三角縁神獣鏡について

2009.03.04

 「三角縁神獣鏡は魏鏡である」という説は、富岡謙蔵氏にはじまり、梅原末治氏そして小林行雄氏へと引き継がれ、同笵鏡、伝世鏡などから、ヤマトの広域にわたる支配や三角縁神獣鏡と古墳発生との関係を説いた小林理論によって完成をみた。そしてその後も、多くの関西地域の考古学者によって支持され続けてきた。
  1980年前後には、古田武彦氏や王仲殊氏によって「三角縁神獣鏡国産鏡説」が提出されたが、特に王仲殊氏による「国産鏡説」は大きな反響を呼んだ。しかし王仲殊氏は邪馬台国畿内説をとったため、「魏鏡説」にとって、そんなに大きなダメージにはならず、二説の論争に決着はつかなかった。
 
  しかし最近(といってもここ10数年)は、「魏鏡説」をとる人たちの間にも、伝世鏡論や卑弥呼の鏡配布説について疑問視、あるいは否定する研究者が現われてきた。その理由はいくつか考えられるが、年輪年代測定法などによって古墳時代が3世紀前半に遡る可能性が出てきたこと、三角縁神獣鏡は中国からまだ一面も出土していないこと、日本からはすでに卑弥呼が下賜されたとされる銅鏡100枚をはるかに超える三角縁神獣鏡が出土していること、などが挙げられる。
  「魏鏡説」の人たちも、現在のような状況に至り、さすがに伝世鏡論や配布説を主張し続けるのは難しいと思い始めたのではないか。
  ただこれらの人たちに共通していることが一つある。それは必ず「特鋳説」を持ち出しているということである。今や「魏鏡説」が生き残るには、考古学的根拠の薄い「特鋳説」に頼るしかないということのようである。「魏鏡説」の苦しさを自ら暴露しているようにみえる。
  「魏鏡説」の危うさは西川寿勝氏の「楽浪郡製作鏡説」にも現われている。これは、魏の領域には三角縁神獣鏡そのもの、あるいはそれに似た鏡を見出すことができない、ということを証明したともいえる。

  今、魏鏡説は多様化している。中国から三角縁神獣鏡が出土しないということが、そうさせているようであるが、それならばなぜ考古学の基本に戻ろうとしないのか。その後の「魏鏡説」は、中国からは出土しない理由の「言い訳説」のように思えてならない。

 ところで、三角縁神獣鏡と邪馬台国(本当は邪馬臺国あるいは邪馬壹国)の関係は、王仲殊氏の国産鏡説と邪馬台国畿内説以来、国産説は九州説、魏鏡説は畿内説というようには分けられなくなった。現在

邪馬台国畿内説+三角縁神獣鏡魏鏡説(現在は岡村秀典氏など)
邪馬台国畿内説+三角縁神獣鏡国産説(王仲殊氏)
邪馬台国畿内説+三角縁神獣鏡魏鏡(一部卑弥呼の鏡)説(樋口隆康氏)
邪馬台国畿内説+三角縁神獣鏡中国鏡(卑弥呼の鏡懐疑)説(石野博信氏)
邪馬台国畿内説+卑弥呼の鏡宝飾鏡説+三角縁神獣鏡楽浪郡製作説(西川寿勝氏)
邪馬台国九州説+三角縁神獣鏡国産説(古田武彦氏など)
邪馬台国東遷説+三角縁神獣鏡国産説(奥野正男氏など)

などの説がある。

  このように各説入り混じる中、これらの説が何を根拠に主張しているのか、それを明確にしておくことは非常に大切なことである。
  そこで今回、説を中心として、その要点を表にまとめておくことにした。そこには、部分的になるが、私の見方も付しておいた。これがさらに次のステップへの踏み台になればと思っている。

 出典は内容欄の頭に記載した。出典の記載のないものは、藤田友治著『三角縁神獣鏡』(ミネルヴァ書房1999.09.10)によった。なお表中では、敬称は略させていただいた。

提唱者 内  容 考察・私見・その他
富岡謙蔵 魏鏡説  魏鏡説は、富岡謙蔵の没後、梅原末治が富岡メモと談話をまとめたものから生まれたが、それは次ののようにまとめられる。
 
大阪府柏原市の国分神社蔵の国分茶臼山古墳出土の四神四獣鏡は、その銘の「除州」から220年~422年につくられたものである。
 
「師出洛陽」の「師」の使用から(晋朝の祖の諱が司馬師であるため「師」は使用されなかった)、この鏡は220年~265年、あるいは420年~422年につくられたもの、ということになる。
 
