「記紀神話」にみる倭人文化

2009.09.18

  「記紀神話」と稲作文化

  諏訪春雄氏はその著『日本王権神話と中国南方神話』(2005.07.05)で、「日本神話と同一の系統の神話をつたえているのは、長江(日本では揚子江とよばれることが多い)流域の稲作文化をつたえている民族です。同一系統の神話をつたえるということは、その二つの集団が、人的、文化的交流のある場合がほとんどです。(中略)長江流域の少数民族と日本の神話の類似は、明らかに人的、文化的交流の結果です」と述べ、また網野善彦氏や佐々木高明氏のように日本文化を稲作単一文化とすることに異論を唱える人たちがいる中で、次の二つの理由で、あえて日本の文化体系を稲作農耕と規定している。

@長江流域文化と日本文化は同質の稲作文化で結ばれていた。
 焼畑で耕作された熱帯ジャポニカは中国南部から黄河・淮河周辺の雑穀地帯を経由し、山東・遼東・朝鮮の各半島を経て6000年前に日本に伝来した。
  その頃中国江南地方では温帯ジャポニカの生産が始まり、2600年前には日本の菜畑遺跡におよんだ。
  縄文文化の大部分と弥生文化のほとんどが稲作伝来とともにはじまり、それらの文化は稲作とともに長江流域から日本に渡ってきたものである。

A『古事記』『日本書紀』の王権神話の根底には稲の信仰がある。
  王権神話の骨格は南の稲作文化の一環として日本へ伝来したものである。

  諏訪氏はまた、中国古代史学者渡辺信一郎氏の『中国古代の王権と天下秩序』から、「日本の古代文化は、稲単作文化と稲・雑穀栽培文化との複合文化であるが、祭天儀礼に関して言えば、長江以南の稲単作文化圏と深い関係をもち、ユーラシアの遊牧諸民族や北東アジアの稲・雑穀栽培文化圏とは一線を画するものであり、王権の祭祀としては体系的に導入されなかった」という文を引用し、それに賛意を示している。
  これは稲単作文化の日本列島での長い歴史を物語るものとして、注目すべき事柄の一つであると私は思う。
  諏訪氏はこのあと、「記紀神話」と中国江南の少数民族に伝わる神話を具体的に挙げ、両者の関係が深いことを明らかにしている。

 二つの農耕文化

  中国江南のある民族の神話は「記紀神話」のどれにあたるのか。それが100%同じということはありえない。稲を携えた民族の移動は一経路ではなく、また数えられる程度の回数でもなかったはずであり、それらが複雑に絡み合い、その土地土地で少しずつ内容が変化し現在の神話になったというのが一般的な考えのようである。
  しかしここには一つ気になる大きなテーマが横たわっている。それは天孫降臨神話である。天孫降臨神話はアルタイ語系の牧畜民文化を母体とした神話(大林太良『神話と神話学』)であり、北方系の神話とみられているからである。朝鮮の檀君神話や加耶国の卵生神話は「記紀神話」の先行神話とされている。
  これに対し諏訪氏は、朝鮮の檀君神話には穀物の神をひきいて天下るという要素が備わっており、それは中国南方長江流域の少数民族の神話にあるものだという。つまり天孫降臨神話はアルタイ語系の牧畜民文化だけを母体とした神話ではなく、これと長江流域の少数民族の神話とが習合したものとみるのである。そして天孫降臨神話を次のように整理している。

@天孫降臨神話の骨格は、
  A 天上の神たちが宝器をもって地上にくだって支配者になる。
  B そのさいに天上から穀物、ことに稲を地上にもたらした。
  という二つのモチーフから成立している。

Aこのうち、Aのモチーフは北方系アルタイ語系諸民族の山上降臨型神話によって形成された。

Bしかし、天孫降臨神話のBのモチーフは、中国南方農耕民の天から穀物をもたらした神または人が地上の人類の祖先または支配者になる神話によって形成された。

CこのBのモチーフは大陸から直接伝来したものと、朝鮮半島で北方系神話と習合してから日本へ伝来したものと、大別して二種類があった。この二種類は、日本への稲作の伝来ルートに対応している。

