稲荷山古墳出土鉄剣について

2008.02.29

  はじめに

  私の日本古代史に対する思考の原点は、複数の資料内容を矛盾なく理解するにはどのように考えたらよいのか、ということであり、それがすべてである。
  『古事記』や『日本書紀』といった日本国家の起源に関わる史書は、七世紀の終り頃に「日本」と改名した国の歴史を、そのとき「日本人」となった人たちが書いたものであって、中国史書がいう倭国の歴史を書いたものではない。これは、中国・朝鮮・日本の史料を比較してみれば必然の結論なのであるが、一部の心ある歴史家・考古学者を除いては、どうもそうではないのが現状のようである。
  中国・朝鮮・日本の史料を矛盾なく理解しようとすれば、「日本≠倭国」という結論に達せざるを得ない。逆に言えば、「日本=倭国」とする見方は、これらの史料間における矛盾を無視しない限り成り立ち得ないものということになる。
  歴史資料には紙に書かれたもののほかに、剣や刀、石などに文字を彫った金石文というものがある。金石文には、高句麗好太王碑のように日本参謀本部による石灰塗布疑惑をかけられたものもあるが(実際にはなかったと思われる)、その当時の史実を伝えるものとして非常に貴重な資料である。その中で「獲加多支鹵大王」と書かれていて、これは雄略天皇のことだとして有名になったのが、埼玉県行田市にある埼玉古墳群の稲荷山古墳出土の鉄剣である。この鉄剣の出現によって、当初「多遲比瑞齒別(反正)天皇」のこととされ、「治天下蝮○○○鹵大王」と読まれていた江田船山古墳出土大刀銘の「蝮」が「獲」だとされ、「蝮○○○鹵」は稲荷山古墳出土鉄剣銘と同様に「ワカタケル」と読まれるようになった。「ワカタケル」は「大泊瀬幼武」と呼ばれた雄略天皇のことで間違いないとされ、この二つの銘文は、ヤマトが五世紀の終わり頃にはすでに関東から九州までをその勢力下に入れていた証拠とされた。しかも雄略天皇は『宋書』に記録されている倭の五王の一人「武」で間違いないとされており、中国正史、『日本書紀』、金石文の三つの資料が一致した、とされるのである。
  こういった見方が大勢を占める中で、それに反して、より多くの資料から「日本≠倭国」とみている私にとっては、稲荷山古墳出土鉄剣と江田船山古墳出土大刀をどのように位置づけ解釈するのか、ということは非常に重要になってくる(「日本≠倭国」である以上、当然「雄略天皇≠ワカタケル≠倭王武」であるが)。そこで私なりに、これらの銘文についての考えを整理してみることにした。江田船山古墳出土の大刀銘にある「獲○○○鹵」については、どのように読むのがよいのかまだ一定の結論に至っていないので、今回、対象は稲荷山古墳出土の鉄剣に絞った。

  銘文の読み方

  稲荷山古墳出土の鉄剣は、現在埼玉県行田市にある「県立さきたま資料館」(さきたま風土記の丘内)に展示されており、実物をみることができる。パンフレットには実物の字体を書写した銘文が掲載されているが、活字に直すと次のようになる。「獲加多支鹵大王」の「獲」は、正しくは旁が「蒦」ではなく「蒦」から草冠をとったものであり、また「鹵」の「□」の中は、正しくは「九」であるが、便宜上「獲」と「鹵」を使用した。そのほか特に不明な文字はない。

(表)辛亥年七月中記 乎獲居臣上祖名意冨比垝 其児多加利足尼 其児名弖已加利獲居 其児名多加披次獲居 其児名多沙鬼獲居 其児名半弖比

(裏)其児名加差披余 其児名乎獲居臣 世々為杖刀人首 奉事來至今 獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時 吾左治天下 令作此百練利刀 記吾奉事根原也

