銅鏡と王権

2009.12.27

 銅鏡の出土状況

  最近新聞紙上などで、邪馬台国(正しくは邪馬臺国)は纒向遺跡で間違いない、とする発表記事をよく目にする。この説では前方後円墳である箸墓古墳を卑弥呼の墓とする。しかし卑弥呼の墓は文献(『魏志』倭人伝)では円墳だったとしか読めず、この説は文献資料に合わない。考古学者は、文献はどうでもいいらしい。それなのに邪馬台国、卑弥呼などと文献にしかないものを持ち出して、それにあてはめようとする。自己矛盾もはなはだしいように思う。
  考古学からの邪馬台国畿内説は、三角縁神獣鏡の卑弥呼の鏡配布説や同笵鏡の分布などからも言われているが、三角縁神獣鏡の卑弥呼の鏡説はすでに破綻したと認めるべき時期にきていると私は思う。それは、邪馬台国畿内説者である樋口隆康氏の三角縁神獣鏡「卑弥呼の鏡一部説」や西川寿勝氏の卑弥呼の鏡「楽浪鏡説」などに現われている。彼らは、三角縁神獣鏡を卑弥呼の鏡だとすると、文献や出土状況に合わないことを認めているのである。
  三角縁神獣鏡は、銅鏡の中でも、一般の人たちに一番よく知られている鏡である。それは卑弥呼の鏡だと言われたからであるが、「三角縁神獣鏡は銅鏡の中でどういった位置にあるのか」ということはあまり知られていない。本来、この部分が一番重要で必要なのであるが。
  九州北部では、弥生中期に、甕棺や土壙墓などから内行花文鏡や方格規矩鏡が出土している。一方、畿内で銅鏡が出土するのは、これに大分遅れて、3世紀中頃のものと思われるホケノ山古墳からである。ここから画文帯同向式神獣鏡と内行花文鏡が出土した。この同向式の画文帯神獣鏡は、楽浪郡と日本列島からのみ出土する鏡式で、日本列島では特に瀬戸内以東に限られているという。時代的にこれに続く銅鏡出土古墳は、代表的なものに椿井大塚山古墳があり、内行花文鏡、方格規矩鏡、画文帯神獣鏡、そして大量の三角縁神獣鏡が出土している。この頃九州北部でも、原口古墳や石塚山古墳などから、椿井大塚山古墳と同笵関係にある三角縁神獣鏡が出土している。そしてその後の時代の両地域の古墳からは、内行花文鏡、方格規矩鏡、三角縁神獣鏡が出土するようになる。
  銅鏡といえば、多くの人が先ず三角縁神獣鏡を思い浮かべるに違いない。しかしそれは一部の考古学者に植え付けられた先入観の一つなのである。私たちは資料をもっと公平に客観的にみる必要がある。そんな思いもあって作成したのが、資料の「九州北部-畿内出土鏡比較」である。両地域の銅鏡出土状況については、同資料を参照していただくとして、この資料からみえてくるものについて少し述べてみたい。