DこのBのモチーフと結合して、あわせて中国南方農耕民の稲魂信仰、太陽信仰なども日本へ伝来した。

  日本の農耕文化は確かに稲単作文化ではないが、稲文化の日本全体に与えている影響は絶大である。天孫降臨神話にも稲文化が入っているという事実は、このことを証明している。諏訪氏は「記紀神話」と中国長江流域の少数民族の神話との類似性を実例で示し、アルタイ語系の牧畜民文化を母体とした神話とされている天孫降臨神話についても、上記@〜Dのようにとらえている。つまり極端に言えば、日本の古代文化は、(1)中国長江流域の文化 (2)中国長江流域の文化とユーラシアの遊牧諸民族や北東アジアの文化が習合した文化 の二つの文化によって形成されている、ということである。そして中国長江流域の少数民族を倭人だとすることができるのならば、長江流域から直接日本列島に渡ってきた倭人の文化と、中国あるいは朝鮮半島で北東アジア系の文化と習合し変形した倭人文化の二つの文化が日本列島にあったことになる。その二つの文化の両方に稲文化はあるのである。
  諏訪氏はCで、天孫降臨神話の二つのモチーフの伝来ルートは、日本への稲作の伝来ルートに対応しているという。神話と稲作は人と共にやってきたはずだから、これは倭人が日本列島に到達したルートだとみることができる。
  私は、『漢書』地理志以降中国史書が日本列島(九州)の倭人を記していること、特に『魏志』倭人伝に描かれている倭人の習俗、そして『記紀』に長江流域の少数民族の神話と同じモチーフの神話が多いことなどから、はじめに日本列島にやってきたのは直接ルートの倭人であり、この人たちによって日本列島に水稲耕作技術がもたらされ、弥生時代がはじまったと考えている。
  問題はこの人たちがどのような形質をもった人たちだったのか、ということである。中橋孝博氏は、上海自然博物館に行ったとき、長江北岸の揚州市の前漢墓で見つかった人骨が北部九州の甕棺から出土する弥生人骨にあまりにも似ているので驚いたという。この北部九州の弥生人は直接ルートの倭人なのだろうか。私にはそうは思えない。

 二種類の倭人

  鳥越憲三郎氏の中国雲南省などでの実地調査や「記紀神話」の類似性からみて、長江流域の少数民族の一つに倭人がいたと考えてよいと思うが、彼らは北部九州の弥生人とは形質が異なっていたと思われる。かつて長江流域以南にいた彼らは漢の武帝に追われ、ミャンマーやタイに近い雲南省の西南部に逃げたといわれている。現在の彼らは、掲載されている写真を見ても、北方系の形質をもった弥生人とは異なるのがわかる。
  弥生人といわれている主力は、三津永田遺跡や山口県土井ヶ浜遺跡から出土した人骨に見る、北方系の形質をもった弥生人である。それは揚州市の前漢墓で見つかった人骨に似ているという。彼らは直接ルートの倭人ではないのである。
  中橋氏は上海での調査によって、「長江下流域の住人形質には大きな変化が起こり、遅くとも春秋戦国時代になると、この地域にも北部九州弥生人によく似た特徴を持つ人々が住み着いていた事実が明らかになったことになる」(『日本人の起源』)という。もし彼らが日本列島にやってきた弥生人だったとすると、彼らは長江以北から南下してきた北方系の人たちと長江流域以南にいた倭人系の人たちとの混血である可能性がある。なぜ混血かといえば、彼らは中国史書に倭人として登場し、倭人と呼ばれるからには、その特徴をもっていたはずであり、形質的には違いがあっても、伝統としての文化等が混血により引継がれたと考えられるからである。
  またもう一つ、朝鮮半島に移動した倭人がその地で北方系の人たちと混血した、という可能性も考えられる。いずれにしても、倭人には、北方系の人たちと混血した倭人と、混血しなかった純粋な倭人とがいたことになる。
  山口県土井ヶ浜遺跡から出土した弥生人骨、北部九州の甕棺墓から出土した弥生人骨は、長江流域以南にいた倭人とは異なる。その形質の違いからみて、これは明らかである。しかし中国史書によれば、どちらも倭人と呼ばれたのである。
  この二種類の倭人は、二つの農耕文化である、稲単作文化と稲・雑穀栽培文化に対応している。また長江流域の少数民族の神話と天孫降臨神話にも対応している。つまり日本の農耕文化と「記紀神話」は、倭人には文化と神話を異にする二種類の倭人がいたことを証明しているのである。稲単作文化と長江流域の少数民族の神話をもたらしたのが、直接ルートでやってきた倭人であり、稲・雑穀栽培文化と天孫降臨神話をもたらしたのが、朝鮮半島経由でやってきた北方系の形質をもった倭人、ということになる。