 「獲居」は「ワケ」と読むことでこれまで異論はないようであるが、「獲居」が景行天皇の「大足彦忍代別」、履中天皇の「去來穂別」、反正天皇の「瑞齒別」と同じ「別」を意味し、さらに稲荷山古墳出土鉄剣銘の大王を雄略天皇だとすると、「別」の時代が合わない。また「居」は呉音では「コ」であり、本当に「獲居」を「ワケ」と読んでよいのか疑問は残る。「寺」は「雑用をつかさどる役所」のことで、「左治天下」は「大王が天下を治めるのを佐ける」という意味になる。「獲加多支鹵」は「ワカタケル」と読めないことはないが、すべて呉音で読むと「ワコタシル」となる。
  しかしながら、銘文の読み方はだいたいこれまでに読まれてきたとおりで、それほど難しく考える必要はないように思う。

辛亥年の七月に記す。乎獲居臣の上祖、名は意冨比垝、その児・多加利足尼、その児・名は弖已加利獲居、その児・名は多加披次獲居、その児・名は多沙鬼獲居、その児・名は半弖比、その児・名は加差披余、その児・名は乎獲居臣、代々杖刀人の首となり、奉事して以来今に至る。獲加多支鹵大王の役所が斯鬼宮にあった時に、私は大王が天下を治めるのを佐けた。この百練利刀を作らせ、私の奉事した根源を記すものである。

  「七月中」を「七月に」と読んだが、これは江口素里奈氏著『江田船山古墳鉄剣銘の秘密』で江口氏がいう「吏読(りと)」によった。「吏読(りと)」は学研の『漢和大字典』には「吏道と同じ」とあり、「吏道(りどう)」には「古代の朝鮮文字。七世紀末の新羅の薛聡が発明したといわれ、朝鮮語の音に漢字を当てて助辞を表記したもの」とある。「七世紀末の新羅の薛聡が発明した」とすると、この鉄剣銘を「吏読」により読むのは矛盾することになるが、江口氏は同著で、何人かの「吏読」の研究者の説を引いて、「吏読」は薛聡以前すでに成立していたと書く。「七月中に記す」と「七月に記す」では、さほど違いはないが、「吏読」説に頷けるものがあったので、ここではこのように読んでみた。
  「吏読」で読むというのはなかなかおもしろいと思うが、この鉄剣銘の運命を左右するのは、何といっても「辛亥年」、「獲加多支鹵」、「斯鬼宮」であり、それが全体の銘文の中でお互いに矛盾せずに存在するためにはどのように解釈すればよいのか、ということが鍵となる。この中で、「獲加多支鹵」が誰なのかがわかれば、当然のこと、すべては解決する。そのためにはまずヤマト中心史観を捨て、「獲加多支鹵」をはずして考える必要がある。その結果「獲加多支鹵」が雄略天皇のことだと確定すれば、それはそれでよいのである。「獲加多支鹵」が誰なのかを調べるのに、「ワカタケル」と読んでしまって、最初から雄略天皇のことだと決めてかかっては話にならないのである。
  そういうことで「辛亥年」、「斯鬼宮」について、資料が示すところに従って考えてみることにする。

  「辛亥年」について-倭王武は雄略天皇か

  ヤマト中心史観による見方では、この鉄剣に刻まれている「獲加多支鹵」は雄略天皇のことだとするが、その雄略天皇は『宋書』の倭の五王の一人「武」だともいう。そこでこの時代の倭国と倭の五王について、『宋書』にはどのように書かれているのか、本紀と夷蛮伝からみてみることにする。

(本紀第五 文帝)

●元嘉七年〔430〕春正月癸巳(中略)是月 倭國王遣使獻方物

●十五年〔438〕夏四月(中略)己巳 以倭國王珍爲安東將軍

●二十年〔443〕是歳 河西國 高麗國 百濟國 倭國並遣使獻方物

●二十八年〔451〕秋七月甲辰 安東將軍倭王倭濟進號安東大將軍

(本紀第六 孝武帝)

●大明四年〔460〕十二月(中略)丁未 車駕幸建康縣 原放獄囚 倭國遣使獻方物

●六年〔462〕三月(中略)壬寅 以倭國王世子興爲安東將軍

(本紀第十 順帝)

●昇明元年〔477〕冬十一月己酉 倭國遣使獻方物

●二年〔478〕五月戊午 倭國王武遣使獻方物 以武爲安東大將軍

(夷蛮伝)

