文献からみた邪馬台国畿内説・東遷説

2009.01.18

  これまで私は複数文献の整合性を重視し日本の古代の歴史をみてきた。それは一つの成果として現われている。しかし他方では、文献の整合性が軽視あるいは無視され、文献の一部あるいは考古資料からの推定による推定などによって、いまだ旧態然とした主張が繰り返されていることも事実であるように思う。
  文献が存在せず、考古資料だけだとしたら、歴史は構築できない。三角縁神獣鏡が出土しても文献がなければ、誰もそれを卑弥呼の鏡などとは言えないはずである。文献から卑弥呼の鏡だといいながら、文献に書かれたそのほかの自説に不利な部分を無視し、考古資料だけで主張する人がいるとしたら、それは学問ではないと私は思う。しかし残念ながら、現在の古代史界をみると、どうもそういった状況はかなりあるように私の眼には映っている。
  畿内説、東遷説は文献よりも考古資料に重きを置いた説であるようにみえる。というよりも考古資料の豊富さが畿内説、東遷説に駆り立てているといってもよさそうである。しかしだからといって文献を軽視したり無視していいという理屈にはならない。文献があってこその考古資料ではないか。
  このようなことから、考古資料を検討する前に、考古資料を一切排除した中で、文献のみからみると畿内説、東遷説はどうなるのか。次のステップへの前段としての意味も込めて、文献のみから畿内説、東遷説を概観してみることにした(文献からこれらの説は成立するかどうかだけに絞った)。

  畿内説

  畿内説の主張の根拠は文献よりも、三角縁神獣鏡、前方後円墳にあると思われる。三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏から下賜された魏鏡だといい、卑弥呼の時代はすでに古墳時代に入っており、前方後円墳である箸墓古墳は卑弥呼の墓であるという。三角縁神獣鏡や前方後円墳は畿内説にとってかなり大きなウェイトを占めている。それでは文献上はどうなのか。ここではその根拠についてみてみたい。
  もうすでに言い尽くされているが、その中心根拠は『魏志』倭人伝(正しくは『三国志』「魏書」烏丸鮮卑東夷伝倭人条)の邪馬壹国に至る行程記事の

南至投馬國 水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月

にある。
  投馬国の前は不弥国であり、博多湾沿岸の国とされ、ここまでは畿内説も九州説も大きく変わることはない。問題はここから投馬国に至る距離とその方角である。畿内説の中でも一般的なのは、「南至投馬國」の「南」は「東」の間違いだとするものである。こうすれば邪馬台国は畿内大和にあったとすることができる。しかしこれは古田武彦氏が『「邪馬台国」はなかった』で指摘したように原文改定であり、私には邪馬台国は畿内大和にあったとするための単なる方策にしかみえない。またこの説の根本には、中国の歴史書あるいは中国人に対する研究者の身勝手な見方も存在している。研究の態度がフェアではないようにみえる。
  文献解読の論理の行き着く先は、『魏志』倭人伝からは畿内大和にはたどり着かない、というただ一つの結論である。畿内説は『魏志』倭人伝の行程記事の「南」を「東」に読み換えなければ成立しない説なのである。だから畿内説には三角縁神獣鏡と前方後円墳という考古資料を武器とする人たちが多いのだともいえる。しかし学問がこれでよいのだろうか、私にはいつもこのことが引っかかっている。

  大和岩雄氏の「南」の解釈

  古田氏による原文改定の指摘もあってか、その後、「南」を「東」に読み換えなくても『魏志』倭人伝の行程によっても邪馬台国は畿内大和に行きつく、という説が出てきた。大和岩雄氏は、女王国は卑弥呼の国で邪馬台国は台与(大和氏にしたがい、「壹」「臺」は「台」とした)の国であり、台与のとき畿内大和に東遷したとする。これは東遷説であるが、「南」と「東」に関連して、大和説についてここで少し述べておきたい。
  大和氏は1402年のものといわれている「混一疆理歴代国都之図」(龍谷大学蔵、以下龍谷図)を持ち出し、この時代に至っても、日本列島は九州を北にして南北に長い列島として中国は認識し、『魏志』倭人伝にもそのように記述したのだという(『東アジアの古代文化』95号)。つまりこの龍谷図によって、畿内大和にあった邪馬台国は九州の南にあったとするのは正しく、『魏志』倭人伝の行程にある、不弥国から投馬国、そして投馬国から邪馬台国への「南」を「東」と読みかえるという原文改定をしなくても、邪馬台国は畿内大和にあったとすることができるというのである。畿内説の人の中には大和氏と同様に考える人も増えているようであり、この説は畿内説者にとってまさに「渡りに船」となった。
  しかし実は、話はこれで終りにならなかった。島原市本光寺に「混一疆理歴代国都地図」というもう一つの「混一疆理図」が存在していたのである。応地利明氏の『絵地図の世界像』には、弘中芳男氏によって「混一疆理歴代国都地図」(島原市本光寺蔵、以下本光寺本)が紹介されたことが記されている。本光寺図も龍谷図同様、李氏朝鮮の廷臣だった権近の1402年の題跋をもつという。応地氏は当時の資料を調査した結果、朝鮮から見た日本列島についての地理認識は正しかったとみている。つまり日本列島を龍谷図のように理解していたわけではないことが本光寺図の存在でわかったのである。
  3世紀において龍谷図のような地理認識がなかったことは、実は『魏志』倭人伝そのものからもわかる。『魏志』倭人伝では対馬から壱岐(一大国)へ行くのに「南」とあるが、龍谷図によれば、壱岐は対馬の「西南」の方角にあり、『魏志』倭人伝の方位を勘案すれば「西」といってもよい方角にある。龍谷図の方位と『魏志』倭人伝の方位とは一致していない。これはこの時代に龍谷図のような地理認識はなかったことを意味する。
  また魏使が実際に邪馬壹国まで行ったのなら、そしてそこが畿内大和であったのなら、不弥国からは南ではなく東へと進行方向が変わったことくらいはわかるはずである。龍谷図の上を進んでいるわけではないのだから。龍谷図を根拠に不弥国から「南」へ行っても畿内大和に行き着くという論理は、そもそも魏使は地図上でしか邪馬壹国に行かなかったという条件付でなければならない。しかし『魏志』倭人伝には、正始元年〔240〕、太守弓遵・建中校尉梯儁らが倭国に遣わされ倭王に拝仮したとあり、倭王はその都・邪馬壹国にいたのだから、魏使は邪馬壹国に実際に行ったとみなければならない。そうであれば、不弥国から南の方角が畿内大和を指すことはありえないのである。
  文献においては、『魏志』倭人伝からも、また大和氏のように龍谷図を持ち出しても、邪馬台国畿内説は成立し得ないのである。

