紹興・洛陽・楽浪出土の鏡について

2009.04.16

 前回のノートで、三角縁神獣鏡に関するこれまでの主な説についてまとめたが、これらの説から浮かび上がってくる問題点について、ここでは考えてみたいと思う。資料を重視し、歴史学・考古学を学問とするならば、問題とされるのは次の点である。

(1)三角縁神獣鏡は中国から一面も出土してないにも関わらず魏鏡とすること。
(2)三角縁神獣鏡が中国から一面も出土しないのは倭のために特鋳したからだとすること。
(3)洛陽出土鏡と三角縁神獣鏡との類似から三角縁神獣鏡を魏鏡とすること。
(4)三角縁神獣鏡は中国ではなく楽浪郡で特鋳されたとすること。

  これらはすべて考古学者によるもの、というのも問題の一つに数えられるかもしれない。
 (1)(2)は考古学としてはまったく根拠のないもので、三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡と関係しているはずだ、関係していなければならない、というような、強い思い入れしか伝わってこない。これにはもともと考古学的根拠がないので、何とも説明のしようがない。ここでは(3)(4)について現時点での私の見方を述べることにする。

  洛陽出土鏡と日本出土鏡

  (3)について
  岡村秀典氏は、岡崎敬氏が『図説中国の歴史3』で、中国洛陽岳家村出土の「三角縁神人車馬画像鏡」が奈良県北葛城郡宝塚古墳出土の「三角縁神獣車馬画像鏡」と同郡新山古墳出土の「三角縁二神二獣鏡」との類似を指摘していることに注目し、これを三角縁神獣鏡魏鏡説の一つの根拠としている。
  しかし岡崎氏は同書の中で、「漢代、方格規矩四神鏡・獣帯鏡など優秀な鏡のほとんどは、首都長安、洛陽の尚方という役所で製作された。後漢のころ、虁(き)鳳鏡・獣首鏡が、広漢郡(四川省)の西蜀尚方という役所でつくられている。後漢末、重列神獣鏡・画文帯神獣鏡・画像鏡などの製作が江南ではじまり、呉にひきつがれた」とも書いている。浙江省紹興市付近の古墳からは多くの鏡が出土しており、梅原末治氏は『紹興古鏡聚英』でこれらを紹介している。紹興出土の鏡には三角縁の鏡や神獣鏡が多いが、ほとんどが後漢末のものとみることができそうである。
  岡崎氏は後漢末の江南紹興出土の鏡については上記のように紹介しているのであるが、最終的には洛陽出土鏡の紹介に続いて、「舶載の三角縁神獣鏡は、東は群馬県まで、西は北九州より瀬戸内沿岸にのび、畿内に圧倒的に多く分布している。(中略)現在のところ、鏡の伝世や移動を考慮しても、その分布より考えて、邪馬台国の所在を九州に求めるのは明らかに無理があり、畿内に求める方がより合理的である」と書く。三角縁神獣鏡が紹興出土鏡と関連性があるかどうかについてはまったく意識はなく、三角縁神獣鏡は洛陽製作のもので、卑弥呼が魏から下賜されたもの、という見方をしている。
  岡崎氏の『図説中国の歴史3』は1977年4月発行、岡村秀典氏の論考は1989年3月発行の白石太一郎編の『古墳』所載のものであり、ともに発表時から大分時間が経過しており、現在これをもとに論じてよいかという問題もあるかもしれないが、現時点において、両氏とも執筆当時の考え方を変えたということはないようである。
  ここで気になるのはやはり洛陽岳家村出土の「三角縁神人車馬画像鏡」である。『図説中国の歴史3』には、この鏡と宝塚古墳出土の「三角縁神獣車馬画像鏡」、同郡新山古墳出土の「三角縁二神二獣鏡」の写真が掲載されている。写真であり、しかも小さいため確かなことはいえないが、洛陽出土鏡と宝塚古墳出土鏡は確かによく似ている。文様では、外区、乳の座の部分、1頭の獣の顔の向きが異なる程度の違いである。この二つの鏡には何らかの関係があることは認めざるを得ない。
  一方、宝塚古墳出土鏡と新山古墳出土鏡の銘文はこれまたよく似ている(資料「主要紀年・銘文鏡一覧」参照)。両者には何らかの関係がある、ということになる。さらに新山古墳出土鏡は三角縁神獣鏡である。宝塚古墳出土鏡が中国製とするならば、新山古墳出土鏡の三角縁神獣鏡も中国製だ、という理論がここに生まれる。
  洛陽出土鏡と宝塚古墳出土鏡の類似性、宝塚古墳出土鏡と新山古墳出土鏡の銘文の類似性は確かに認められる。しかし、新山古墳出土鏡は宝塚古墳出土鏡の銘文をまねただけかも知れず、このことから三角縁神獣鏡は洛陽で製作されたものである、ということにはならない。
  中国洛陽出土のものと同じものが日本からも出土しているが、三角縁神獣鏡が出土するのは日本だけである、というのが、考古学の見解でなければならないと私は思う。