○高祖永初二年〔421〕詔曰 倭讃萬里修貢 遠誠宜甄 可賜除授

○太祖元嘉二年〔425〕讃又遣司馬曹達奉表獻方物 讃死 弟珍立 遣使貢獻 自稱使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王 表求除正 詔除安東將軍倭國王 珍又求除正倭隋等十三人 平西征虜冠軍輔國將軍號 詔竝聽

○二十年〔443〕倭國王濟遣使奉獻 復以爲安東將軍倭國王

○二十八年〔451〕加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東將軍如故 并除所上二十三人軍郡 濟死丗子興遣使貢献

○丗祖大明六年〔462〕詔曰 倭王丗子興 奕丗載忠 作藩外海 稟化寧境 恭修貢職 新嗣邊業 宜授爵號 可安東將軍倭國王 興死弟武立 自稱使持節都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大將軍倭國王。

○順帝昇明二年〔478〕遣使上表曰 封國偏遠 作藩于外 自昔祖禰 躬擐甲冑 跋渉山川 不遑寧處 東征毛人五十五國 西服衆夷六十六國 渡平海北九十五國(中略)詔除武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王

  このほかに『晋書』帝紀(五王の一人かどうかは確定できない)、「倭王武」については『南齊書』東南夷伝、『梁書』本紀にも記録がある。

(『晋書』帝紀第十 安帝)

義熙九年〔413〕高句麗 倭國及西南夷銅頭大師並獻方物

(『南齊書』東南夷伝)

建元元年〔479〕進新除使持節都督倭新羅任那加羅秦韓六國諸軍事安東大將軍倭王武 號爲鎭東大將軍

(『梁書』本紀第二 武帝)

天監元年〔502〕鎭東大將軍倭王武進號征東大將軍

 これを本紀・夷蛮伝を区別せずに、年代順に並べると

義熙九年〔413〕高句麗 倭國及西南夷銅頭大師並獻方物

○高祖永初二年〔421〕詔曰 倭萬里修貢 遠誠宜甄 可賜除授

○太祖元嘉二年〔425〕又遣司馬曹達奉表獻方物 〔?年〕讃死弟立 遣使貢獻 自稱使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王 表求除正 詔除安東將軍倭國王 珍又求除正倭隋等十三人 平西征虜冠軍輔國將軍號 詔竝聽

●元嘉七年〔430〕春正月癸巳(中略)是月 倭國王遣使獻方物

●十五年〔438〕夏四月(中略)己巳 以倭國王爲安東將軍

●二十年〔443〕是歳 河西國 高麗國 百濟國 倭國並遣使獻方物

○二十年〔443〕倭國王遣使奉獻 復以爲安東將軍倭國王

●二十八年〔451〕秋七月甲辰 安東將軍倭王倭進號安東大將軍

○二十八年〔451〕加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東將軍如故 并除所上二十三人軍郡 〔?年〕濟死丗子遣使貢献

●大明四年〔460〕十二月(中略)丁未 車駕幸建康縣 原放獄囚 倭國遣使獻方物

●六年〔462〕三月(中略)壬寅 以倭國王世子爲安東將軍

○丗祖大明六年〔462〕詔曰 倭王丗子 奕丗載忠 作藩外海 稟化寧境 恭修貢職 新嗣邊業 宜授爵號 可安東將軍倭國王 〔?年〕興死弟立 自稱使持節都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大將軍倭國王。

●昇明元年〔477〕冬十一月己酉 倭國遣使獻方物

●二年〔478〕五月戊午 倭國王遣使獻方物 以武爲安東大將軍

○順帝昇明二年〔478〕遣使上表曰 封國偏遠 作藩于外 自昔祖禰 躬擐甲冑 跋渉山川 不遑寧處 東征毛人五十五國 西服衆夷六十六國 渡平海北九十五國(中略)詔除使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王

建元元年〔479〕進新除使持節都督倭新羅任那加羅秦韓六國諸軍事安東大將軍倭王武 號爲鎭東大將軍

天監元年〔502〕鎭東大將軍倭王武進號征東大將軍

となる。さらにこれを年次と倭国王だけに絞ると

413年   倭国王
421年  倭国王讃
425年  倭国王讃
430年  倭国王?
438年  倭国王珍
443年  倭国王濟
451年  倭国王濟
460年  倭国王?
462年  倭国王世子興
477年  倭国王?
478年  倭国王武
479年  倭国王武
502年  倭国王武

