金石文の構造について

2008.03.17

 金石文の構成比較表

  金石史料の中で、六世紀初め頃までの日本古代史を考える上で非常に重要なのが、前回とりあげた稲荷山古墳出土鉄剣をはじめとした、江田船山古墳出土大刀、石上神宮所蔵の七支刀、隅田八幡神社所蔵の人物画像鏡である。
  稲荷山古墳出土鉄剣と江田船山古墳出土大刀は、銘文に「ワカタケル」と読める文字があるため、中央のヤマトから下賜されたもの、というのが有力な説になっており、人物画像鏡は、百済武寧王の墓誌に「斯麻」という文字あったことから、銘文の「斯麻」は武寧王のことだとする見方も出てきた。七支刀は百済王が倭王に贈ったものとみられているが、その年代と両王の上下関係が問題となっている。
  これらを取り巻く別の史料(中国史書、『三国史記』、『日本書紀』など)から、銘文の時代背景や登場人物を特定しようとすることは、当然の方向・方法ではあるが、有力とされている説には納得できかねる解釈・説明が多々あるように思う。稲荷山古墳出土鉄剣銘にある「獲加多支鹵」を雄略天皇にあてることや、人物画像鏡銘の「日十大王年男弟王」を、「日十」はひっくり返して「十日」と読み、以下は「大王年」と「男弟王」に分けて考える、ということなど、私はこういった見方に大きな疑問と危惧を感ぜざるを得ないのである。「そもそもこれらの金石文は、いつ誰が何のためにつくったのか」という基本的な部分を、もう一度出発点に戻って考えてみる必要があるのではないか。そこでこれら四つの金石文を五つの項目に分け、その構造(銘文構成)を比較してみることにした。それが次の表である。各銘文を項目別に分け比較すると、従来の読み方・解釈では文脈に合わない部分がいくつか見えてくる。


金石文の構造 比較表

作製日 作製した時代 主体 目的 作製者
七支刀
泰□四年□月十六日

③なし(倭王旨の時代)
④百□王
⑤倭王旨のため
②□□□□
人物画像鏡
癸未年八月
②日十大王年男弟王在意柴沙加宮時

③斯麻
④長奉(寿)を願う
⑤開中費直穢人・今州利
稲荷山古墳鉄剣
①辛亥年七月中
②獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時(乎獲居「左治天下」)の次の時代

