『伊吉連博德書』について

2008.10.04

 『日本書紀』には、百済滅亡、白村江敗戦という歴史的事件を、その時代に生き、それを見聞きした人たちが書いた、その記録が載っている。その代表的なものが『伊吉連博德書』と高麗の僧・釈道顕が書いた『日本世記』である。
  『伊吉連博德書』については、かつて古田武彦氏も言及しておられるが、この大事件のあった同時代史料を私自身で一度整理しておきたいという願望は以前からあった。そこで今回は『伊吉連博德書』について考えてみることにした。

  伊吉連博德書

(孝德天皇白雉五年〔654〕)二月、遣大唐押使大錦上高向史玄理【或本云、夏五月、遣大唐押使大花下高向玄理。】(中略)田邊史鳥等、分乘二船。留連數月。取新羅道、泊于萊州。遂到于京、奉覲天子。於是、東宮監門郭丈擧、悉問日本國之地理及國初之神名。皆隨問而答。押使高向玄理、卒於大唐。【伊吉博得言、學問僧惠妙、於唐死。知聰、於海死。智國、於海死。智宗、以庚寅年〔690年〕、付新羅船歸。覺勝、於唐死。義通、於海死。定惠、以乙丑年〔665〕、付劉德高等船歸。妙位・法勝、學生氷連老人・高黄金、幷十二人、別倭種韓智興・趙元寶、今年共使人歸。】

(斉明天皇五年〔659〕)秋七月丙子朔戊寅、遣小錦下坂合部連石布・大仙下津守連吉祥、使於唐國。(中略)【伊吉連博德書曰、同天皇之世、小錦下坂合部石布連・大山下津守吉祥連等二船、奉使呉唐之路。以己未年〔659〕七月三日、發自難波三津之浦。八月十一日、發自筑紫大津之浦。九月十三日、行到百濟南畔之嶋。々名毋分明。以十四日寅時二船相從、放出大海。十五日日入之時、石布連船、横遭逆風、漂到南海之嶋。々名爾加委。仍爲嶋人所滅。便東漢長直阿利麻・坂合部連稻積等五人、盗乘嶋人之船、逃到括州。々縣官人、送到洛陽之京。十六日夜半之時、吉祥連船、行到越州會稽縣須岸山。東北風。々太急。廿二日、行到餘姚縣。所乘大船及諸調度之物、留着彼處。潤十月一日、行到越州之底。十五日、乘驛入京。廿九日、馳到東京。天子在東京。卅日、天子相見問訊之、日本國天皇、平安以不。使人謹答、天地合德、自得平安。天子問曰、執事卿等、好在以不。使人謹答、天皇憐重、亦得好在。天子問曰、國内平不。使人謹答、治稱天地、萬民無事。天子問曰、此等蝦夷國有何方。使人謹答、國有東北。天子問曰、蝦夷幾種。使人謹答、類有三種。遠者名都加留、次者名麁蝦夷、近者名熟蝦夷。今此熟蝦夷。毎歳、入貢本國之朝。天子問曰、其國有五穀。使人謹答、無之。食肉存活。天子問曰、國有屋舍。使人謹答、無之。深山之中、止住樹本。天子重曰、朕見蝦夷身面之異、極理喜怪。使人遠來辛苦。退在館裏。後更相見。十一月一日、朝有冬至之會。々日亦覲。所朝諸蕃之中、倭客最勝。後由出火之亂、棄而不復檢。十二月三日、韓智興傔人西漢大麻呂、枉讒我客。々等獲罪唐朝、已決流罪。前流智興於三千里之外。客中有伊吉連博德奏。因卽免罪。事了之後、勅旨、國家、來年、必有海東之政。汝等倭客、不得東歸。遂匿西京、幽置別處。閉戸防禁、不許東西。困苦經年。難波吉士男人書曰(以下略)】

