任那再考

2015.02.15

  これまでの私の見方

  任那は対馬にあったのではないか。私は、少し前まで、この見方にかなり傾いていた。それは概略、次のような理由からだった。

『日本書紀』の崇神天皇65年の

任那者去筑紫國 二千餘里 北阻海以在鷄林之西南

は、任那は筑紫から二千余里のところにあり、その北には海があった、つまり対馬であることを示している。

継体天皇24年の

目頰子初到任那時 在彼郷家等贈歌曰 柯羅屨儞鳴以柯儞輔居等所 梅豆羅古枳駄樓 武哿左屨樓以祇能和駄唎鳴 梅豆羅古枳駄樓

は、任那は壱岐の海峡を渡ったところ、つまり対馬であったということを示している。

『山家要略記』の「對馬嶋者高麗國之牧也 新羅住之」と高句麗広開土王碑の「自倭背急追至任那加羅從拔城城即歸服安羅人戌兵」の「新羅住之」「安羅人戌兵」は同じ状況を表現しているようにみえる。そうすると『山家要略記』の「対馬」は高句麗広開土王碑の「任那」になる。

『桓檀古記』は偽書だと言われているが、『日本書紀』の任那と三韓は、『桓檀古記』の任那と三加羅に似たところがあり、対馬を任那だという『桓檀古記』をすべて無視することもできない。

 その後、私は対馬が任那だった証拠を、対馬の中に見つけようとしたが、『対馬島誌』の中に、任那語が訛ったものだという地名を二か所見つけただけだった。

  任那は新羅領になったということ

そうこうしているうち、私は非常に大事なことを見過ごしていたことに気がついた。それは『翰苑』「地惣任那」の

今訊新羅耆老云 加羅任那昔爲新羅所滅 其故今並在國南七八百里 此新羅有辰韓卞辰廿四國及任那加羅慕韓之地也

である。私はこれまで、この記事を、任那が辰韓・卞辰・慕韓の地以外にあった、つまり任那が朝鮮半島にはない証拠としてみていたのであるが、実はここにはもう一つ注意すべき重要な内容が書かれていた。それは「加羅任那昔爲新羅所滅」。加羅任那は昔新羅に滅ぼされたのである。このことは『日本書紀』にも、646年のこととして「任那の調をやめた」と書かれている。そしてその後の『日本書紀』をみても、任那を新羅から回復した、取り戻したという記事記録は一切ない。このことは、対馬が任那だとすると、対馬は未だ新羅領だということを意味する。しかしそのような歴史事実は存在しない。つまり、対馬は任那ではない、ということになるのだ。

 対馬は高麗の牧だったことがあった

  『山家要略記』は後鳥羽院(1198~1221年)の時代に天台僧顕眞が編纂したものだという。この時代になぜ『日本書紀』にも書かれていない、ちょっとびっくりするようなことが書かれたのか。『日本書紀』が書けなかった、あるいは別の内容に書き換えられてしまったものだったのか。それにしても、日本にとってあまり喜ばしくない、というかできれば消してしまいたいと思うような内容であり、『日本書紀』の神功皇后の華々しい新羅征討、三韓を官家とした話とはまるで正反対の内容になっている。
  仲哀天皇が流れ矢に当たって死んだ、というのは、『日本書紀』の一書では、相手が熊襲であるが、ここでは朝鮮半島に渡って新羅・高麗と戦った時だと書かれている。そして神功皇后の華々しい新羅征討の話は一切ない。
 どちらが真実なのだろうか、と言われれば、普通は『日本書紀』よりも『山家要略記』だろう。華々しい歴史が真実であるならば、それをわざわざ格好悪い歴史に変える人はまずいないからである。しかしここには大きな問題がある。それはこの事件の年代である。『山家要略記』には、開化天皇の時代に対馬から(新羅が)襲来した、とあるので対馬が高麗の牧(人民を治める)になったのはそれより前の、紀年でいうとBC98年より前のことになり、実年換算でも295年より前のことになる。
  「對馬嶋者高麗國之牧也新羅住之」は高句麗好太王碑にある「自背急追至任那加羅從拔城城即歸服安羅人戌兵」と内容がよく似ている。「対馬=任那加羅」とすると、ほぼ同じ内容となる。天台僧顕眞は高句麗好太王碑の銘文から、任那加羅を対馬としてしまったのか、それとも対馬も高句麗に支配されたことがあったという資料を手にしていたのだろうか。
  しかし後者が正しかったとしても、高句麗好太王碑銘文にある事件は400年のことになるので、対馬が高麗の牧になったというのは、それより以後のことだったと考えた方が理にかなっている。そうすると、そこには大きな時代的ずれが生じることになり、「山家要略記」の記録をそのまま開化天皇時代、仲哀天皇時代の事件とするのは不可能ということになる。「山家要略記」が基にした資料『宇佐縁起』『太宰府御書下』が、任那加羅を高句麗に占領された時代と取り返した倭の五王時代のことを、何らかの理由で開化天皇と仲哀天皇のことにした、と考えるしかない。ここでは新羅征討の主人公が『日本書紀』のように神功皇后ではないというのは、この事件の本当の主人公が倭の五王であり、男王だったことを示しているのかもしれない。