③乎獲居臣
⑤奉事の根源の記録
④記録なし

江田船山古墳大刀
③八月中
①獲□□□鹵大王世
②无□弖
④長寿と子孫の繁栄

⑤作刀者:伊太□ 書:張安

※○の中の数字は銘文に出てくる順番

  稲荷山古墳出土鉄剣がつくられた「時代」

  最初にここでとりあげておかなければならないのは、やはり稲荷山古墳出土鉄剣と江田船山古墳出土大刀である。前回のノートで紹介したように、白石太一郎氏はこの二つの剣・大刀はヤマトからの下賜品だとする。しかしこの表を見てわかるように、作製した目的も異なり、作製日、作製した時代、主体、目的、作製者の記載順もまったくばらばらで、一致しているものは何一つない。書体が似ており、同じ人物が書いたとも言われているが、そうであればなおさら、構文くらいは同じでなければおかしい。こういった簡単な作業からも、有力説の根拠の薄さが見えてくる。有力説といわれるものには、意外と落し穴は多いのである。
  ここで、表の稲荷山古墳鉄剣の「作製した時代」を「獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時の次の時代」としたことについて、少し説明しておきたい。
  稲荷山古墳出土鉄剣銘は「辛亥年七月記」で始まっている。これはこの鉄剣に銘を刻んだのが「辛亥年七月」であるということ、つまりこの剣が完成したのは「辛亥年七月」であることを示している。一方、裏面の「獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時」は、乎獲居臣が「左治天下」した「時代」を指しており、次に続く文から、この剣はこのことを記念して、乎獲居がつくらせたものであることがわかる。
  問題は、「辛亥年七月」が「獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時」に含まれるかどうかである。銘文の最後は「記吾奉事根源也」となっている。この剣をつくった目的は、乎獲居の「奉事根源」を記すことであり、それは「左治天下」だということである。「奉事根源」を記すには「奉事」をまっとうしていなければならないはずであるから、この剣をつくったのは、「左治天下」が終わったあと、ということになる。そうすると「辛亥年七月」は「獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時」の次の「時代」を示していることになり、この年には獲加多支鹵大王の時代は終わっていたか、ほかの宮に移り在位し続けていたかのどちらかである。しかし「斯鬼宮」という治天下した場所を表す語には、獲加多支鹵大王を特定する働きがあり、「辛亥年七月」にはすでに次の大王の代になっていた可能性のほうが大きいと私は思う。
  確定はできないが、もしそうであれば、雄略天皇の在位は『日本書紀』によれば457年~479年であるから、「辛亥年」を471年とすると、その在位は合致せず、獲加多支鹵大王とは雄略天皇のことではないということになる。
  稲荷山古墳出土鉄剣と江田船山古墳出土大刀は、そもそもそれを作製した目的が異なっている。それに加えて、稲荷山古墳出土鉄剣の場合は、作製日は大王の時代ではないが、江田船山古墳出土大刀の場合は、作製日は大王の時代である、という点も異なっている。
  白石氏は、江田船山古墳出土大刀について、東野治之氏の報告書を引き、「獲□□□鹵大王世」の「世」という書き方は、大王あるいは天皇の治世が終わってからでないと使用されない、という。そして雄略天皇の崩年は『古事記』が書く己巳の489年が正しく、江田船山古墳出土大刀がつくられたのは「ワカタケル大王」の治世が終わった490年過ぎに限定できるという。また稲荷山古墳出土鉄剣がつくられたのは辛亥年〔471〕であるから、そこには20年の差があるが、五世紀末から六世紀になると剣が少なくなり刀が圧倒的に多くなるから、一方が剣であり一方が大刀というのは地方差というより時代差を表していると考えられる、という(『東アジアと江田船山古墳』雄山閣)。
  剣から刀への移行は納得できるが、江田船山古墳出土大刀の「世」の使用法のとらえ方と稲荷山古墳出土鉄剣がつくられた時期については疑問である。无□弖が八月に大刀をつくったのは、どう銘文を読んでも「獲□□□鹵大王」の「世」であり、逆に稲荷山古墳出土鉄剣の「辛亥年七月」というのは、「獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時」ではなく“その次の時代”のことを指しているとしか私には読めないのである。
  銘文の構成を表にして分析してみると、項目別に区分するという行為が文脈の理解にも役立ち、曖昧だった部分がかなり明確になってきた、と私の中では感じているのであるが、どうだろうか。