となる。413年、430年、460年、477年の倭国王は不明であるが、477年については、478年に遣使したのは武であるから、このときも武だったのではないかと、一般的には考えられている。
  白石太一郎氏監修の『東アジアと江田船山古墳』収録のシンポジュウムの中で、[462年に倭の世子興が使いを送った。昇明元年、477年には倭国が朝貢し、さらに478年倭国王武が朝貢したということが書いてある。ですから、477年に興が朝貢しているわけだから、稲荷山古墳鉄剣が471年だとすると、この時の倭国王は興であって武ではない。それにもかかわらず、稲荷山鉄剣の「ワカタケル大王」を武と考えるのはなぜか]という質問に対し、白石氏は次のように言っている。

  昇明元年、477年に倭国が宋に朝貢したという記事は確かにあるのですが、「倭国が宋に使いを遣わして方物を献ずる」ということが書いてあるだけであって、倭国王の名前は書いてなかったと思います。従って、一般には477年の倭王は武であったというように理解されていると思います。・・・そういうことで稲荷山鉄剣の「ワカタケル大王」は雄略、すなわち倭王武であるという説が定説化しているわけです。

  しかしこの説明では、「477年に遣使したのは誰とも書いてないから、それは倭国王世子興である」としてもよい、という意味にもとれる。それが「武」であるというのは、「ワカタケル=雄略天皇=武」という等式が、この鉄剣銘を解読する前にすでに存在しているからである。「ワカタケル=雄略天皇=武」という等式を抜きにした、誰もが納得しうる、資料に基づいた説明がされるべきではないだろうか。
  そういう私も、477年に遣使したのは、資料上倭王武でよいと考えている。夷蛮伝の元嘉二年〔425〕の讃の遣使記事の後、讃が亡くなると弟珍が王となり遣使してきたとある。また本紀には、元嘉七年〔430〕に倭国王が遣使してきたことが書かれている。このことから、讃が亡くなった後、倭王珍が最初に遣使したのは元嘉七年〔430〕のことだったのではないか、とみることができるのである。同じようにして、本紀の大明四年〔460〕に遣使した倭国王は「興」だったとみることができる。このように考えると、武が倭王となった後の最初の遣使記事が昇明元年〔477〕の記事となったのではないかと推測され、この倭国の遣使は「武」によるもの、とするのが理にかなっているように思われるのである(ただしこれは前後関係からの推測に過ぎず、史実は異なるかもしれない)。これが正しいとすると、武の即位は477年に比較的近い時期だったと考えられ、辛亥年〔471〕に武が倭王となっていた可能性は逆に低くなる。
  しかしたとえ辛亥年〔471〕に武が倭王となっていたとしても、ここで重要なのは、このことが「倭王武=雄略天皇」を意味しているわけではないということである。雄略天皇の即位は『日本書紀』によれば457年である。しかし「武」が倭国王となったのは、『宋書』を読めばわかるように462年以降である。477年遣使の直前かもしれない。また雄略天皇が崩じたのは479年とされるが、倭王武は502年に梁の武帝から称号をもらっている。残りの四人の倭王についても、年次は当然のこと、親子兄弟関係も含めて、『宋書』と『日本書紀』の記録には一致するものがほとんどない。この二つの資料の矛盾をどう考えたらよいのか、ということは非常に重要なのであるが、定説ではこのことに関しては寛容でありかなり大雑把である。だいたい合っているらしい。しかし資料は明らかに「倭王武≠雄略天皇」を示している。
  倭王武が雄略天皇ではないとすれば、「武」は雄略天皇の名「大泊瀬幼武」からその一字「武」をとったものである、という説はまったく虚しいものとなる。そうなると、仮に鉄剣の「獲加多支鹵」を「ワカタケル」と読み、雄略天皇のことだとしても、それは倭王武のことではなく、ヤマトが朝鮮半島に進出していた証拠はなくなり、ヤマトは倭国ではないことを露呈したことになる。
  倭の五王に関しては、「倭王武は雄略天皇とみてほぼ間違いない」という研究者が多いが、一体何をもってそういえるのか、私にはまったく理解できない。多くの貴重な資料は一体何のために存在しているのか、聞いてみたいものである。寂しいことであるが、これが日本古代史界の現実である。