(斉明天皇六年〔660〕)秋七月庚子朔乙卯、高麗使人乙相賀取文等罷歸。(中略)【高麗沙門道顯日本世記曰、七月云々。(中略)伊吉連博德書云、庚申年〔660〕八月、百濟已平之後、九月十二日、放客本國。十九日、發自西京。十月十六日、還到東京、始得相見阿利麻等五人。十一月一日、爲將軍蘇定方等所捉百濟王以下、太子隆等、諸王子十三人、大佐平沙宅千福・國辨成以下卅七人、幷五十許人、奉進朝堂。急引趍向天子。天子恩勅、見前放着。十九日、賜勞。廿四日、發自東京。】

(斉明天皇七年〔661〕)五月(中略)丁巳、耽羅始遣王子阿波伎等貢獻。【伊吉連博得書云、辛酉年〔661〕正月廿五日、還到越州。四月一日、從越州上路、東歸。七日、行到檉岸山明。以八日鷄鳴之時、順西南風、放船大海。々中迷途、漂蕩辛苦。九日八夜、僅到耽羅之嶋。便卽招慰嶋人王子阿波伎等九人、同載客船、擬獻帝朝。五月廿三日、奉進朝倉之朝。耽羅入朝、始於此時。又、爲智興傔人東漢草直足嶋、所讒、使人等不蒙寵命。使人等怨、徹于上天之神、震死足嶋。時人稱曰、大倭天報之近。】

  日本国の地理及び国初の神名

 伊吉連博德には直接関係ないが、孝德天皇白雉五年〔654〕二月条の本文には重要な記事があるので、最初にそのことについて少し触れておきたい。それは、唐の東宮監門郭丈擧が遣唐使に日本国の地理及び国初の神名を聞いたので遣唐使はそれに答えた、というものである。日本が魏の時代から中国と通交していた国ならば、この時期になって中国が日本国の地理を聞くなどということは普通では考えられないことであり、しかも『隋書』東夷伝にも俀国(倭国)の地理地形がはっきりと書かれており、『日本書紀』が主張するように、日本が倭国だとすると、これは非常に不自然な記事となるのである。
  日本国は中国史書では『旧唐書』東夷伝になってはじめて登場するのであり、新しく通交をはじめた国であるからこそ、中国はその国の地理地形を尋ねたのである。『新唐書』東夷伝の「次用明 亦曰目多利思比孤 直隋開皇末 始與中國通」はまさにこのことを裏付けている。『旧唐書』東夷伝にはじめて登場した「日本国」の記録は、このときの遣唐使によって中国が日本についてはじめて得た知識だったのであり、この記事は、日本国が倭国ではないことを示すひとつの証拠として重要であり、記憶に留めておく必要がある。

  別倭種とは

  さて『伊吉連博德書』についてであるが、孝德天皇白雉五年〔654〕二月条では「博得言」となっており、博德が話したことが記録されている。その中に「別倭種」というのがある。「別倭種」とは何か。その読み方は「別に倭種の」と読むのか、それとも「別の倭種の」と読むのか。
  『旧唐書』東夷伝には「日本国は倭国の別種である」とある。日本国が倭国とまったく別の国であれば、わざわざ「倭国の別種」などと書く必要はないから、日本国人は倭人のように見えるが倭人ではない、と言っているように聞こえる。ヤマト人はこの頃には北東アジア系化が強くなっていたと考えられ、『旧唐書』のこの記述は正確だといえる。ヤマト人はこの時点ではすでに倭種ではなくなっていたと考えられ、みずからを他の倭種と区別する必要はなく、伊吉連博德が「別の倭種」という表現を敢えてする必要性はまったくなかったということになる。ということは、この「別倭種」は「別に倭種の」と読むのがよいことになる。ノート「白村江前後の日本」で「別倭種の」と書いたが、ここで「別に倭種の」に訂正しておきたい。
  博德は韓智興のことを自分たちと区別し、わざわざ「倭種」と書いているから、この「倭種」はヤマト人のことではないことになる。つまりここでは「倭」は「やまと」とは読まれていないことになる。「やまと」とは読まない「倭」をヤマト人はちゃんと知っていたことになる。この「倭種」はヤマト人の国以外に倭人の国(倭国)があったことを示している。