 倭人・韓人・日本人そして『日本書紀』

  私はこれまで、「日本人は倭人ではない」といってきた。ここでは新たに韓人(百済人)を加えて、このことについて簡単に説明しておきたいと思う(縄文人については省略)。

@倭人は中国長江流域の少数民族の一つだった。

A春秋戦国時代になると、長江流域に北方系の人たちと混血した倭人が現れた。

B最初に日本列島にやってきたのは、直接ルートでやってきた長江流域の少数民族の一つである倭人だった。この人たちが水稲耕作技術をもたらし、北部九州は弥生時代になった。

Cその後、北方系の人たちと混血した倭人が朝鮮半島経由で日本列島にやってきた(朝鮮半島で北方系と混血した可能性もある)。この人たちは形質的には北方系であるが倭人であり、倭人文化を携えていた(中国史書は倭人と書いている)。

D倭国はこれらの倭人の国となり、北東アジア系の形質が強くなっていった。

E白村江敗戦により九州は衰退したが、ヤマトは百済人の大量流入により、北方的形質をもった倭人を王(天皇)とし、それを韓人(百済人)が支える構造の国となり、韓文化と倭文化が融合し新しい文化が生まれた(白村江敗戦以前からもこの傾向はみられた)。

F新しい文化が生まれたヤマトは、新しい国として国名を日本とし、ここに日本国が誕生し、北方的形質をもった倭人と韓人が大勢を占める日本人が誕生した。

Gヤマトには「倭」の字と倭文化は残ったが、日本人は北方的形質をもった倭人と韓人が大勢を占めたため、南方系ではなく、遺伝子が示すように、北東アジア系となった。

 「記紀神話」は、中国長江流域の少数民族の神話がその中枢を占めている。そして天孫降臨神話は長江流域の少数民族の神話と北方系アルタイ語系諸民族の山上降臨型神話とが習合したものだった。ここには、直接ルートで最初に日本列島にやってきた倭人と、その後朝鮮半島経由でやってきた倭人とがちゃんと描かれていることになる。天孫降臨神話は北方系の倭人が南方系の倭人を制したことを意味している、とみることもできる。
  『日本書紀』の神話時代には多くの一書がある。なぜか。それは『日本書紀』を書いたのが倭人本人ではないからではないか。倭人本人であれば一つにまとめることはできたはずである。日本国そして日本人が誕生するまでの経緯からすると、『日本書紀』は亡命百済人あるいはその子孫によって書かれた、とみるのが自然である。『日本書紀』は、彼ら自身が日本人として生きるために、日本国誕生とともにどうしても必要な歴史書だったのであり、それは倭(わ)国人ではないヤマト人である北方系倭人の王権とも利害関係が一致したのである。
  これは状況からみた主観であるが、客観的事実に基づく「『日本書紀』百済人編纂著作説」の詳細については、雑考ノート「『日本書紀』を書いたのは誰か」を参照していただければと思う。