  三角縁神獣鏡の今

  三角縁神獣鏡が脚光を浴びることになったのは、椿井大塚山古墳からの大量出土による。同笵鏡も多く、卑弥呼の鏡配布説とあいまって、ヤマトによる全国支配の証拠とされた。黒塚古墳からも大量の三角縁神獣鏡が出土し、この見方を裏付けるかと思われたが、三角縁神獣鏡はみな棺外に置かれ、画文帯神獣鏡一枚が棺内の頭部に置かれていたことから、三角縁神獣鏡はそれほど価値のある鏡ではない(卑弥呼の鏡ではない)のではないかという見方がされるようになった。また椿井大塚山古墳も黒塚古墳も4世紀初め頃のものと思われ、卑弥呼の時代ではなく、また、もし配布用であるなら、なぜ個人の墓に大量に副葬されたのかということも疑問となる(横領になってしまう)。かくしてこの2古墳からの三角縁神獣鏡の大量出土は、この鏡だけを見ていたのでは歴史は解けない、ということを吐露する結果となったのである。
  三角縁神獣鏡の特徴は、何と言っても、日本列島からのみ出土し中国からは一面も出土していないという事実であり、この一事実から、三角縁神獣鏡は中国製ではなく日本列島製であること、つまりこの鏡は卑弥呼が魏から下賜されたものではないということは明らかなのであるが、どうもそれでは納得しない、先入観のかたまりのような人がいるらしい。
  ところでホケノ山古墳の画文帯同向式神獣鏡は被葬者の足元に置かれていたという(寺澤薫『王権誕生』P270)。内行花文鏡はどのような状態で埋葬されていたのかは不明であるが、九州北部の状況を考えれば、内行花文鏡の方が上位であったことは想像に難くない。このことと黒塚古墳では三角縁神獣鏡より画文帯同向式神獣鏡が上位だったことを合わせて考えると、鏡の順位は上から「内行花文鏡→画文帯同向式神獣鏡→三角縁神獣鏡」となる。
  魏の明帝は、下賜した銅鏡を卑弥呼の好物の一つであるといっている。卑弥呼は銅鏡を好んでいたのであり、鏡の上下関係については熟知していたと推察され、明帝の立場からも最下位の三角縁神獣鏡を下賜するとは考えられない。鏡の順位といった視点からも、卑弥呼の鏡は三角縁神獣鏡では到底ありえず、可能性としては内行花文鏡か方格規矩鏡、あるいはその両方ではなかったかと考えざるを得ないのである。
  これらの資料事実を公平に判断すると、これまで「卑弥呼が魏から下賜された銅鏡百枚は三角縁神獣鏡であり、三角縁神獣鏡はヤマトを中心にして全国に分布しているから、卑弥呼の国・邪馬台国はヤマトであり、ヤマトは全国を支配していた」という理論とはまったく逆の「三角縁神獣鏡が多く発見される地域は卑弥呼の国・邪馬臺国ではない」という結論が導き出されるのである。「三角縁神獣鏡卑弥呼の鏡」説はすでに過去の遺産となった、というべき時期はすでに来ているのである。
  三角縁神獣鏡は楽浪鏡に多い斜縁二神二獣鏡によく似ていること、三角縁は紹興に多く、文様などは洛陽鏡にもみられること、またヤマトを中心に大量に出土していることなどを考えると、九州倭国への経路ではなく、ヤマトへの直接経路「九州北部東岸→瀬戸内→ヤマト」で渡来した斜縁二神二獣鏡が、それまでの紹興、洛陽の鏡式と融合して成立したもの、それが三角縁神獣鏡である、という思いを強くする。