  倭客と我客

  斉明天皇五年〔659〕)秋七月条の『伊吉連博德書』の前段には、唐に向け出発したが嵐に遇い、苦難に遇いながら、それを乗り越え、天子のいる東京に着いたことが記され、続いて、天子が日本国天皇のこと、国内のこと、一緒に連れて行った蝦夷のことなどを訊いた様子が記され、さらに自分たちと倭種韓智興との間に起こった騒動が記されている。
  この中には気になる記事がいくつかある。一つは「天子相見問訊之 日本國天皇 平安以不」の「日本國」である。孝德天皇白雉五年〔654〕二月条にも「悉問日本國之地理及國初之神名」と「日本國」が登場しているが、この「日本國」は博德が記録したものの中にある、という意味で非常に重要である。
  私は「日本」が誕生したのは670年以降とみているが、もしそうだとすると、このとき日本はまだ「日本」ではなかったことになる。しかしこのとき「日本」という名がなかったとしても、これは明らかに日本(ヤマト)に関する記事である。日本が誕生していなければ、博德は「ヤマト」を「日本」と書くことはできなかった。にもかかわらず『伊吉連博德書』には「日本國」とあったとされる。ここで考えられるのは次の二つである。①『伊吉連博德書』には「日本國」ではなく別の国名が書かれていたが、『日本書紀』の編者がその主張のもとに「日本國」と書き換えた。②このときすでにヤマトは「日本」となっていた。
  私はこれまで、「日本国」が誕生したのは670年以降と考えていたが、670年以前の可能性も考える必要があるのではないかと、今思い直している(すでに日本と書き、「ヤマト」と呼んでいた可能性)。
  もしまだヤマトが日本となっていなかったとすると、ヤマトは中国皇帝に対して、自国名をどのように説明したのか、非常に興味を引かれるところである(「倭」は、同行者に本家本元がいるので使用できない。「山東」あるいは「東」を使用していたのだろうか)。
  気になる記事の二つは「倭客」と「我客」である。上記記事に続いて博德は次のように書いている。

  出火騒ぎがあり、倭種韓智興の従者西漢大麻呂の讒言により「我客」のせいにされ、「我客」は流罪とされた。韓智興はすでに三千里離れたところに流罪にされたが、博德の進言によって「我客」らは流罪を免れることができた。事件が片付いた後、「中国は来年必ず海東を征服する。おまえたち倭客は東へ帰ることはできない」と言われた。西京に別々に幽閉され、自由に行動することができなかった。困苦して年を経た。

  博德らは倭種韓智興の従者西漢大麻呂の讒言により「我客」のせいにされたという。これは、韓智興らは「我客」ではなく、つまり博德らと韓智興らはそれぞれ別の「客」であることを、彼ら自身認識していたことを示している。一方、中国は韓智興と博德らに対して「汝等倭客」と言っており、ヤマトの倭種ではない使者も「倭客」としている。どうも中国は倭国とヤマトという二つの国の存在を知っていながら(孝德天皇白雉五年二月条で、中国は日本国の地理及び国初の神名を訊いている)、倭国一つだけを国として扱っているようにみえる。
  中国が日本国の地理及び国初の神名を訊いたというのは、日本を独立国として認めたからではなく、倭国配下の新しい国として認識したからではないだろうか。この条(斉明天皇五年秋七月)の『伊吉連博德書』には、中国皇帝が蝦夷について尋ねたことが書かれているが、それとまったく同じことのように思える。
  『旧唐書』東夷伝、『新唐書』東夷伝には、日本の国名と生い立ちについて、日本の使者は事実をもって答えないので中国はこれを疑った(日本の使者のいうことは、中国がこれまで持っていた倭国に関する知識と異なっていた)、とある。中国が倭国を日本列島の代表とみていたことが、ここにも伺われる。
  「倭客」と「我客」は、中国の見方と日本列島の実情の違いを表している、といえる。中国からみれば、日本列島の国は倭国一つであるが、日本列島内ではそうではなかったということである。「倭客」と「我客」の違いがわかれば、『旧唐書』東夷伝の「日本国名の由来」に混乱はなかったはずであり、国内の学者も「倭国=日本国(ヤマト)」である、などという間違いを犯さないで済んだかもしれない。