 「斯鬼宮」について

  鉄剣銘文には「獲加多支鹵大王」の役所は「斯鬼宮」にあったと書かれている。そうすると「斯鬼宮」があった場所がわかれば、「獲加多支鹵大王」は誰なのか、おおよその見当もつくはずである。
  ヤマト中心史観の人たちは、当然これを大和国の磯城だとする。しかも「獲加多支鹵」は「ワカタケル」すなわち雄略天皇だという。しかしこれは資料に合わない。雄略天皇が「治天下」したのは、雄略天皇の名に「泊瀬」があるように「泊瀬朝倉宮」なのである。「磯城宮」ではない。
  元興寺伽藍縁起并流記資財帳(奈良元興寺の縁起について書かれたものであり、天平19年〔747〕に成立した)には「治天下」を含む天皇の名が書かれている。

○斯歸嶋宮治天下天國案春岐廣庭天皇(欽明天皇)
○池邊列槻宮治天下橘豐日命(用明天皇)
○楷井等由羅宮治天下等與彌氣賀斯岐夜比賣命(推古天皇)

 見てわかるように、これらは「治天下」した宮のあった場所と王名の組合せで書かれており、このように書くことにより、ただ一人の天皇を確実に特定することができるのである。鉄剣銘の「斯鬼宮」も「獲加多支鹵」との組合せによって、ただ一人の大王を特定していることがわかる。
  つまり、雄略天皇は泊瀬の朝倉で「治天下」したのであるから、「獲加多支鹵」が雄略天皇その人であることを証明するには「泊瀬朝倉宮治天下獲加多支鹵大王」でなければならないことになる。しかしこの鉄剣銘は「斯鬼宮治天下獲加多支鹵大王」であったことを示している。これは「獲加多支鹵」が雄略天皇であることを証明するどころか、逆に雄略天皇ではないことを証明していることになるのである。
  ところで『古代地名大辞典』(角川書店)によれば、朝倉の比定地には三説あり、一つは奈良県桜井市黒崎の天の森、一つは同市岩坂上岩坂の磐坂谷、もう一つは同市脇本・慈恩寺付近だとする。一方磯城は、桜井市穴師西方辺りのことではないかという。
  朝倉の比定地である三地域は三輪山の南、近鉄大阪線に沿った地域であり、磯城の比定地である穴師西方は三輪山の西北、巻向駅の東方の地域である。朝倉の比定地と磯城の比定地には地理的に大きな隔たりがある。「磯城宮」と「朝倉宮」は明らかに別のものである。
  『古代地名大辞典』の「朝倉」の項で、『古事記』垂仁天皇段にみえる「倭者師木登美豐朝倉曙立王」が紹介されているが、この名前には「師木」と「朝倉」が並んで記されており、ここからも「師木」は「朝倉」とは別の地域であることがわかる。
  このように、これまでに言われてきた比定地からも、また『古事記』が記す曙立王の名前からも、「磯城」は「朝倉」ではないことは明白である。したがって、「斯鬼宮」にいた「獲加多支鹵大王」を「朝倉宮」にいた「大泊瀬幼武」、つまり雄略天皇に当てるのはまったくの筋違いだということになる。
  しかし白石太一郎氏は前掲書の中で、「泊瀬朝倉宮は磯城にあるわけで、これも合っている」と言う。朝倉と磯城の比定地、『古事記』が記す曙立王の名前にある師木と朝倉、これらの資料は一体何のために存在しているのだろうか。「斯鬼宮」を「磯城宮」とし、「磯城宮」は「朝倉宮」のことだとする見方に、資料的根拠を見つけることはできない。白石氏の物言いには、「獲加多支鹵」は雄略天皇のことだとしたい、という思いしか見えない。
  中国史書と『日本書紀』を比較すれば、倭王武は雄略天皇ではないことがわかり、稲荷山古墳出土鉄剣銘と『日本書紀』を比較すれば、「獲加多支鹵」が「ワカタケル」と読めたとしても、「獲加多支鹵大王」は雄略天皇ではないことがわかる。
  「獲加多支鹵」は「ワカタケル」と読めるから雄略天皇のことである、ということから出発すると、とんでもない間違った方向に進んでしまう。何も特別難しいことを言わなくても、資料を素直に分析していけばわかることを、なぜ資料に矛盾してまで、そういった学説を出さなければならないのか、いつも割り切れない気持ちになる。しかし私がここまで述べてきたことから、この鉄剣銘の「獲加多支鹵」には『日本書紀』の雄略天皇に結びつく資料証拠(当然矛盾のない)はないこと、また、『宋書』の倭王武が雄略天皇である資料証拠(当然矛盾のない)も存在しないことが、一般知識として確かめられたのである。