「東王父・西王母」は東晋から南朝劉宋あたりに流行したから、南朝劉宋の初期につくられたものである。
 
「中平□年鏡」(中平は184年~189年)にすでに「東王父・西王母」という言葉が使用されていた。国分茶臼山古墳出土の四神四獣鏡は魏の時代の鏡である(南朝劉宋初期説を訂正)。

〈特鋳説のはじまり〉
 同古墳出土の四神二獣鏡にある「用青銅至海東」は「本邦朝鮮へ寄贈すべき為に、特に此の銘を表せるもの」と解釈し、特鋳の可能性を示唆する。
梅原末治 魏鏡説  富岡謙蔵の研究を継承
 「師出洛陽」のように「洛陽」と表記されるのは魏の時代以降であるとし、『魏志』文帝紀の記事や五行説などを背景に、「洛陽」は魏の鋳造だとする。
〈伝世鏡論〉
 「日本国内で
百年伝世した後古墳に副葬された」とする伝世鏡論をはじめて提唱する。香川県石清尾山古墳群出土の方格規矩四神鏡の鏡片と鏡背面の文様の磨滅・手ずれから、漢鏡には伝世しているのがある、と指摘。

小林行雄 魏鏡説 〈同笵鏡論を展開〉
 同じ鋳型からつくられたと思われる三角縁神獣鏡から「同時に日本にもたらされたものが、各々分かれて古墳に副葬された」と考えた梅原論を具体化。椿井大塚山古墳から大量に出土した三角縁神獣鏡の同笵鏡の分有関係をヤマトの全国支配によるものとする。

 邪馬台国大和説の理論的支柱となる。
〈梅原末治の伝世鏡論を継承〉
 伝世鏡が古墳に埋葬されたのは、「新しい天皇という権力者の支配」の出現によって神宝が不要となったからだとし、ヤマトという新しい権力の出現と結びつけた。

 漢鏡には伝世しているのがある、という梅原末治の見方が三角縁神獣鏡に応用されたということ。
〈富岡謙蔵、梅原末治の三角縁神獣鏡魏鏡説を継承〉
 
三角縁神獣鏡の銘文に「銅出徐州 師出洛陽」とある。徐州と洛陽が同時に使用されたのは魏と晋の時代であるが、晋代はその祖の諱が司馬師であったため「師」の字を避けたから、「師出洛陽」は晋代のものではなく魏代のものである。
 
銘文には鏡の製作者の名があるものがあるが日本人の名ではない。中国製の鏡と考えられる。
 
銘文は七行詩の形式をとっている。これは中国の神仙思想によるもので中国製である証拠である。

〈特鋳説の展開〉
 三角縁神獣鏡が大型で規格性があること、普通の神獣鏡にはない乳を加えていること、同笵鏡が多数存在することは、短期間のうちに大量の鏡を模索する特別の事情があったからである、とする。

岡村秀典 魏鏡説 『古墳』(吉川弘文館 1989.03)「三角縁神獣鏡と伝世鏡」より

 三角縁神獣鏡は中国や朝鮮からはまだ一面も発見されていないにもかかわらずこれを中国の魏鏡と認定する根拠の一つはその銘文にあり、富岡謙蔵の「銅出徐州 師出洛陽」の考証、景初三年鏡、正始元年鏡の発見により、魏鏡であることが確実視されるようになった。魏の神獣鏡と三角縁神獣鏡は次の理由から親縁関係にある。
 
銘文の年号から魏晋代に製作されたことがわかる神獣鏡がある(景初三年画文帯神獣鏡、正始五年環状乳神獣鏡、泰始六年、七年、九年、十年の神獣鏡)。これらは華北の神獣鏡とみられ、図像文様も呉の神獣鏡とは大きく異なっている。
 
神獣鏡の一種に同向式神獣鏡がある。これには平縁、三角縁を問わず径17センチを超える大型品が多く、大きさの点から三角縁神獣鏡と強い親縁関係にある。中国出土例は2件のみであるが呉ではなく魏の領域からである。
 
佐味田宝塚古墳出土の三角縁画像鏡に図像文様・銘文が類似し、新山古墳出土の三角縁神獣鏡と同様の銘文をもつ三角縁神人車馬画像鏡が洛陽で発見されていることに岡崎敬は注目している。この鏡を含めて河南省で四面の画像鏡が出土している。
 