  人物画像鏡の「日十大王年男弟王」

  人物画像鏡の「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時」は「癸未年八月日十、大王の年、男弟王、意柴沙加宮に在りし時」が有力な読み方のようである(坂元義種「隅田八幡神社人物画像鏡」『金石文の謎』所収)。しかしこれはどう考えてもおかしい。「時」を示す文節が、「癸未年八月日十」、「大王年」、「男弟王、意柴沙加宮に在りし時」と三つもあるからである。稲荷山古墳鉄剣と江田船山古墳大刀にも、干支、月表示と大王の時代が併記されているが、二つである。この鏡の銘文も同様に考えるべきなのではないか、私にはそう思えるのである。
  「癸未年八月日十」の「日十」は「十日」のことだという。この時代に、こういった日付をひっくり返して書く習慣や構文があったというのだろうか。七支刀の銘文にも日付があるが、「十六日」と正しい順序で書いてある。訂正できない銘文なのだから、なおさら「十日」を「日十」と書くなどということはとても考えられない。「日十」が間違いではないとすると、これは日付ではないのであり、日付は「癸未年八月」までということになる。そうすると、もう一つの「時」を示す文節は「日十大王年男弟王在意柴沙加宮時」ということになる。
  坂元氏の読み(「大王年」としておきながら、さらに「男弟王、意柴沙加宮に在りし時」)では意味が通らない。「大王=男弟王」となってしまう。それならば「男弟大王」とすれば、それで済むのではないか。
  「時」については、干支あるいは月と、時代を特定する大王あるいは王の、二通りの書き方よって表現されていると考えれば、非常にすっきりとした文脈となり、内容も理解できるようになる。表に挙げた他の金石文も、書き方に違いがあったり、明確な書き方になっていないものもあるが、そう読めるようになっている。銘文構成の理解は銘文解釈における重要な要素である。ヤマト中心史観に犯され、何でもかんでも『記紀』の天皇にあてはめようとするから、「ありえない」読み方になってしまうのである。
  「日十大王年男弟王在意柴沙加宮時」は「日十大王と年男弟王が意柴沙加宮にいたとき」と読めばよいのではないか。「日十大王」「年男弟王」とは何者かはわからないが、この文節は「日十」という大王と「年男」という弟王が意柴沙加宮にいた、と読めるのである。
  『魏志』倭人伝には「有男弟佐治國」、『隋書』東夷伝俀国には「日出便停理務云委我弟」とあり、兄弟による統治をにおわす記録がある。「日十大王」「年男弟王」もその一つの例を示すものと考えられないだろうか。
  このあと「斯麻念長奉(寿)」と続くが、この「斯麻」を百済の武寧王だとする見方も一部にはある。武寧王陵の墓誌に「寧東大将軍百濟斯麻王」とあることが、その理由のようである。しかし斯麻とヤマトの関係は曖昧であり(『日本書紀』と『三国史記』の不一致)、しかも「日十大王年男弟王」が誰だかわからない以上、そのようにみることは難しい。
  「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時」は、単にこの鏡をつくった時代、年月を示しており、「斯麻」が「日十大王年男弟王」の「長奉(寿)」を願ったという意味にはとれないから、これは「斯麻」自身の「念長奉(寿)」だったことになる。「斯麻」は「日十大王年男弟王」の時代に、「日十大王年男弟王」の統治圏内で生きた人物とみたほうがよいのではないだろうか。

  七支刀について

 七支刀については不明瞭な銘字が多く、解釈も難しい。書き出しの「泰□四年□月十六日」の「泰□」の「□」に何という字を入れるかは、年代を決定する上で非常に重要である。これには「泰始」「泰初」「泰和」などの説が出ているが、「泰」は同じ読みの「太」であり、「太和」すなわち東晋の太和四年〔369〕のことだとするのが、現在有力説となっている。それは、『日本書紀』神功皇后摂政52年〔372〕に、百済が「七枝刀一口、七子鏡一面」を献上したという記事があり、七支刀はこの七枝刀のことで、「泰□四年」を「太和四年」とすれば、七支刀は369年に百済王がつくり、三年後にヤマトの王に贈られた、とみることができるからである。
  しかしもしそうだとすると、たとえ「太」と「泰」の音が同じでも、なぜ中国の年号である「太和」を、わざわざ字体の異なる「泰和」としたのか、という疑問が生まれる。372年、東晋は百済王余句(近肖古王)を「鎮東将軍領楽浪太守」としている(『晋書』帝紀第九簡文帝咸安二年〔372〕に「六月 遣使拜百濟王餘句爲鎭東將軍 領樂浪太守」とある)。そういう立場にある百済が、東晋の年号を勝手に別の漢字に置き換え、しかも銘字に使用しなければならない理由がどこにあるというのだろうか。私には理解できないのである。
  七支刀の存在は現実であっても、神功皇后の存在は疑問視されている。たとえ存在が認められたとしても、神功皇后は天皇ではなくあくまでも皇后である。『日本書紀』による限り、369年に倭王と書かれる人物はヤマトには存在しなかったことになる。『日本書紀』における百済・新羅・高麗・任那関係記事は本来の朝鮮半島の歴史と一致する部分は少なく、その意味では信頼性はほとんどないといってよい(信頼性がないというより、朝鮮半島の歴史と『日本書紀』が描く朝鮮関係の歴史は別物だと、私は考えている)。
  それでは銘文の倭王の「倭」とは何か。それは中国史書が『旧唐書』まで書き続けた「倭・倭人・倭国」の「倭」のことである。『古事記』や『日本書紀』のように、「倭」と書いて「ヤマト」と読む読み方は、この頃のヤマトにはまだなかった。「山東漢大費直」(元興寺の塔の露盤銘)→「東漢直」(『日本書紀』)→「倭漢直」(『日本書紀』)という変化をみれば、「倭」の読みは「山東」から出たものであることが理解できる(詳細は拙著『縄文から「やまと」へ』を参照ください)。元興寺が完成したのは596年であり、そのときにはまだ「山東」であり、「倭」一字で「ヤマト」という読み方は生まれていなかった。したがって、たとえ「泰□四年」を369年としても、銘文の倭王は畿内の「ヤマトの王」とはなり得ないのである。
  「泰□四年」を369年とするのは、神功皇后摂政52年〔372〕の七枝刀と結びつけるからであるが、『三国史記』における朝鮮半島の歴史、『日本書紀』における朝鮮諸国とヤマトとの関係、そして「倭」と「日本」の関係、これらすべてに対して素直に向い合えば、無理やり銘字の改定までして、『日本書紀』の神功皇后摂政52年〔372〕にこだわる必要はなくなるのである。
  問題の東晋の「太和」と、頭に「泰」がつく中国の年号をウィキペディアで調べると、次のようになる。