  紹興出土の「三角縁神人車馬画像鏡」

  岡村氏も岡崎氏も洛陽出土鏡と宝塚古墳出土鏡の類似性をことさら強調するが、前述した梅原末治編修の『紹興古鏡聚英』に、洛陽出土鏡と似た鏡を見つけることができる。「周氏作神人車馬画像鏡」は洛陽出土鏡と鏡径も近く、外区に限れば、洛陽出土鏡と宝塚古墳出土鏡との類似性よりも、洛陽出土鏡と紹興出土鏡との類似性の方が強いようにみえる(内区については洛陽出土鏡と宝塚古墳出土鏡の方が類似性は強いようにみえる)。
  紹興のある江南には三角縁の鏡と神獣鏡が多い。日本には中国からは出土しない三角縁神獣鏡が多数出土する。洛陽と紹興出土の鏡には類似性がみられる。洛陽と日本出土の鏡にも類似性がみられる。
  これらの状況、状態を冷静にみれば、宝塚古墳出土鏡は洛陽出土鏡にだけ関係しているとするのは片手落ちであることがわかる。宝塚古墳出土の「三角縁神人車馬画像鏡」は洛陽との関係も紹興との関係もあり、「洛陽→宝塚古墳」も「紹興→洛陽→宝塚古墳」という図式も可能である。しかし三角縁神獣鏡の要素である三角縁と神獣は江南に多いということを考えれば、紹興との関係の方がより強いように思う。
  また洛陽出土鏡は「三角縁」ではなく「斜縁」であるという見方があるのに対し、紹興出土鏡の方は明らかに「三角縁」であり、紹興からの影響をより強く感じざるを得ない。
  樋口隆康氏は、会稽は呉の領域内であるのに魏鏡を作っていたという。このことは洛陽岳家村出土の鏡も呉の領域内でつくられたものではないかということを想像させる。その可能性も十分ある。