 「富岡謙蔵-梅原末治-小林行雄」と続く「卑弥呼の鏡=魏鏡」説である。











 銘文は宝塚古墳・新山古墳出土のものとは異なるが、三角縁神人車馬画像鏡は呉の領域である浙江省紹興市からも発見されている。洛陽出土の三角縁神人車馬画像鏡は、私はまだ確認できていない。
〈特鋳説について〉
 三角縁神獣鏡が中国の魏の領域から一面も発見されていないことから考えだされたものであるが、鏡を異状に愛好した卑弥呼のために三角縁神獣鏡が特別に鋳造されたとしても、中国王朝に対外政策においてまったくありえない話しではない。

 卑弥呼は異状に鏡を愛好したなどとはどこにも書かれていない。「汝の好物」として絹・金・刀・真珠などとともに銅鏡100枚が下賜されたに過ぎない。鏡だけが特鋳されたというのは根拠のまったくない説としか言いようがない。
〈景初四年鏡(京都府福知山市広峯古墳15号墳)について〉
 盤龍鏡の一種で三角縁盤龍鏡と強い類似を示す。景初三年鏡、正始元年鏡の三角縁神獣鏡の銘文と共通した語句があり、字形も類似しており、同じ陳氏の工房で製作されたことは疑いない。三角縁神獣鏡の一種である。
 漢代の官文書である木簡の中に存在しない年号が記録されているものがあり、また後漢時代に存在しない月の紀年をもつ神獣鏡や獣首鏡も存在している。

 景初四年鏡の発見は三角縁神獣鏡魏鏡説の否定には結びつかないというが、この鏡が景初三年鏡、正始元年鏡と類似しているということは、これらが国産であれば、景初四年鏡も当然国産である、という逆説も成り立つ。
伝世鏡について
洛陽晋墓から前漢代の鏡二面が出土。しかし後漢末期の鏡がほとんど。日本の前期古墳の出土鏡は後漢前期の鏡。したがって古墳から出土する1世紀頃の中国鏡は日本列島において伝世したものにほかならない。

 日本で後漢前期の鏡が伝世したとしても、三角縁神獣鏡も伝世したとは限らない。
樋口隆康 一部魏鏡説 『三角縁神獣鏡新鑑』(学生社 2000.03)より
 三角縁神獣鏡を魏鏡であるというのは、この種の鏡にある紀年銘がすべて魏の年号だから。魏の年号をもった鏡は数面日本から出土しているが、確かな魏の墓から出土した鏡はまだ一面もない。将来魏の墓が発見され、三角縁神獣鏡が見つかるまで特鋳説で説明するしかない。

 理論が逆立ちしている。三角縁神獣鏡が魏の領域から発見されていないという事実からスタートするのが考古学なのではないだろうか。
 製作地が呉国内にあっても、魏の紀年がある以上魏鏡といわざるをえない。
 魏の年号入り鏡の同型鏡を日本でつくっても魏鏡ということになってしまう。
 三国時代の紀年銘銅器を調べてみると、魏の中尚方鋳造の熨斗、帳構、香炉、弩機など十数点が知られており、青銅の鋳造は魏でも十分なされていたとみることができる。

 なんと言おうとも、三角縁神獣鏡は中国からは一面も出土していない、という事実は変わらない。三角縁神獣鏡が魏鏡であるという考古学的事実は一切ない。
 会稽とそれと関連する作鏡師の名が出てくる鏡には、後漢と魏と呉の紀年鏡がある。会稽は呉の領域内であるのに魏鏡を作っている。
 魏の紀年鏡でも呉の国内で作られれば呉鏡であると王仲殊は主張するが、作品の銘や図文や技術に注文主の意向が反映していれば、それは注文主の作である。魏の紀年鏡は呉の地で作られれても魏鏡である。
三角縁神獣鏡の銘には会稽に関係した製作地も鏡作師の名もでてこない。会稽では魏の鏡を作ったが、三角縁神獣鏡は作らなかったということである。
 「銅出徐州 師出洛陽」の句に出てくる作鏡者は「王氏作竟」「新作大竟」「吾作明竟」の三種であり、会稽や呉県や武昌の鏡師とは明らかに違う。

