「倭一名日夲」について

2006.12.01

  日本列島の「倭」を最初に記録した中国正史は『漢書』地理志だった。それ以来『旧唐書』まで「倭」「倭人」「倭国」は日本列島の地・人・国として描かれてきた。そしてこの『旧唐書』において「日本」という国が「倭国之別種」として初めて登場し、『新唐書』からはそれまであった倭国伝が消え、『旧唐書』の倭国伝と日本国伝の記事が合算された日本国伝のみとなり、「日本」は「倭」が改名した国とされ、以後これが定着していくことになる。
  ここまでの中国正史を忠実に読んでいくと、『漢書』地理志から『旧唐書』までの「倭」は明らかに『旧唐書』から現われた「日本」とは別の国であり、『新唐書』からはその倭は日本のことであるとされていく様子がみてとれる。
  この経過については拙著『縄文から「やまと」へ』で詳述したが、この「倭」と「日本」の関係については中国の正史以外の史書にも記録されたものがあり、そのことにも少し触れておく必要が生じたのでここに記すことにした。
  それは『通典』の「倭一名日夲」である。『通典』は杜佑によって801年に成立した。したがって「倭一名日夲」は、945年成立の『旧唐書』に倭国伝と日本国伝が書かれる前からすでにあったことになり、『旧唐書』に倭国と日本国がそれぞれ別の伝として書かれているのは倭国と日本国が別国だったからではなく、時代によって国名が異なっていたからに過ぎないという根拠にもされるのである。この見方は、ときには五世紀さらには三世紀にまで遡って「倭=日本」であることにも利用されることになる。
  確かに801年にはすでに倭国は消滅し日本国のみになっており、「倭一名日夲」は『通典』だけみている人にはそれは正しいと映るかもしれない。しかし、中国史書はこれ一つではないのであり、日本列島を記録した一連の中国史書の中の一つとしてこれをとらえなければならない。その中で『通典』はどのような史書なのかという位置づけをはっきりさせ、そこからその記事が何を意味しているのかを探りだす必要がある。
  この『通典』には「北宋版」があり、今私がみることができるのはこの「北宋版」の『通典』である。残念ながら当初の『通典』を知らないので、「北宋版」の『通典』によって論を進めていくことにする。