 銅鏡の時代的・地域的推移

 ホケノ山古墳からは画文帯同向式神獣鏡と内行花文鏡が出土したが、それまでの出土鏡は、九州北部における内行花文鏡や方格規矩鏡が中心だった。画文帯同向式神獣鏡は楽浪と瀬戸内以東からしか出土しないということから、この変化は、日本列島の覇権が九州北部からヤマトへ移ったことによるもの、そしてそのヤマトの権力は楽浪から渡来したものなのではないか、という見方をする人もいる。この見方は非常におもしろい。しかし、資料は本当にこのことを示しているのだろうか。考えてみたい。
  北部九州では、紀元前1世紀中頃の遺跡からは内行花文鏡を初めとする前漢鏡が出土し、1世紀中葉以降の遺跡からは、内行花文鏡、方格規矩鏡など後漢鏡が出土する。この内行花文鏡と方格規矩鏡の出土は、3世紀前半の遺跡とみられる平原遺跡をもって一旦収束し、その後九州北部には畿内型の古墳が築かれ、三角縁神獣鏡が出土するようになる。
  確かに4世紀初頭の古墳とみられる原口古墳や石塚山古墳からは、椿井大塚山古墳出土の三角縁神獣鏡と同笵関係にあるという三角縁神獣鏡が出土している。しかしそれと同時に、椿井大塚山古墳や天神山古墳からは内行花文鏡と方格規矩鏡も出土している。これによって、内行花文鏡と方格規矩鏡の副葬は九州北部だけの特徴ではないことが知られる。また4世紀後半から5世紀前半においては、九州北部の銚子塚古墳、老司古墳、そして畿内の新山古墳というように、両地域の古墳から内行花文鏡と方格規矩鏡が出土しており、九州北部における内行花文鏡と方格規矩鏡の副葬は平原遺跡をもって消滅したとはいえず、畿内には内行花文鏡と方格規矩鏡の副葬はなかった、ともいえないことになる。内行花文鏡と方格規矩鏡の副葬は九州北部から畿内に及び、それぞれの地域で生き続けたという見方が必要になってくる。
  三角縁神獣鏡の出現はどんなに早く見積もっても3世紀末頃であり、時期的にも文献的にも、物理的にも、また政治的にも、卑弥呼の鏡ではありえない。原口古墳や石塚山古墳から出土した三角縁神獣鏡は畿内の影響を受けたものかもしれないが、これをもってヤマト支配がここまで及んでいたとはいえない。4世紀以降、九州北部と畿内は相互にそれぞれの銅鏡副葬の風習を兼ね備えているのであり、どちらかといえば、当初は九州北部の風習が畿内に、畿内で三角縁神獣鏡が発明されてからは、三角縁神獣鏡が畿内から九州北部に及んだとみるのが正しいように思う。
  内行花文鏡と方格規矩鏡の九州北部と畿内からの出土状況をみると、それは九州北部勢力の畿内への移動の可能性を示すが、一方、楽浪鏡の特徴でもある画文帯同向式神獣鏡、斜縁二神二獣鏡はヤマトとの関係があったとしても、その後三角縁神獣鏡が大量に出回ることなどを考えると、それは楽浪からの渡来勢力による支配といったものではなく、これらの鏡が楽浪から渡来したものである、ということを示すにすぎない、と私には思える。ただ楽浪鏡は、魏使の通った九州北部経由ではない、別の経路によって畿内に達した、という可能性は高い。
  九州北部、畿内の遺跡・古墳から出土する銅鏡をみると、九州北部の内行花文鏡と方格規矩鏡を副葬する文化は3世紀前半以降もまだ残っていること、畿内の画文帯同向式神獣鏡と内行花文鏡の副葬文化は3世紀中頃に現われるが、時代的にも地域的にも一部に限られていることがわかる。さらに重要なのは、九州北部で行なわれていた内行花文鏡と方格規矩鏡の副葬が、畿内では4世紀初め頃から三角縁神獣鏡とともに現われ、そしてその三種のセットが今度は九州でも見られるようになるという事実である。ここからはどちらがどちらを支配したという傾向はみえてこない。
  これらの状況は一体何を意味しているのだろうか。素直な解釈は、「3世紀中頃までのある時期に、九州北部の内行花文鏡と方格規矩鏡を副葬(どちらかあるいは両方)する一部集団がヤマトに移動(覇権の移動ではない)し、ヤマトの副葬文化に変化を与えた。またそれとは別に、ヤマトには楽浪系の北東アジア系渡来人により楽浪鏡がもたらされ、それまでの鏡と融合し三角縁神獣鏡という新しい鏡式が発明され、この鏡はヤマトを中心に大量に出回ったが、九州北部にも伝播した。その結果、九州北部と畿内は互いに似た鏡文化を持つようになった」ということになるのではないかと思う。
  ホケノ山古墳から画文帯同向式神獣鏡と内行花文鏡が出土することについて、「日本列島の覇権が九州北部からヤマトへ移った、そしてそのヤマトの権力は楽浪から渡来したもの」という見方は導き出せない。