 古墳の被葬者と鉄剣

  稲荷山古墳の被葬者と出土鉄剣の関係については、これまでに様々な説が出されているが、おおよそ次の四つに集約されるように思われる。

乎獲居の家は代々埼玉の大王家に杖刀人の首として仕えていたが、乎獲居は大王の役所が埼玉の斯鬼宮にあったとき治天下を補佐したので、それを記念し鉄剣をつくった。(古墳の被葬者と鉄剣の持ち主は同じ。)

乎獲居の家は埼玉からヤマトに出仕し、代々天皇家に杖刀人の首として仕えていたが、乎獲居は雄略天皇の役所が斯鬼宮にあったとき治天下を補佐した。役目を終え埼玉に帰ったが、そのときのことを記念し鉄剣をつくった。(古墳の被葬者と鉄剣の持ち主は同じ。)

乎獲居の家は中央の出身で代々天皇家に杖刀人の首として仕えていたが、乎獲居は雄略天皇の役所が斯鬼宮にあったとき補佐した。役目を終えた後埼玉に下向し、治天下を補佐したときのことを記念し鉄剣をつくった。(古墳の被葬者と鉄剣の持ち主は同じ。)

乎獲居の家は中央の有力豪族であり、古墳の被葬者は埼玉の地方豪族である。鉄剣は中央の有力豪族から、提携関係にあった埼玉の地方豪族に下賜されたものである。(古墳の被葬者と鉄剣の作製者は異なる。下賜されたものと銘文との関わりはない。)

 結論からいうと、②③④は「獲加多支鹵」を雄略天皇とするものであり、私の資料批判からはありえない。しか存在しえないのである。しかし、大勢はか、であり、白石氏はを唱えている。
  ②③④は私にはありえない説であるが、少しコメントを加えておきたい。

について
  ここでは何よりも、関東の埼玉を根拠地とする地方豪族が、代々杖刀人の首としてヤマトに出仕し、しかも天皇の治天下を補佐する身分となりうるのか、ということが最大のネックである。これは普通では考えられない。また雄略天皇のときに、天皇を補佐する「乎獲居」という人物がいたという記録も『日本書紀』にはない。

について
  代々天皇家に杖刀人の首として仕えていた者が、しかも天皇の治天下を補佐するという栄誉を勝ち得、それを誇りとしている者が、なぜ中央のヤマトから関東の埼玉に下向しなければならなかったのか、疑問として残る。また、それほどの人物であるなら『日本書紀』に記録されていてもよいはずであるが、それもない。