太和(東晋)    366~ 371年
泰始(晋)     265~ 274年
泰常        416~ 423年
泰始(南朝宋)   465~ 471年
泰和(金)    1201~1209年
泰定(元)    1324~1328年
泰定(陳鑑胡)  1448~1449年
泰昌            1620年

  仮に、「泰□」を「太和」ではなく、銘文の通り「泰□」だったとすれば、百済の成立時期と倭の存在を考慮すると、可能性のあるのは泰常、泰始(南朝宋)の二つになる。
  ところで、『日本書紀』によらない、問題の369年、372年を含む時代の倭と百済の情勢はどうだったのだろうか。
  百済は369年から高句麗と激しい戦いを繰り広げていた。百済は372年正月東晋に遣使し、6月には「鎮東将軍」の称号をもらっている。百済は北の敵・高句麗に対して、東晋の力を借りて防ごうとしたのである。その後百済は、391年以来やってきていた倭に組し、397年には倭と好を結び、太子腆支を人質として送った。

※高句麗広開土王碑には、「(永楽)九年〔399〕己亥百殘違誓与倭和通王」とあり、『三国史記』の記録を裏付けている。百済と倭は397年に好を結び、399年に具体的な行動を起こしたものと思われる。

 百済と好を結び新羅に侵入していた倭は、400年、新羅救軍の高句麗軍によって任那加羅に追われることになったが、『三国史記』によると、397年以後、倭と百済は親密になっていったことが伺われる。397年に人質として倭国に来ていた腆支は405年に阿莘王が亡くなると、百済に帰って即位した。このとき倭王は、兵士百人を護衛につけ送らせたという。
  この親密な関係は[田比]有王2年〔428〕まで続く。倭の五王の一人、倭王珍が宋に遣使貢献し、自ら「使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王」と称して、倭王として初めて除正を求めたのは、ちょうどこの頃である。これに対して皇帝は、「安東將軍倭國王」しか与えなかった。その後の倭王も百済を含んだ称号の除正を求めているが、それは最後まで認められなかった。このことは少なからず、倭と百済の関係に亀裂を生じさせたのではないかと私には思えてならない。
  『三国史記』「百済本紀」は、[田比]有王2年〔428〕の記事のあと、義慈王13年〔653〕に至るまで、倭との関係記事をまったく記録していない。この記録の空白を、「高句麗本紀」に倭関係の記録や広開土王碑に書かれた事件の記録がないことと同一視し、単なる史料の欠落とみる人が多いが、こういった見方の根底には、『日本書紀』欽明紀の膨大な任那関連記事の存在がある。ここにはヤマトと百済の関係がぎっしり詰まっているからである。しかし私がノートの「『日本書紀』の任那1~6」で示したように、『日本書紀』がいう任那における百済は、史料による限り、本国百済のことではない可能性が高い。欽明紀に百済記事があるからといって、『三国史記』の空白を史料の欠落で済ますわけにはいかないのである。しかもここでは「倭と百済の関係」が問題なのであって、「ヤマトと百済の関係」が問題なのではない。倭王珍以後、倭と百済の関係は少しずつ遠くなっていったと見ざるを得ないのである。
  倭と百済の関係は、朝鮮史料においては高句麗広開土王碑の「倭以辛卯年〔391〕來渡海破百殘□□新羅以爲臣民」が最初である。一方『日本書紀』では、百済の初見は神功皇后摂政前紀〔320〕10月条の新羅征討記事の中にある。「高麗百濟二國王(中略)從今以後 永稱西蕃 不絶朝貢」がそれである。ところが神功皇后46年〔366〕春3月条に「百濟王聞東方有日本貴國」とあり、320年に「從今以後 永稱西蕃 不絶朝貢」と書いているにもかかわらず、百済はこのときまでヤマトを知らなかったように書かれている。『日本書紀』での、倭と百済の関係の始まりは、実年で366年だったとみたほうがよいように思われる。
  倭と百済の最初の接触は、『日本書紀』の366年か高句麗広開土王碑にある辛卯年〔391〕のどちらかということになるが、朝鮮半島の情勢からすると、366年だった可能性のほうが高い。
  したがって、百済王が倭王に七支刀を贈るという行為が可能なのは「366年または397年以後、倭王珍以前(430年以前)」とみることができそうである。そうすると「泰□四年」は「泰常四年〔419〕」以外にはなくなる。これは「泰」を「太」と原文改定しない、という考え方における一つの解答である。
  現段階においては、七支刀は倭の五王の直前に置き、「倭王旨」は倭王の名とし、倭の五王「讃・珍・済・興・武」のように一字名とみるのが、“複数資料にかなった見方“といえるのではないだろうか。