 日本でしか出土しないものを魏鏡というためには、魏が日本(倭かヤマト)に命令して日本国内で作らせた、ということ以外にない。このことが証明できないのであれば、三角縁神獣鏡は魏鏡とはいえない。
 会稽の工人が会稽では三角縁神獣鏡を作らなかったとしても、魏鏡を作っていたのであれば、彼らがその技術を持って日本に渡来し、三角縁神獣鏡を製作したとしても不思議ではない。
 中国から出土せず、会稽でも三角縁神獣鏡は作られなかったという結論は、逆に、三角縁神獣鏡が日本で作られたものであることを示すことにならないだろうか。
〈同型鏡説〉
 これまで同笵鏡といっていたのは、踏み返してつくられる同型鏡である。
〈特鋳説〉
 三角縁神獣鏡では同型鏡がとくに多い。三角縁ではないが、画文帯同向式神獣鏡で日本出土の25面が同型鏡であり、しかもそれは景初三年画文帯神獣鏡(大阪府和泉市黄金塚出土)と同じタイプの文様をもつ。倭人の間でこの鏡がとくに好まれたが、その要求に応じるためこの種の鏡が特鋳された。

 倭人が好んだのであり、日本にしかないのだから、景初三年鏡も国産だと考えれば、特鋳説などという根拠のない説を唱えなくても済む。
〈小林行雄「卑弥呼の鏡」配布説の否定〉
(椿井大塚山古墳から大量の三角縁神獣鏡が出土したことに対する小林説について)
 征服者が服属者の宝物を取り上げるというのが征服者の一般の心理で、わざわざ入手した舶載の神器を服属者へ配布するという意図がわからない。

 卑弥呼の鏡は配布されなかった、という見方になる。
 同型鏡が日本全国に広がっているのは、それを欲しがる人が全国に大勢いたからで、一種の流行。それは前方後円墳の全国拡散と似たところがある。前方後円墳は大和政権の王が創作したものであり、大和政権の全国支配とともに広がった。卑弥呼が中国から将来して以来、大和政権の王もこれを受け継ぎ、その趣向が全国の首長達にも影響し、各人が競って三角縁神獣鏡を求めた。

 古墳も同型鏡と同様に流行だったのならば、全国の古墳はヤマトの支配とは関係なく、ヤマトから地方への単なる文化的流行だったのではないか。ただヤマトには大きな力があったことは確かである。
 三角縁神獣鏡には卑弥呼以後に作られたものが多い。卑弥呼の時代に該当する三角縁神獣鏡は、図文が同向式神獣鏡や画像鏡、環状乳神獣鏡と同じ類に限られる。三角縁神獣鏡すべてが卑弥呼の銅鏡100枚に当たるというのは早計。その一部にすぎない。

 同笵鏡論、配布説を否定しているが魏鏡説。邪馬台国は畿内大和であり、三角縁神獣鏡の一部は卑弥呼の鏡であるという説になる。
 卑弥呼の鏡の候補となるのは世紀前半以前の古墳から出土した、黄金塚出土の景初三年銘画文帯同向式神獣鏡、青龍三年平縁盤龍鏡などの舶載鏡である。
 卑弥呼の鏡配布説を否定しているから、卑弥呼の鏡が出土したところが卑弥呼の墓ということになる。したがって、卑弥呼の鏡を景初三年銘画文帯同向式神獣鏡、青龍三年平縁盤龍鏡の類とすると、卑弥呼の墓は大阪、京都、島根などに複数存在することになり、しかも肝心の大和には一つもなかったことになる。これらを卑弥呼の鏡と認めながら配布説を否定すると、このような矛盾が起きてくる。
 また黄金塚古墳は「
世紀末から世紀初頭ごろの築造」(『古墳辞典』東京堂出版)であり、青龍三年平縁盤龍鏡が出土した二つの墓、安満宮山古墳は3世紀中~後半の築造とみられるが方形墳であり、大田南5号墳は4世紀中~後半の築造でしかも方墳である。三者とも、時代、そして墓の形状からも卑弥呼の墓にはなりえない。
 これらの鏡は卑弥呼の鏡ではない、ということになる。

森 浩一 ほぼ国産鏡説  小林行雄がいう後漢鏡における伝世鏡は二例にすぎない。それは伝世鏡だから特別視されたのではなく、美しい中国鏡だから被葬者が愛用していたと考えるのが妥当(1962年)。

 三角縁神獣鏡は帰化人工人による製作であり、その大部分は仿製鏡である(1962年)。
 華北の漢鏡は平縁であるが、江南の紹興市とその周辺では、大型で縁が三角形の鏡がつくられるようになった(1985年)。