 実地調査と神話の一致

  鳥越憲三郎氏と建築史家若林弘子氏による中国雲南省やミャンマーなどでのワ族調査の結果は、目で見ることができる風俗風習・宗教形態・生活建築様式などの、弥生時代の倭人と今に至る日本のそれとの類似性を示し、日本列島の倭人がかつて長江流域にいた倭人の子孫だった可能性を強く示唆する。そして「記紀神話」と長江流域の少数民族の神話との類似性は、この調査結果と一致し、日本列島の倭人が長江流域から渡来したものである可能性をさらに強くしたといえる。
  『記紀』は、日本列島での倭人のはじまりの歴史を神話として表現した。そこからは、直接ルートの倭人と朝鮮半島経由の倭人がいたことがわかる。特に天孫降臨神話からは、倭人形質の北東アジア的傾向が伺われる。
  『記紀』には「倭」という字は多く存在するが、それは「やまと」と読まれ「わ」ではない。倭人のはじまりの歴史は残しつつも、日本の歴史は倭人(倭国)の歴史ではないことを暗示している。ヤマトでは倭人文化と韓人文化が融合し、独自の文化ができあがった。その歴史を描いたのが『記紀』であり、特に日本という新しい国の誕生を意識して編纂されたのが『日本書紀』だった。だからそこでは、「倭」は「やまと」ではあるが「わ」ではないのである。そして倭人神話の一つの物語にいくつかの説話を列挙する書き方は、編纂者がその神話をもつ倭人ではないことを暗示している。
  ところで、鳥越憲三郎氏と建築史家若林弘子氏による中国雲南省やミャンマーなどでのワ族調査の結果が、ヤマトの歴史を書く『記紀』の神話から裏づけられたとしても、中国史書がいう倭人の国・倭国が畿内大和にあったということには結びつかない。鳥越憲三郎氏は邪馬台国畿内説者であるが、鳥越氏の研究結果は邪馬台国畿内説に直接つながるものではないことに注意が必要である。ただ鳥越氏のこの調査は非常に価値のあるものであり、「記紀神話」からもそれが裏づけられたことによって、今後の日本古代史の新しい展開に大いに期待が持てそうである。
  『記紀』特に『日本書紀』は、冷静にみると、倭人系神話と北方系神話、そして『日本書紀』誕生の時期や使用されている言葉の音韻変化などから、ヤマトが倭人社会から北東アジア系渡来人社会に移ったことを記す貴重な歴史書、といえるかもしれない。


追記 2009.10.01
  斎藤成也著『DNAから見た日本人』に、百々幸雄氏が頭骨の形態小変異のデータをもとにして作成した近隣結合法による近縁図が掲載されている。その中にある山口県土井が浜の弥生時代人について、斎藤氏は[発見以来、典型的な「渡来系」弥生人と考えられているが、この図からみる限り、他の集団とは異なる、やや異質な要素を持っているように見える]と書く。近縁図によれば、土井が浜弥生人は日本列島の古墳時代人と鎌倉時代人の間から枝分かれし、少し離れたところにある。現代本土日本人の系統からは少し外れており、確かに典型的弥生人と決めつける位置にはない。
  また2003年に国立歴史民俗博物館から、弥生時代は通説より約500年早い紀元前10世紀にさかのぼるという見解が発表され、金属器は水田稲作と同時に大陸からもたらされたというこれまでの考えにも影響を及ぼすことになり、波紋が広がった。考古学会ではこれに対する異論も根強いが、『ここまでわかってきた日本人の起源』(産經新聞社)は、東大大学院教授大貫静夫氏は「金属器の列島への流入年代は、水田稲作の伝来時期までさかのぼらない。水田稲作を伝えた渡来人は、金属器を携えていなかった」と認めていることを紹介している。
  土井が浜弥生人が北東アジア系だとすると、中国史書がいう「倭人」(南方系の風俗風習をもつ)の存在が宙に浮いてしまう。土井が浜弥生人の形態がたとえ北東アジア系のそれに近似していようと、それは南方系の倭人の血がまだ半分程度はある「倭人」と言ってよい弥生人だったのではないか。これが私の見方である。百々幸雄氏作成の近縁図は、土井が浜弥生人のもつ形質が現代本土日本人につながる北東アジア系の強い形質であると言い切れないことを示すものであり、私のこの見方は決して間違いではないこと示しているようにみえる。
 また、「水稲耕作を最初に日本列島に伝えたのは、江南から九州北部へ直接ルートで渡った倭人である」と私は考えている。それは中国史書の倭人の風俗風習が南方的(黥面文身、貫頭衣など)であること、高床式建築、鳥居などが江南の様式に近似していること、朝鮮半島にはない稲の遺伝子が中国江南と日本列島にはあることなどによるものだった。しかし今回、「記紀神話」には北方神話が混在しない南方神話が多くあること、また水田稲作は金属器が日本列島に伝わる前に、単独で日本列島に伝わった可能性が高くなったことがわかり、私の見方が補強されることになった。
  中国史書の、特に『魏志』倭人伝に書かれている南方的な風俗風習は、最初に日本列島に渡ってきた人たちのものが長い間生き続けていたか、あるいは混血しても倭人の風俗風習はその中に強く生き続けたということを示していることになる。


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