  七支刀と石上神宮

  石上神宮の祭神は神剣布都御魂である。現在本殿が建っているところは、古来の禁足地であったが、明治六年の発掘により、そこから神剣・宝玉が出土した。その神剣が布都御魂であり、七支刀もこの神域から発見されたという。
  『先代旧事本紀』によれば、神宮の創建は崇神天皇のときで、物部氏の遠祖伊香色雄命が伝来の瑞宝を奉斎したという(日本史小百科『神社』岡田米夫)。また『日本書紀』垂仁紀には、五十瓊敷命が剣一千口をつくり石上神宮に納めたが、この後、垂仁天皇の命により神宮の神宝も五十瓊敷命が管理したとある。五十瓊敷命の後、物部氏が管理するようになったのであるが、いずれにしても、石上神宮の神剣と神宝は物部氏が管理することになったのである。
  ところで七支刀はなぜ石上神宮に伝えられてきたのだろうか。「倭王」はヤマトの天皇ではないから、七支刀はヤマトの宝物ではないのである。このことについては、物部氏が鍵を握っていると私は思っている。
  物部氏の祖は饒速日命で神武天皇と同じ天孫である。『先代旧事本紀』によれば、饒速日命は初め河内国に天降り、次に大和国に移ったとされる。河内国に天降る前は天上にいたとされるが、朝鮮半島南部から九州北部へ渡ってきた集団の子孫の一人だと推測される。そうすると、物部氏を遡れば九州北部へ辿り着く。

 明確な裏付け資料がないので、ここからは私のささやかな想像である。

  二世紀末の倭国乱後、九州に残った饒速日の傍系一族(饒速日は倭国乱で敗れた奴国の後継者であったが、新天地を求めて河内に移った)は、倭国構成国の一国の王族として存続していた(七支刀が贈られたときには、この国が再び倭国の覇権を握っており、物部系のこの一族が倭国王となっていた、という見方もできる)。ところが白村江での敗戦がきっかけとなり、七世紀後半から八世紀初め頃倭国は消滅してしまった。一族は倭国乱以前の倭国王の血を引く(かつては倭国王だった)という自負から、倭国の証としての宝物を携え、同族のいる畿内大和に移動した。その宝物の中に百済王から倭王に贈られた七支刀もあった。その後七支刀は同族の物部氏の管理する石上神宮に保管され、現在に至った・・・。


 金石文は同じ日本の歴史を記しているにもかかわらず、日本最初の史書の記録とすんなり合わないのが現状のようである。なぜなのだろうかと考えると、『日本書紀』そのものがヤマト中心史観を持った歴史書であり、それをすべての基本に置いてこれらの金石文を解釈しているからである、ということに尽きる。もう少し海外史料と矛盾しない、また地方の主体性・独立性を認めた歴史観を持たないと、せっかくの金石文も“宝の持ち腐れ”となりかねない。このことを何よりも私は危惧するのである。


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