古田武彦 国産鏡説 『ここに古代王朝ありき』(朝日新聞社 1979.06)より
〈魏鏡説への疑い〉
 三角縁神獣鏡は中国・朝鮮半島から出土しない。魏から出土しないものを卑弥呼に下賜できるはずはない。
弥生時代の遺跡からはまったく出土せず、全部
世紀の古墳からの出土である。

〈国産説の展開〉
 大阪府柏原市(茶臼山古墳出土)の国分神社蔵鏡(三面の内一面)の銘文「吾作明竟真大好 浮由天下□四海 用青同至海東」は、中国の鋳鏡者が中国の銅をもって日本列島に渡来し、この三角縁神獣鏡を作った、と解釈できる。

 中国の公的な工場「尚方」のある洛陽で作られた鏡は当然洛陽の師が作ったものであり、その鏡に「師出洛陽」とあることは逆におかしい。鋳鏡の本場、洛陽の出身であることを誇るために刻されたのではないか(洛陽で作られたものではないということ)。
 「銅出徐州」も同じで、徐州が中国本土でも屈指の銅の産地であることは有名。これは常識だから書かれないのが普通。
「銅出徐州 師出洛陽」の対句は、中国銅器文明圏を遠く離れた、その圏外で作られたものと考えるべき。

 呉の年号鏡はほとんどが「神獣鏡」であり、「三角縁」という方式も江南の「三角縁画像鏡」に淵源をもつ可能性がある。

奥野正男 国産鏡説  三角縁神獣鏡にある「傘松形図形」に注目し、それは中国出土鏡にはない独特のものであることから中国鏡説を否定する(1981~1982年)。

王仲殊 国産鏡説  三角縁神獣鏡は呉の工匠が日本に渡って製作したものである(1981年)。
 
中国からは一面も出土していない。日本で製作された鏡である。
 
笠松形は日本独特のものである。
 
銘文など図文には中国鏡と共通するものが多い。中国の工匠が渡来してつくった。
 
「至海東」中国の工匠が日本に渡来したことを意味する。
 
中国の神獣鏡はすべて平縁であるが、画像鏡の縁は三角形をしている。三角縁神獣鏡はこれらの結合・合成品である。
 
呉には仏像鏡があるが魏にはない。日本には神獣鏡がある。呉の工匠によって日本でつくられたものである。
 
「本是京師絶地亡出」は中国鏡にはない。京城の工匠が亡命して日本でつくったことを意味する。

 三角縁神獣鏡は魏鏡ではないとするが、邪馬台国畿内説を主張。
 三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡ではないが、邪馬台国は大和にあったとする。しかしこの説は三角縁神獣鏡は魏鏡ではないことを証明するものであり、魏鏡説から邪馬台国大和説を主張する説とは一線を画すものである。

菅谷文則 国産鏡説 『古墳はなぜつくられたか』(大和書房 1988.01)「畿内における古墳の発展と出土鏡」より
 三角縁神獣鏡は渡来系工人が日本に来て鋳造したものである。

(三角縁神獣鏡は魏から下賜された卑弥呼の鏡で、服属のしるしとして各地の豪族に配布され、その後古墳に副葬されたとする説について)
 すでに
100年以上も前に滅亡した中国王朝の権威が通用するはずはなく、出土した古墳のグレードも一定していない。鏡が墓の中に置かれている状況も重要な場所ではないことが多い。中国本土から一枚も出土していない。特鋳説も、存在しない年号である景初四年鏡の出土により完全に否定された。
 三角縁神獣鏡は魏の鏡ではなく、渡来系工人が日本に来て鋳造したと、
10年ほど前から言っている。

〈景初四年鏡について〉
 中国皇帝の専権の中には、改元、度量衡の制定、暦の配布などがあり、臣下はこれをみだりに変えることはできない。公式に存在しない景初四年という年号が鏡に刻まれているということは、この鏡が魏の都の洛陽の地では絶対に製造されなかったことを証明している。
 この景初四年鏡とこれまでの魏の年号をもつ鏡の銘文は全く同じ系譜に属している。景初三年鏡、正始元年鏡も同一工房もしくは兄弟工房、または従兄弟工房で作られたといわざるをえない。景初四年鏡が魏の鏡ではないのだから、そのほかの鏡も魏で作られた鏡ではない。