 中国史書が示す覇権の移動

  そもそも私は、3世紀には、九州から畿内大和への権力の移動はなく、政治的にも互いに独立していた、という見方をしているが、それは次のようなことからいえる。
  古代では、日本列島の代表というのは中国が認めた国のことであり、中国史書が示す限り、その国は三つしかない。倭奴国(倭人の国の代表)、邪馬臺国(倭国の代表)、そして日本国である。
  倭奴国は『後漢書』に「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」とあり、光武帝は倭奴国王に印綬を与え、倭奴国を倭国(この頃はまだ倭人の国という程度の意味)の代表として認めている。倭奴国は「倭國之極南界」にあり、志賀島で見つかった「漢委奴国王」印の「委奴国」は倭奴国のことであるから、倭国の「極南界」である倭奴国は博多湾周辺にあったことがわかる。つまり倭奴国は九州にあったのである。
  『魏志』倭人伝には「景初二年六月(中略)詔書報倭女王曰 制詔親魏倭王卑彌呼」とあり、邪馬臺国王卑弥呼を倭王、つまり邪馬臺国を倭国の代表国と認めている。それでは邪馬臺国はどこにあったのか。これが問題なのであるが、『魏志』倭人伝の行程は全体に南に向かっており、畿内には辿り着かない。邪馬台国畿内説では、「南」を「東」の間違いだとして畿内大和に導く方策がかつてはされていたが、最近では原文改定を嫌ってか、1402年につくられたといわれる「混一疆理歴代国都之図」(龍谷図)により、「南」に行っても畿内大和に行き着くという説が出てきた。しかし実はもう一つ同じ題跋を持つ「混一疆理歴代国都地図」(本光寺図)というのがあって、現代の地図に近いものが存在したのである。つまり、南北に長い日本列島を描く龍谷図は邪馬台国畿内説には利用できないことがわかったのである。
  しかし何よりも邪馬臺国が九州にあったことを明記している史書があることを無視してはいけない。『隋書』俀国伝には「其國境東西五月行 南北三月行 各至於海」「有阿蘇山」という場所を限定する記事がある。また『隋書』では「經都斯麻國 迥在大海中 又東至一支國」とあり、『魏志』倭人伝では対馬から壱岐に行くのに「南」とあるのが「東」となっており、このことから「其國境東西五月行 南北三月行 各至於海」は、正しくは「其國境南北五月行 東西三月行 各至於海」であることがわかる。つまり俀国(倭国)は南北に長く東西に短く、周りを海に囲まれ、そこには阿蘇山がある国ということになる。それは九州でしかありえない。倭国が九州であれば、その都・邪靡堆(邪馬臺)も九州内にあることは当然のことであるが、邪靡堆は有明海北東部沿岸にあったから(拙著『隋書俀国伝』の証明、縄文から「やまと」へ、本ホームページ参照)、中国が認める国は、2世紀末か3世紀初め頃に博多湾周辺の倭奴国から有明海北東部沿岸の邪馬臺国に代わったことになる。しかしこれは九州内の出来事であり、日本列島の覇権が九州から畿内大和に移ったわけではない。
  日本国は『旧唐書』に至ってはじめて登場するが、倭国の記録と同時に存在する。倭国の地理地形は「東西五月行 南北三月行 世與中國通(中略)四面小島五十餘國」とあり、『隋書』の記録とほとんど変わっていない。一方日本国の地理地形は「其國界東西南北各數千里 西界南界咸至大海 東界北界有大山爲限 山外即毛人之國」とあり、明らかに倭国とは異なる。倭国と日本国はまったくの別国なのである。また倭国は『魏志』『後漢書』『隋書』が書き続けてきた九州にあった国であることも、一連の中国正史を通してわかる。『旧唐書』が倭国と日本国を別条として記録しているということからしても、それまでの中国正史の書き方からすれば、この二国は別の国であると判断するのは決して間違いではない。というより、倭国と日本国を同一国だとすることは逆に資料無視につながる。
  『旧唐書』は日本列島には倭国と日本国の二つの国が存在することを認めていた。ただし日本国を日本列島の代表であると認めていたかどうかはわからない。まだこの時点では倭国が日本列島の代表であったようにみえる。
  日本国が日本列島の代表として扱われるようになるのは『新唐書』からである。ここではその地理地形は「島而居 東西五月行 南北三月行(中略)左右小島五十餘」「其國都方數千里 南西盡海 東北限大山 其外即毛人云」とあり、倭国と日本国の地理地形が合わせられ、都は『旧唐書』の日本国の地理地形そのものになっている。明らかに日本国が倭国を併合した結果の記録であることを示している。これが日本列島の代表としての日本誕生の最初の記録となる。
  日本国は日本と改名する前は「倭(ヤマト)」だった。7世紀になって突然できたわけではない。弥生時代から小国はあり、3世紀初めには古墳がつくられ、ヤマトとして倭国と並立して存在していたのである。
  中国史書が示すこれらの資料事実は、3世紀には九州から畿内大和への覇権の移動はなく、7世紀後半まで、それぞれ政治的に独立していたことを私たちに教えてくれるのである。

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  考古資料はあくまでも文献資料の補助材料にすぎないと私は思っている。考古資料を優先すると思わぬ落し穴に落ちてしまう。もし考古資料を優先するのであれば、一切文献に頼らない見方・考え方をするか、文献にあることを使用したり利用したりするのであれば、文献を無視せず、文献記録と異なることを主張するのであれば、その理由を誰もが納得する理論で説明する必要がある。
  私は常にこういった思いで古代史に取り組んでいるが、中国が長い間日本列島を見てきたその目を大切にし、日本列島の古代史の流れをとらえていかないと、どんなに考古資料を解釈しようと、考古資料の正しい姿は現われてこないような気がする。


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