  『桓檀古記』は『山家要略記』と高句麗広開土王碑文を合成した

 『桓檀古記』は、明らかに高句麗広開土王碑の400年の事件において、対馬を任那だと断定して書いている。なぜか。それは『桓檀古記』の編者桂延寿が『山家要略記』の「對馬嶋者高麗國之牧也 新羅住之」を見ていたからではないか。これと「自倭背急追至任那加羅從拔城城即歸服安羅人戌兵」を同一の事件とみたのである。そうであれば「対馬=任那」となる。したがって、桂延寿は「對馬嶋者高麗國之牧也 新羅住之」の時代を400年前後とみたのである。
 延寿は高句麗広開土王碑の拓本をとっているが、碑には初めから何も書かれていなかった部分に、自身の考え方に沿って加筆造文している。どの史料にも対馬は任那だとは書かれていないのにもかかわらず、桂延寿は『桓檀古記』において、『山家要略記』と高句麗広開土王碑文から「対馬=任那」とし、さらに高句麗広開土王碑の拓本採取でおこなった同じ考え方に沿って加筆造文したのではないか、と私は疑っている。

 『日本書紀』の任那の位置の表現

 『日本書紀』のは、なぜ任那は対馬であるかのような書き方をしたのだろうか。それは「山家要略記」がいう「対馬は高麗の牧」というような状況が、時代は違っても本当にあり、天台僧顕眞が見た『宇佐縁起』『太宰府御書下』と同じ内容のものを『日本書紀』の一部の編者も見たのではないか。
  対馬は任那ではないが、任那からやってきた高麗の牧となったことが、の表現を生んだ、というのが、私の推測である。

 新羅 任那加羅 辰韓 弁辰 慕韓

  最後に、『翰苑』「地惣任那」の「此新羅有辰韓卞辰廿四國及任那加羅慕韓之地也」に少し触れておきたい。
  これによれば、任那加羅は辰韓、卞辰(弁辰)、慕韓ではない、ということがわかる。これは、任那は朝鮮半島内にはない、という根拠の一つになりうるものでもあるが、対馬が任那ではないとなれば、見方も変わってくる。
  ここには新羅があり、辰韓、卞辰(弁辰)もある。馬韓はないが慕韓はある。この地域には三韓(馬韓、弁韓、辰韓)があったことを考えると、慕韓は馬韓のことなのではないかと推察できる。『宋書』にも、百済、新羅、辰韓、慕韓がある。
  この記事によって、任那加羅は弁辰に含まれないことになるから、任那加羅を金官や高霊加耶に当てている人は、任那加羅の行き場所がなくて困ってしまうのではないかと思う。
  井上秀雄氏によれば、『魏書』では、倭は朝鮮半島南部にあり、任那は半島内の倭のことだという。確かに半島から倭が消えた後に任那は現れたようにみえる。要するに朝鮮半島内で生き残った倭が、倭ではなくなって存在したもの、それが任那だったのかもしれない。
  400年に、高句麗が新羅から倭を追って任那加羅に入ったことを考えると、任那は位置的には新羅に隣接あるいは近接していたのではないかと思われる。そこには辰韓ではなく、また弁韓でもなく、どちらでもない、かつては倭の居住していた地域、そしてその後任那となった地域があったのではないか。そして加羅と呼ばれたところには、高霊伽耶の加羅ではない三韓種がいて、400年以後、そこに新羅・高句麗・百済が入ってきて国を形成した。それが『日本書紀』のいう三韓だと、私は思っている。

※この論考は、対馬は任那ではないこと、また、対馬は任那である、ということを示していると思われた史料も、実は不十分なものだったことを示すものであり、私自身反省の意味をもって作成した。
※現在、対馬が高麗の牧になったのは400年より少し後のこととみてよいのではないか、と思っている。また、高句麗広開土王碑文によれば、任那加羅の加羅は400年以前からそう呼ばれていたのではないかと解釈することもできるため、新羅・高麗・百済の三国を加羅と呼んだ、という『桓檀古記』的見方は一旦白紙に戻し、再検討するこことした。2016.12.31
※現在総合的に検証を進めているなかで、この論考も一部手直しをした。2017.01.08


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