  旧楽浪郡出土の「三角縁二神二獣鏡」

  (4)について
  西川寿勝氏は、舶載鏡の紋様や特徴は中国のどの地域の鏡とも合致せず、唯一合致したのが楽浪郡出土鏡だった、という。『古鏡聚英』(後藤守一編修)には、楽浪出土の三角縁二神二獣鏡がいくつか掲載されているが(現在、これらの三角縁二神二獣鏡は三角縁神獣鏡ではなく、斜縁二神二獣鏡という鏡式になるという)、このうち「吾作明竟」銘の二神二獣鏡は、静岡県庚申塚古墳出土及び兵庫県ヘボソ塚古墳出土の「吾作明竟」銘の斜縁二神二獣鏡と、文様・銘文とも非常によく似ており、鏡径も14cmから16cmの間にあり互いに近い。これは一例であるが、西川氏のいうことの一部は確認できる。ただこれはあくまでも斜縁であり、三角縁神獣鏡は日本以外からはいまだ出土していないという事実に変わりはない。したがって三角縁神獣鏡は楽浪にもないことになるから、日本との類似性の程度は洛陽、紹興と同じである。しかし三角縁という面だけでいえば、その度合は洛陽、楽浪よりも紹興の方が強いということになる。
  西川氏は、楽浪郡が魏の命を受け、卑弥呼が国中のものに下賜するための鏡を特鋳したとする。西川氏も特鋳説から離れられないでいる。楽浪郡からも三角縁神獣鏡が出土しないからである。三角縁神獣鏡以外の鏡が日本出土の鏡と似ているからといって、考古学的根拠のない特鋳説を持ち出さなければならない「三角縁神獣鏡楽浪郡製作説」は果たして必要だったのだろうか。私には疑問に思えて仕方ない。

  紹興―洛陽―楽浪―日本

  (3)(4)も三角縁神獣鏡以外の鏡の類似性の指摘は間違いではないが、それと三角縁神獣鏡が直接関連するかというと、資料は否定的である。
  三角縁神獣鏡は卑弥呼が下賜された銅鏡100枚、あるいはその一部にあたる、と考えている人たちは、類似する鏡が出土する洛陽や楽浪郡との関わりを論じたくなるようだ。しかしそれは間違いなく、学問的理由によるものではなく、先入観あるいは希望的観測によるものである。特鋳説と常にペアであることが、何よりもこのことを証明している。
  私は鏡については勉強をはじめたばかりだし、ほとんど素人である。しかし素人だからこそ見えるものもある。そこで、余計な知識をもたないという、その有利さを使って、単なる鏡として存在したとき、三角縁神獣鏡はどのような鏡として表現されるのかを考えてみた。

鏡の縁が三角形をしている。
半肉彫の神獣の文様をもつ。
三角縁の鏡や神獣鏡は紹興など江南地方に多い。
鏡径は大きく一般的には20cm以上ある。
日本からのみ出土する。
同笵鏡(同型鏡)が多い。
近畿地方を中心に広範囲に分布し、500面ほど出土している。
洛陽から、三角縁神獣鏡ではないが日本出土鏡と類似性の強い鏡が出土している。
紹興から、三角縁で、日本出土鏡と類似性の強い洛陽出土鏡と似た鏡が出土している。
旧楽浪郡から、三角縁神獣鏡ではないが、日本出土鏡と類似性の強い鏡が出土している。

 これらのことから、少なくとも次のことがいえる。

三角縁と神獣の文様は江南の影響を受けている。
日本以外の地域ではつくられなかった。
ヤマト中心として大量につくられた。
三角縁神獣鏡以外の鏡の文様・形態は、紹興、洛陽、日本で似ているものと、旧楽浪郡と日本で似ているものがある。