 除州・洛陽は吉祥地名である。
 鈕の穴には鋳バリがあり不整形。短期の用途を想定してつくられたもの。祭祀と墓葬用の明器である。
石野博信 卑弥呼の鏡懐疑説 『三角縁神獣鏡・邪馬台国・倭国』(新泉社 2006.11)「三角縁神獣鏡の副葬位置と年代」より
(中国鏡説)  黒塚古墳から33面の三角縁神獣鏡が出土したが、すべて棺外に置かれていた。女王卑弥呼が中国・魏の皇帝からもらった大切な鏡だとすれば、それはおかしなことであり、またなぜ公の物を個人の墓に入れるということが起きたのかも疑問。

 三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡だったとすると、臣下がそれを大量に自分の墓に副葬することはありえない。三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡ではなかったと考えるしかなく、同感である。
 黒塚古墳では、棺の中で頭に置かれていたのは三角縁神獣鏡より小さな画文帯神獣鏡だった。
 滋賀県東近江市の雪野山古墳から鏡が
面(内行花文鏡の仿製鏡、鼉龍鏡の仿製鏡、三角縁神獣鏡面)発見されたが、三角縁神獣鏡は仕切り板の外と足元に置かれていた。

 この画文帯神獣鏡の径は13.5cmである。
 三角縁神獣鏡は、島根県神原神社古墳出土の景初三年鏡のように頭付近に置かれ大事に扱われたものもあるが、そうではないものが圧倒的に多い。
 神原神社古墳は一辺が約30mの方墳で、しかも出土した鏡はこの一面だけである。したがって、この鏡が大事に扱われていたのは当然であり、三角縁神獣鏡そのものが他の鏡より大事にされていかどうかはわからない。
 鏡は、連弧紋鏡や方格規矩鏡などの中国後漢代後半ころにつくられた古いタイプと、四獣鏡・獣帯鏡・画文帯神獣鏡・三角縁神獣鏡など、神像と怪獣を描いた新しいタイプの二大別することができる。
 三角縁神獣鏡が発見されている古い段階の古墳は、福岡県那珂八幡古墳、香川県奥三号墳、滋賀県雪野山古墳の三箇所ある。
 那珂八幡古墳には埋葬施設が二つあり、三角縁神獣鏡が発見されたのは後でつくられた施設であり、
290年くらいと考えられる。奧三号墳は三世紀後半、雪野山古墳は壺形土器の特徴から270から280年代である。

 卑弥呼の時代である250年頃につくられた古墳に副葬された三角縁神獣鏡は一面もない。三角縁神獣鏡が古墳に副葬される時期はまれに270年ごろで、広まるのは290年以降である。

 一辺20mほどの奈良県御所市鴨都波古墳から四面の三角縁神獣鏡が出土。一辺1213mの福岡市藤崎6号方形周溝墓から三角縁神獣鏡が一面出土。大和の王から服属の証として三角縁神獣鏡を配布したというのは疑問である。大和の大王とは関係なく直接中国から手に入れたと考えなければならない。三角縁神獣鏡は単なるおまじないだったのではないか(配布説否定)。

 三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏からもらった鏡ではなく、地域の王が各々直接中国から手に入れたのではないかとする。結局は中国製の鏡(伝世したと考えれば魏鏡の可能性)という主張になる。
 ここまでの考察がありながら、中国鏡とする結論は残念としか言いようがない。
西川寿勝 楽浪製作鏡説 『三角縁神獣鏡・邪馬台国・倭国』(新泉社 2006.11)「ここまで進んだ三角縁神獣鏡研究」、『三角縁神獣鏡と卑弥呼の鏡』(学生社 2000.06.30)より

 三角縁神獣鏡中国鏡説の問題点は、いまだ一面も中国から発見されていないことであり、国産鏡説の問題点は、仿製鏡と区別できる精緻な銘文や紋様をもつことである。

 国産は銘文も稚拙で鏡の出来も悪いという先入観は、真実を遠ざけてしまう。
 舶載鏡の紋様や特徴について、中国の出土鏡とその傾向を比較調査したところ、中国のどの地域の鏡とも合致せず、唯一合致したのが楽浪郡出土鏡だった。
 日本の弥生時代終末の遺跡や古墳から発見される、舶載鏡と呼ばれている鏡の大半は中国鏡ではなく、辺境の楽浪郡地域などでつくられたものである。
 三角縁神獣鏡は中国に求められないことを認めたといえる。
 岡村秀典は、佐味田宝塚古墳出土の三角縁画像鏡に図像文様・銘文が類似し、新山古墳出土の三角縁神獣鏡と同様の銘文をもつ三角縁神人車馬画像鏡が洛陽で発見されていることを、魏鏡説の根拠の一つとしているが、西川説はこれを否定することになる。同じ資料をみながら(考古学者であればみているはず)、この結論の相違はどうなのか、詳しく知りたいところである。
 このあたりのことを考古学者として、学問として、フェアに資料提供してもらいたい、と私は強く願う。

