』には「目」という字が書かれていた。『隋書』には「自」も「目」もないから、これらの字が入ったのは『新唐書』によるもので、さらにその『新唐書』が意味するところによれば、この部分は「目」であり決して「自」ではないことがわかるのである。
  801年に成立の『通典』の撰者杜佑は、『隋書』はみることができても『新唐書』をみることはできなかった。そこには「自」や「目」を書き入れる理由や機会などまったく存在するはずはなく、したがって北宋版『通典』に「自」があり、兪安期や松下見林がみた『通典』に「目」があったこと自体、これらの版は明らかに当初版に追加修正を加えたものであることを示している。

  このようなことから、北宋版『通典』の「自多利思比孤」について私は次のように考える。

 当初版『通典』は『隋書』を参考とし、「俀王姓阿毎、字多利思北孤」の「字」を「名」、「」を「倭」、「北」を「比」とし「倭王姓阿毎、名多利思比孤」とした。北宋版『通典』はすでに成立していた正史『新唐書』の「次用明、亦曰目多利思比孤」をみて、「阿毎多利思比孤」を用明その人のことだと思い、『新唐書』の意味するところも理解せずに、当初版の「倭王姓阿毎、名多利思比孤」の「名多利思比孤」を「名目多利思比孤」と修正した。ところが北宋版を筆写した中に「目」を「自」と誤写したものがあり、それが北宋版『通典』の一写本として現在に至った。


※『通典』の当初版に「倭王姓阿毎、名多利思比孤」あるいは「倭王姓阿毎、名多利思比孤」があったということが証明された場合には、本論考は破棄する。


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