 こうやってみると、三角縁神獣鏡は日本でのみ出土し、ヤマトを中心として大量に出まわった鏡であることがわかるが、同時に江南の影響を強く受けながらも、それとはまた異なった形態の鏡であることがわかる。三角縁神獣鏡以外の鏡は紹興、洛陽さらに旧楽浪郡とも関わりをもっている。
  後漢末、洛陽では銅鏡の鋳造はあまり振るわなかったが、長江流域では経済は安定し、鋳造は盛んに行われたという(徐苹芳氏の論考『考古』「三国両晋南北朝的銅鏡」より『三角縁神獣鏡新鑑』で樋口隆康氏が引用したものを要約)。この時代の銅鏡の形態・鋳造技術は江南・呉の工人の影響が大きかったのではないだろうか。
  このことからすると、三角縁神獣鏡は呉の工人が日本に渡ってつくったもの、という古田武彦氏や王仲殊氏の説は頷けるが、また、呉の工人でなくても、その影響を受け、いろいろな種類の鏡をつくった工人たちが日本に渡来し、それまでの形態・文様などの特徴をアレンジし新しい鏡を製作した、ということも考えられる。前述した洛陽や旧楽浪郡出土の鏡は、まだ完全な三角縁になっていないものであるが、それは日本からも多く出土する。旧楽浪郡出土鏡はもう少し大きく三角縁になれば、三角縁神獣鏡となる。三角縁神獣鏡が生まれる直前の形かもしれない。そうであれば、三角縁だからといって、呉の工人が日本に渡来し鋳造したと決めつける理由は弱くなる。
  倭にはすでに多くの鏡工人が渡来していたと思われるが、彼らの出身地は当然一箇所ではなかったはずだ。そこにはそれぞれの特徴をもった鏡があり、工人としての経験を通して、それらの中から新しい形態の鏡を創出したことも考えられる。
  ヤマト人は古墳時代には北東アジア系がかなり進んでいたと考えられるが、鏡工人の渡来も当然含まれる。大量の三角縁神獣鏡の出土は、呉工人の渡来というより、北東アジア系の人たちの渡来の増加を物語っているように私には思える。

 三角縁神獣鏡の使用目的

  河上邦彦氏は、島の山古墳、椿井大塚山古墳、大和天神山古墳、マエ塚古墳、鶴山丸山古墳、一貴山銚子塚古墳、佐紀衛門戸丸山古墳、西求女塚古墳、佐味田宝塚古墳、長法寺南原古墳、紫金山古墳、黒塚古墳などに埋納されていた鏡の状況を調査し、これらの鏡が1~2、3枚の場合は頭元に、数枚ある場合は頭元と足元に配置され、さらにかなりの枚数がある場合は棺を巡るように、遺体を覆うように配列されていること、また、中国漢代墓の鏡に呪術的傾向があることから、鏡は単なる副葬品としてではなく、死者に対する呪術行為の葬具だとみる。
  石野博信氏は河上邦彦氏が調査したのと同じように、三角縁神獣鏡の古墳からの出土状況から、三角縁神獣鏡はそれほど大事な鏡ではなく、おまじないの道具だったのではないかといい、副葬されるようになったのは270年頃で、風習が広まるのは290年代以降だとみる。
  500という数の鏡ははっきりいって「貴重」とはいえない。誰もが手に入れることができた鏡、と考えるのが通常の人の思考回路ではないだろうか。私は河上氏や石野氏の見方には肯定的である。
  石野氏は黒塚古墳から33面の三角縁神獣鏡が出土したことについて、「この鏡が中国からもらった鏡とすれば、公の鏡です。公の鏡を個人の墓にもって行ってしまうとは何事か、と。この人がネコババしたわけではないでしょうし、なぜそのようなことが起こったか、が疑問です」(『三角縁神獣鏡・邪馬台国・倭国』)と書くが、私もまったく同感であり、個人の墓に大量に副葬されていること自体、この鏡が配布用でないことは明確である。椿井大塚山古墳出土三角縁神獣鏡にも当然同じことがいえる。
  三角縁神獣鏡の数、出土状況という一つの側面をみただけでも、この鏡が卑弥呼の鏡でないことは、通常の思考回路であれば理解できる。特鋳説などいらないのである。
  「三角縁神獣鏡は500面も出土している、というのは特異なことである」というのはその通りであるが、このことは「当時の価値も特異だった」ということとイコールではない。まったくその逆であることを理解しないと間違いを起こしてしまう。
  河上説、石野説について残念なこともある。それは両氏ともここまでの考察をしながら、三角縁神獣鏡と卑弥呼、三角縁神獣鏡と邪馬台国を関連付けようとしていることである。この見方と前述した見方とは私には結びつかないのである。まったく別人の説のように思えてならない。とても残念である。