  「倭」と「日本」という二つの国の関係を記す中国史書は『通典』のほかに、『旧唐書』『唐会要』『太平御覧』『新唐書』がある。『通典』が801年撰であるから、『通典』が最初ということになり、これらの史書は、撰年順で『通典』(801)→『旧唐書』(945)→『唐会要』(981)→『太平御覧』(983)→『新唐書』(1060)となる。
  ここで『通典』の構成をみると、『後漢書』→『魏志』倭人伝→『宋書』→『隋書』→『旧唐書』倭国伝と同様記事→『魏志』倭人伝というように、各史書から引用したと思われる記事が連なり、次に問題の「倭一名日夲」が挟まって、最後に『旧唐書』日本国伝と同様の記事の記載となっている。『通典』は『旧唐書』より前の撰であるから、『旧唐書』を引用することはできず、二史書に共通する記事は『旧唐書』が『通典』あるいは『通典』の原史料から引用したことになる。
  『旧唐書』は倭国伝と日本国伝を載せる唯一の正史である。『太平御覧』は『旧唐書』同様倭国伝と日本国伝を持ち、二国が別国であることを表現している。この『旧唐書』と『太平御覧』の間に書かれた『唐会要』にも、『旧唐書』と『太平御覧』同様倭国伝と日本国伝があるが、少し状況が異なっている。一に、倭国伝は「巻九十九」にあるが、日本国伝は蝦夷国伝と同じ「巻一百」にあり倭国伝とは巻が別となっていること、二に、『旧唐書』『新唐書』では日本国記事となっている「日の出るところに近いので日本を国名とした」という内容の記事、及び『新唐書』(倭国伝はなく日本国伝のみ)の「遣使賀平高麗」という記事が倭国記事に入れられていることである。しかし日本国伝の記事は『旧唐書』日本国伝からの抜粋とみられ、それは『旧唐書』そのものである。また『太平御覧』における日本国伝は、『唐会要』の日本国伝よりも多くの『旧唐書』日本国伝記事を載せている。
  これら三書(『旧唐書』『唐会要』『太平御覧』)が書かれた年代はその差が38年しかない。三書の中で最初に書かれた史書に影響されるのは当然であろう。そしてこれら三書はともに倭国伝と日本国伝を持っている。つまり日本は倭国とは別国であることを三書の撰者は認識していたのである。正史である『旧唐書』は正史らしく、倭国と日本国の記事は年代上にも矛盾なくきちんと分けて記している。『太平御覧』はそれを見習い、矛盾は起きていない。しかし『唐会要』の撰者は倭国と日本国を書き分けてはいるものの、「則天時、自言。其國近日所出、故號日本國。蓋惡其名不雅而改之」という一部の情報に惑わされたのか、日本国記事を倭国記事の中に載せてしまった。この矛盾の中に日本国の生い立ちに対する撰者の混乱の様子がうかがわれる。しかしながら『旧唐書』『唐会要』『太平御覧』の三書からは、これら三書の撰者は、少なくとも「倭国と日本国は別国である」という認識は持っていた、ということが知られるのである。
  900年代には、中国は日本列島の国々に対しこういった見方を持っていた。そしてこのあとの11世紀中半の『新唐書』になると、日本国は倭国が改名したものという見方に変り、倭国という国名は消えていく。
  10世紀の史書は「倭国と日本国は別国である」ことを示していた。11世紀の史書は「日本国は倭国が改名したもの」とみていた。これが中国史書からみた事実である。そうすると、801年成立の『通典』は「倭国と日本国は別国である」ことを記していてもよいはずである。しかし実際はそうなっていない。その逆である。なぜなのか。それはその史書を編纂した時代の影響によるものではないかと私は思うのである。
  801年というのは日本国誕生からまだ百数十年しか経っておらず、日本の印象とその誕生のいきさつが同時代的事件としてまだ強く残っていたのではないか。つまり『通典』は日本誕生の時代に他の史書よりも近かったがゆえに、同時代資料として日本の状況を記したのである。「倭が日本と改名した」という日本使者の言に基づき、「倭一名日夲」と書いたのである。
  ところがそれから144年後、『旧唐書』は正史として、現時点の日本ではなく、過去の歴史としての「倭」を忠実に描こうとした。だから倭国と日本国の二つの伝が書かれたのである。もし中国人が日本列島の歴史を「倭=日本」とみてきたのであるならば、『通典』で「倭一名日夲」としているものを、わざわざ『旧唐書』が倭国伝と日本国伝というように分けて記録する必要などなかったはずである。しかもその後に続く『唐会要』『太平御覧』の二書も『旧唐書』と同様に倭国伝と日本国伝を載せている。このような史書の経過をみると、『旧唐書』『唐会要』『太平御覧』は過去の歴史としての倭国と日本国を記録し、『通典』は過去の倭国の歴史に現在の日本国を「倭=日本」とみて重ね、それを「倭一名日夲」と表現したようにみえる。
  『通典』は同時代の日本をみて「倭一名日夲」と表現し、『旧唐書』『唐会要』『太平御覧』は過去の時代の歴史として倭国と日本国を記録したのである。したがって「倭一名日夲」をもって、過去からずっと「倭=日本」であったという主張はできないのである。何よりもそのことは同じ中国史書が証明してくれている。
  『通典』の「倭一名日夲」は「倭=日本」とみるようになった進行形の時代の見方を示すものであり、過去の歴史として記した『旧唐書』『唐会要』『太平御覧』が示す「倭≠日本」という見方は、これをもっても崩れることはないのである。

  歴史には大きな流れがあり、個々の史料は歴史の流れを示す全体の資料の中のたった一つの資料に過ぎず、その一つをもって歴史全体の流れを判断することはできない。
  『通典』の144年後に書かれた『旧唐書』をはじめとして、『唐会要』『太平御覧』の三書の「倭≠日本」とする見方と、その次の『新唐書』において初めて「倭=日本」とする見方が現われる、その流れはけっして無視することはできない。『通典』という一史料による「倭一名日夲」は、すでに倭国が消滅し日本国のみとなったその時代の状況を同時代に記したものであり、この部分に関して『通典』は史書として正確であるとはいえない。むしろ不正確である。しかし資料全体の整合性を考えるという基本的な研究姿勢があれば、そういった一過性の見方に惑わされることはけっしてないはずである。


ホーム   ■雑考ノート目次