について
  この説に対しては、乎獲居の家にとって非常に大切な剣を、他人である、しかも地方豪族に下賜したりするだろうか、という疑問が出されている。当然の疑問であるが、白石氏はこの説の根拠(背景)として、稲荷山古墳の後円部からは二つの埋葬施設が見つかっているが、鉄剣は中心的埋葬施設ではなく追葬された人物の埋葬施設から出土していること(古墳被葬者の家にとってそれほど大切な剣ではなかったのではないか、ということ)、北武藏の郡司には丈部直を名乗るものが多いが、この丈部を中央で統括しているのが阿倍氏であり、乎獲居は阿倍氏のように中央で軍事をつかさどっていた有力豪族ではないかと考えられること、などを挙げている。
  しかし、鉄剣は乎獲居が自らの奉事を記念し作り、乎獲居が先祖からの古墳に埋葬されたとすれば、鉄剣は乎獲居とともに埋葬されるだろうし、後円部の中央にすでに先代の埋葬施設があれば、追葬施設は当然中央部には造れない。また、「乎獲居は阿倍氏のように中央で軍事をつかさどっていた有力豪族」とするのも単なる推測であって、『日本書紀』には乎獲居という名前も、乎獲居が天皇の治天下を補佐したという記録もない(天皇の治天下を補佐した人物なら記録されているはず)。さらに、阿倍氏と北武蔵の地方豪族の関係を例に引いても、乎獲居が地方豪族に剣を「下賜」したという行為の証明にはならない。

  ②③④の説は「獲加多支鹵=雄略天皇」であってこそ成立する説であるが、それは『日本書紀』と稲荷山古墳出土鉄剣銘が示す資料事実に矛盾する。「獲加多支鹵≠雄略天皇」という、資料が示すところに従うならば、ありのままの説でよいのではないか。説ではないというのは、資料に矛盾しようがどうしようが、この時代にはヤマトは関東から九州までをその勢力下に入れていたはずだ、というヤマト中心史観がなせる業としか私には思えない。関東の埼玉に「獲加多支鹵」なる大王がいても、歴史は決して転覆などしないのである。

 今回は稲荷山古墳出土鉄剣に絞って考えてみたが、その結果、「獲加多支鹵」は雄略天皇ただ一人を特定するものではないことがわかった。そうなると江田船山古墳出土大刀銘文についても、「獲○○○鹵」がたとえ「ワカタケル」と読めたとしても、そのことだけでは「獲○○○鹵」が雄略天皇であると断定することはできなくなるのである。
  江田船山古墳出土大刀は大刀とあるように剣ではなく刀であり、銘文は刀のみねに彫られ、銘文の主旨は子孫繁栄である。一方稲荷山古墳出土鉄剣は剣であり、銘文は剣の両面に彫られ、銘文の主旨は奉事の記念である。この違いはこれまでにも指摘されていたが、両者とも中央から地方豪族に下賜されたもの、という定説を覆すまでには至らなかった。しかし稲荷山古墳出土鉄剣の「獲加多支鹵」が雄略天皇ではないとするならば、この定説はもろくも崩壊することになる。江田船山古墳からは多くの百済系遺物が出土しており、私には別の歴史の匂いがする。「ワカタケル」というのは、扱い方によっては非常に危ない存在となりかねないのである。

  稲荷山古墳出土鉄剣銘にある「獲加多支鹵」が「ワカタケル」と読めることで、研究者は小躍りしたかもしれないが、このことが彼らを盲目にしてしまったといえるかもしれない。鉄剣には「ワカタケル」が「治天下」したのは「朝倉宮」ではなく「斯鬼宮」だと書かれているにもかかわらず、『古事記』『日本書紀』では「朝倉宮」で「治天下」したと書かれている雄略天皇をこの「ワカタケル」だという。単なる「斯鬼」ではなく「宮」が付いていることも重要であり、これは「磯城の朝倉宮」ではないことを示している。朝倉と磯城はまったくの別地域であり、しかも「朝倉宮」と「磯城宮」はまったく別ものである。「ワカタケル」に目がくらんだとしか言いようがない。
  一つの目的のためには、多少の矛盾は無視しながら、各々の資料の都合のよいところだけ利用する。定説といわれているものには、こういう傾向が多々あるように私には見える。古代史ブームといわれて久しいが、日本古代史とはこうやって構築されていることを、日本人の権利としてもっと知らされるべきであり、また日本人として知るべきではないかと私は思う。

史料「宋書の倭の五王と日本書紀の天皇 比較」 追加 2022.02.08

※「辛亥年について」の項で、原文に『晋書』帝紀、『南齊書』東南夷伝、『梁書』本紀記事を追加した。2008.03.02
※「銘文の読み方」の項で、[すべて呉音で読むと「ワカタキル」となる]と書いたが、「ワカタシル」の書き間違いであり訂正した。2008.03.04


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