 舶載鏡の発見数は九州地域に偏る。近畿の弥生遺跡は中期が最盛期で後期にはほとんど廃絶してしまい、古墳時代まで続いていない。墳墓の副葬品も貧弱で数も少ない。邪馬台国が弥生時代にあったとすると九州説が有利であり、古墳時代にあったとすると近畿が圧倒的に有利になる。
 こういった考え方をする研究者は多いが、これは栄えた国が唯一つしかなかったという先入観によるものである。同じ考え方によるならば、弥生時代に九州にあった卑弥呼・邪馬臺国の前身である国が、卑弥呼の時代(古墳時代)に畿内大和に遷ってきた、とすることもできる。在り方は一つではないのである。
 卑弥呼の後続国は九州にあり、大きな古墳は造らなかったかもしれない。古墳時代は卑弥呼の後続国も大きな古墳を造ったというのは一種の偏見である。中国がその歴史に記録したのは、大きな古墳があるかどうかではなく、国際的に交渉があったかどうかなのではないか。
 考古学者には、中国史書に矛盾のない解釈をお願いしたい。

 考古学者の大半は畿内説に傾倒しており、卑弥呼の墓は古墳であると認め、それが箸墓古墳であるかどうかという段階にきている。
 「卑弥呼の時代=古墳時代」説を私は否定するつもりはない。もしそうであったとしても、邪馬臺国は畿内大和ではなく、卑弥呼の墓は箸墓でないことに変わりはない。
 卑弥呼の墓は『魏志』倭人伝に「径百餘歩」とあり、円墳であることがわかる。なぜ卑弥呼の墓が前方後円墳である箸墓古墳だとされるのか。このようにいう前に、考古学者は箸墓古墳が当初は円墳であったことを証明しなければならないはずである。

 纒向石塚古墳の周濠から発見された木製品を年輪年代測定法で分析した結果、177年、伐採年代は195年と判明。勝山古墳や福岡県雀居遺跡や大阪府下田遺跡なども、年代が年輪年代測定法で次々と明らかにされた。邪馬台国の卑弥呼の時代に古墳時代がはじまって、前方後円墳が発生したと考えることに焦点が定まってきた。
 小林説によれば、卑弥呼から下賜された三角縁神獣鏡は、古墳を通した新しい権力支配が確立したことにより、その存在価値がなくなり、古墳に埋められたことになる。卑弥呼の時代がすでに古墳時代になっていたのであれば、この理論は成り立たない。「卑弥呼の時代=古墳時代」説は小林説の破綻を意味する。

 邪馬台国畿内説は優位となるばかりか、出現期古墳や前期の大型前方後円墳が集中する奈良平野東南部の地域で確定的になってきた。
 卑弥呼の墓は円墳だったとしか読めない『魏志』倭人伝の記事を無視して、それは前方後円墳である箸墓古墳だと決めつけ、邪馬台国は出現期古墳や前期の大型前方後円墳が集中する奈良平野東南部の地域で確定的、というのは考古学の枠を大きく逸脱したものである。

 三角縁神獣鏡の神像の数や位置は決まった配置になく、西王母・東王父の区別もない。怪獣の配置や数、龍・虎の区別も明瞭ではなく、中国鏡にはありえないでたらめな図像となっている。意味をよく理解していない工人がつくったものと考えられる。
 卑弥呼が下賜された銅鏡
100枚の内訳は、宮廷工房でつくられた金銀象嵌や鍍金・貼金の施された、卑弥呼自身のための特別な鏡、宝飾鏡と、臣下への配布用として楽浪郡でつくられた三角縁神獣鏡だった(矢治内容要約)。
 
 意味をよく理解していない工人は、楽浪郡の工人に限らないのではないか。
 

 三角縁神獣鏡は、その質も、鏡としての位もそれほど高いものではない、ということになる。

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