 紀年・銘文について

 景初年、景初年、正始元年という魏の年号が入った鏡は、これらが魏鏡である証拠とされている。しかし景初4年という年は存在せず、景初年銘鏡の1枚と正始元年銘鏡は日本からしか出土していない三角縁神獣鏡である。この状況からは、これらの鏡が魏鏡であるとは言えないのである。
  三角縁神獣鏡は魏鏡なのか、それともそうではないのか、という問題が重要なのは、もしそうならば、それは卑弥呼が魏からもらった鏡であり、その鏡が多く出土するヤマトは邪馬台国だということになるからである。
  しかしすでにみたように、椿井大塚山古墳や黒塚古墳から大量に出土した三角縁神獣鏡は、埋葬状況から考えてそれほど重要な鏡ではないのであり、またそれらが卑弥呼の鏡だとすると、墓の主は公鏡を大量に横領したことになってしまうから、三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡だと考えることはできなくなるのである。このようにこれまでに明らかになっていることを一つ取り上げただけでも、三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡でないことは容易にわかる。考古学的根拠のない特鋳説を持ち出してまで、魏鏡説にこだわる必要はない、というより、それは逆に、論理に大きな欠陥をもたらすことになってしまうのである。
  このような状況を踏まえ銘文を考えると、紀年が本当にその時代とその国の年号を表し、その国でつくられたのかいうことも大いに疑問となる。
  こんなことをいうと怒られるかもしれないが、銘文はどうにでもなる。いくつかの異なった銘文をもつ原鏡があれば、その必要な部分を組み合わせて、その鏡にあった銘文をつくることができる。日本で景初3年、景初4年、正始元年の年号入り鏡をつくることはそんなに難しいことではないのである。しかも鏡工人が渡来人であればなおさらのことである。

  「示汝國中人」と「配布」

  三角縁神獣鏡では重要テーマとなっている、三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏から下賜された鏡で、その鏡は地方の豪族に配布されたということについて、少し述べておきたい。このように考えるもととなったのは『魏志』倭人伝の「特賜汝 紺地句文錦三匹(中略)銅鏡百枚(中略)悉可以示汝國中人 使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也」の「銅鏡百枚(中略)悉可以示汝國中人」である。つまり「銅鏡百枚」は三角縁神獣鏡のことであり、「示汝國中人」は「配布」のことだというのである。
  私はここに大きな問題があると思っている。「示汝國中人」は「配布」を意味しているとはまったく考えられないからである。「汝好物也」とあるように、銅鏡は卑弥呼の好物の一つだった。卑弥呼はその好物を所有することによって、倭国における邪馬壹国の優位性を誇示できたのである。それを、邪馬壹国の臣下に下賜するのならともかく、地方の豪族に配布するとは。私にはとても考えられないのである。これは畿内を中心に出土する三角縁神獣鏡を「邪馬台国畿内説」と結びつけた、先ず「邪馬台国畿内説ありき」の発想なのである。
  私には「示汝國中人」が「配布」の意味であるというようにはとても読めない。卑弥呼自身が所有していてこそ、魏に認められたその権力を誇示できたはずであり、それが「示汝國中人」の本当の意味なのではないか。『魏志』倭人伝のこの部分の解釈は、三角縁神獣鏡の初歩的な問題であるが、非常に重要であると私は思う。「示汝國中人」の意味はもう一度問い直されるべきである。

 銅鏡については勉強をはじめたばかりで知識の浅い私が、三角縁神獣鏡について云々するのは多くの研究者に対して失礼であり、また無謀にも思えるが、だからこそ言えることもある、という自己弁護をしながら、最後に、現時点での私の見方を記すことにする。

  三角縁神獣鏡は卑弥呼や邪馬台国の政治的意図とは関係なく、渡来工人の創意により、日本で発生し、ヤマトを中心に広範囲に流通した、日本独自の、副葬用としての呪術的要素を強く持った鏡である。


※この見方は、今後の新たな鏡の発見などにより変化していく可能性があることを申し添えておきます。


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