  東遷説

  東遷説は、文献上は九州説、考古学上は畿内説が有利という、その両方を生かした説ということができる。確かに一番合理的な説のようにはみえる。しかし東遷説にはその根拠となる東遷の記録のないことが大きな欠点となっている。大和岩雄説は『魏志』倭人伝の行程の中に東遷後の邪馬台国をみていることになり、東遷の記録のないことをカバーしているようにみえる。しかし前述したように『魏志』倭人伝の行程は畿内大和にはたどり着かず、この説も成立しないのである。
  『記紀』の記録から、神武天皇、崇神天皇あるいは応神天皇のときに東遷したと主張しても、それは邪馬台国の東遷ではない。邪馬臺国を記録している中国史書にその記録がなければならない。その中国史書である『隋書』には

自魏至于齊梁代與中國相通

とあり、俀国(倭国)は魏の時代から齊、梁、そして今の隋の時代まで、つまり卑弥呼の時代から多利思北孤の時代に至るまでずっと中国と通交していたことが書かれており、また

其國境東西五月行南北三月行 各至於海 其地勢東高西下 都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也

と、俀国の都・邪靡堆は『魏志』の邪馬臺国のことであることも書かれている。つまり、邪馬臺は魏の時代から隋の時代まで倭国の都として存続し、中国と通交していたということになる。「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」は倭国の都がずっと同じ場所にあったことを示すものである。さらに

其國境東西五月行南北三月行 各至於海

は、俀国(倭国)が長辺5短辺3の比率をもった島であることを意味し、大業3年記事の前にある「有阿蘇山」によってその島が九州であることを確実にしている。これは魏から隋に至るまで、倭国は九州にあったことを示し、その都・邪靡堆も邪馬臺と呼ばれた魏の時代からずっと九州内にあったことを示すものである。
  中国史書からではなく、『記紀』によって神武天皇の東遷を邪馬台国の東遷にあてようとしても、神武天皇が邪馬台国の王であることの証明ができなければ、それも不可能である。つまり、文献には邪馬台国東遷を証明するものはない、これが結論である。
  東遷説は畿内説同様、考古資料を重視するあまり、文献資料の軽視につながってしまったといわざるをえない。ただ東遷説が邪馬台国の東遷ではなく、倭種の東遷だったとすれば、それは成立する。倭種の歴史は『記紀』にあるからである。東遷説がなぜ邪馬台国にこだわるのか私には不思議であり、また残念でもある(私の九州説は邪馬台国の東遷ではなく倭種の東遷である)。

  文献にはない畿内大和の邪馬台国と邪馬台国の東遷

  このように文献によれば邪馬台国畿内説、東遷説は成立しない、というのが正しい論理の行き着く先であると私は思う。もっとはっきり言えば、文献を無視しない限りこれらの説は成立しないということである。
  畿内説者、東遷説者が畿内説、東遷説にこだわる理由は、三角縁神獣鏡や前方後円墳にあると思うのは私だけではないはずだ。しかしこのほかに、邪馬台国と大和国という二つの類似した国名の存在というのも大きく作用しているように思う。これは古くからあり、どちらかといえば畿内説の出発はここにあったといってもよいかもしれない。だからこれが根強く残っているのは仕方ないという見方もできる。しかし「仕方ない」ではすまないのが学問である。
  彼らは邪馬台を「やまと」と読んでいるが、その前に邪馬台国という国は存在しないということに気がついていない(気がついていてもそう読んでいるのかもしれないが)。その国は邪馬臺国であり、『魏志』倭人伝では邪馬壹国である。「臺」と「台」は別字であり、「台」は「ト」と読むが「臺」は「ト」とは読まない。つまり「邪馬台」は存在せず、存在する「邪馬臺」は「やまと」とは読まない、これが真実である。存在しない邪馬台が「やまと」に存在することはできないのであり、「やまと」の語源はほかにあったと考えなければならないのである(拙著『縄文から「やまと」へ』参照)。
  こういった基本的なことからきちんとしていかないと、古代史は誤大史になってしまう。学問とは何なのか。誤大史にならないうちに根本から問い直す必要がある。出発点が間違っていると、その上になにを積み重ねていっても真実は生まれてこない。

  『魏志』倭人伝だけで云々する時代はとうの昔に終わっているのであり、『魏志』から『隋書』、『旧唐書』、『新唐書』まで、中国が長い時間日本列島を見てきた目を尊重し、まずこれらの中国史書を通して矛盾のない日本古代史を構築することが必要なのである。そしてその中で考古資料を位置づけ、文献資料の裏づけ、証拠としていけばよいのである。畿内説者、東遷説者の文献軽視・無視は決して日本古代史の発展にはつながらない。


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