  百済滅亡の証人

  斉明天皇六年〔660〕)秋七月条の『伊吉連博德書』には、百済王一族が東京に連れてこられそこで釈放されたこと、また博德らは労いを賜い、11月24日東京を発ったことが記されている。博德らはこれまで西京に幽閉されていたから、その後許され東京に戻り、奇しくもそこで捕われた百済王の姿を目撃し、百済滅亡の証人となったのである。

  大倭天報之近

 斉明天皇七年〔661〕五月条の『伊吉連博德書』によれば(六年秋七月条に続く)、博德らは東京を発った後、途中海路を迷走しながら耽羅嶋(済州島)に着き、耽羅の使者を船に乗せ、5月23日朝倉の朝に奉進したという。問題はこの次の記事である。

  韓智興の従者倭漢草直足嶋の讒言により、使者は天子の寵命を受けることができなかった。使者たちの怨みは天の神を突き抜け、足嶋を震え死なせた。時の人は、大倭の天の報いは近い、と言った。

 斉明天皇五年〔659〕)秋七月条では、讒言したのは西漢大麻呂となっている。ここでは倭漢草直足嶋となっているが、博德が間違えるわけはないので、何人か讒言したものがおり、倭漢草直足嶋はその中心人物だったのかもしれない。
  問題は「大倭天報之近(大倭の天の報いは近い)」である。足嶋は倭種韓智興の従者であり、彼らは博德がいうように「我客」ではない。「我客」らは讒言した足嶋を強く怨み、その怨みが足嶋を震え死なせたというのである。そしてそのことにより、時の人は「大倭の天の報いは近い」といったのである。天の報いの対象は「大倭」であり、その原因は讒言した足嶋にある。博德ら「我客」は「大倭」の使者ではないことが、この記事によって明白となる。つまり「大倭」はヤマトではないということが、この記事からわかるのである。
  この「大倭」は、時の人の噂の中にあった真実の声を博德が記録したものである。「倭種」や「大倭」がヤマトではない人たちに使用されているということは、博德をはじめとしてこの時代の人たちが、ヤマトとヤマトではない九州倭国を正しく認識していたことを如実に示している。

  『伊吉連博德書』の存在意義

  博德は中国唐に渡り、そこで激変する歴史を目の当たりにした。『伊吉連博德書』は博德自身がそこにいて、自分の目で見て、経験したことを自分で書いたものである。人から聞いた話ではなく、博德自身がその目で見、経験したものであることが、史料として何よりも貴重である。
  斉明紀、天智紀は、森博達氏の『日本書紀の謎を解く』によれば、中国人が書いたとするα群に属している。『伊吉連博德書』はα群にあり、日本人の意図による改変はされにくく、小細工はされずにそのまま挿入された可能性が高い。『伊吉連博德書』の信頼度は非常に高いといえる。
  『伊吉連博德書』からは、「倭種」の「倭」は「やまと」とは読まないこと、「倭客」は倭国人とヤマト人のことであること、「我客」はヤマト人だけを指し、「大倭」はヤマトではない(倭国だということ)ことなどがわかる。博德自身がこのことをはっきりと認識していたから、それをその書の中で躊躇なく示すことができたのである。博德は、ヤマトが倭国ではないことを決して隠そうとはしなかった。多分このときは、ヤマトにはまだそれを隠す必要などなかった時代だったのだろう。
  『伊吉連博德書』は同時代史料として、また本人がその目で見て、経験したことを書いたものとして、高く評価されるべきだろう。そしてそれを読めば、普通に読解力のある人ならば、その中にヤマトではない国(倭国)の存在を認識できるはずである。それでもまだ、『伊吉連博德書』の「倭種」の「倭」を「やまと」と読んだり、「大倭」をヤマトだという人がいるとするなら、それはもう史料解釈の域を逸脱したものというほかない。
  これほど貴重な史料が『日本書紀』の中にあるということ自体大きな驚きであるが、もしそれを正しく理解できないのであれば、それは大きな悲劇である。なぜなら、史料を真摯に受け止め、正しい解釈に努める、これが私たちにできる、たった一つのことだからである。


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