「日出處天子」について

2007.12.14

 俀王の国書

 中国正史『隋書』は、日本の歴史研究にとって非常に重要な史書である。俗に聖徳太子が書いたと言われている、隋の煬帝に送った国書があるからではなく、日本の歴史全体の流れを把握するのに重要な要素を含んだ記録が多々あるからである。中国と倭国との関係、倭国の地理地形、邪靡堆(邪馬臺)の位置などがそうである。その詳細についてはこれまでにも何度か述べてきたので、それらを参照していただくとして、今回は聖徳太子が書いたと言われている、有名な国書について考えてみたいと思う。
  『隋書』東夷伝国の後段に、大業3年(607)、国王・阿毎多利思北孤が隋に遣使朝貢し国書を送ったときの状況が書かれている。

其國書曰 日出處天子致書日没處天子無恙云云 帝覽之不悦 謂鴻臚卿曰 蠻夷書有無禮者 勿復以聞

 王・阿毎多利思北孤は自らを「日出處天子」と呼び、中国皇帝を「日没處天子」と呼んだ。これに対し皇帝の煬帝は「蠻夷書有無禮者 勿復以聞」と言ったとあるが、翌年煬帝は国に使者・裴清を送るのである。これだけだと少し矛盾に感じるのであるが、煬帝が無礼な蠻夷に使者を送ったのは、裴清が多利思北孤の問いに答えて、「皇帝徳並二儀 澤流四海 以王慕化 故遣行人來此宣諭」と言い、館に帰ってから人を遣り、王に「朝命既達 請即戒塗」と言ったように、礼儀を教え諭すためだったと考えられる。
  この「日出處天子」ではじまる国書は聖徳太子が書いた(創文した)ものだという説が、かなり定着してしまっている観もあるが、これにはまったく根拠がない。まず、聖徳太子が書いた、とするためには国がヤマトでなければならないのであるが、このようにいう人の中で、『漢書』地理志から『新唐書』までの中国正史を通して、矛盾なくそれを証明している人はいない。『隋書』は、その国は国だと書いており、国の都は邪靡堆であり、それは『魏志』でいう邪馬臺だという。「邪馬臺」は「邪馬台」ではなく、「臺」は「ト」とは読まない。また国の地形は「東西五月行 南北三月行 各至於海」とあるように、長方形をした島国だと書き、一方『旧唐書』によれば、日本(ヤマト)は「其國界東西南北各數千里 西界南界咸至大海 東界北界有大山爲限 山外即毛人之國」とあるように、それは島国ではなく、したがって国はヤマトではありえない。こういった明らかな史料があるにもかかわらず、「日出處天子」の国書は聖徳太子が書いた(創文した)もの、と言い続けることは、史料を基本とした歴史という学問を放棄したことに等しい。これは、そうであって欲しいという願いと、先入観のかたまり以外のなにものでもない。

 『日本書紀』の「東天皇」

  隋の使者裴清は『日本書紀』では唐の使者裴世清として登場する。推古天皇16年(608)8月、裴世清が入京し皇帝からの書を読み上げた。その書の冒頭には「皇帝問倭皇」とあったと『日本書紀』は書く。しかしここにはすでにいくつかの疑問点が存在している。
  一つは、この時代は唐ではなく隋である、ということである。これにはただ単に勘違いだったでは済まされない問題がある。なぜなら、この書は皇帝から倭王への書であり、最後には煬帝のサインがあったはずだからである。それを無視して唐だと書いていることに、少なからず作為を感じるのである。
  また一つは、なぜ『日本書紀』は「倭皇」と書いたのか、ということである。『日本書紀』は大和地域を指す場合を除き「日本」と書いており、「倭」は使用していない。思うに、これは『日本書紀』の「倭」から「日本」への変換洩れではないだろうか。言い換えれば、「皇」という字が書いてあったかどうかはわからないが、中国皇帝の書には「倭」と書いてあったということである。この時代、中国が「倭」「倭国」と書く場合、それは『漢書』地理志以来の倭人の国、九州にあった倭国を指している。つまりこの書は、煬帝が九州の倭国王に宛てて書いたものである可能性が高い、ということになる。ただしその内容には『日本書紀』編纂時に何らかの手が加わっている、ということを想定しなければならない。
  同年の6月条には、小野妹子が唐の皇帝から授かった書簡を百済に奪われてしまったという記事がある。しかし、百済は『日本書紀』ではヤマトの臣下だったはずであり、また何のために奪う必要があったのか、その理由もまったくわからない。「皇帝問倭皇」の書が倭国宛てだったとすると、ヤマトへの書簡などもともとなかったことになり、それでは日本の天皇としての立場がなくなってしまう。そこで百済に奪われたことにし、体裁を繕ったということも考えられるかもしれない。その証拠に小野妹子には何のお咎めもなく、この話しは終わっている。また、この書がヤマト宛てだったとすると、皇帝は天皇に書を二通送ったことになり、その必要性や両国の上下関係から考えてもおかしなことになる。
  また同年の9月、裴世清の帰国に際し、天皇が皇帝を聘うた、その辞には、「東天皇敬白西皇帝 使人鴻臚寺掌客裴世清等至 久憶方解」と書かれていた。これを『隋書』の「日出處天子致書日没處天子無恙」と比較してみると、二つの書の字句間には大きな違いがあることが、はっきりとわかる。この二つの文書が同じ国の王によって書かれたとはとても思えないのである。「東天皇敬白西皇帝」は礼儀を心得た書き方をしており、聖徳太子の創文だと言われれば納得できないことはない。『隋書』は、裴清が都(邪靡堆)に到着したとき、俀王は裴清とすぐに会おうとはしなかったと書く。その理由を、「我夷人 僻在海隅 不聞禮義 是以稽留境内 不即相見」と俀王自ら言っている。俀王は礼儀がよくわからなかったのである。礼儀を心得た文書と礼儀がわからずに書いた文書、その違いがここに如実に現われたとみることができる。多利思北孤にとっては「日出處天子」も「日没處天子」も、単に位置的な意味しかもっていなかったのかもしれない。
  「日出處天子致書日没處天子無恙」は王・阿毎多利思北孤が書き、「東天皇敬白西皇帝 使人鴻臚寺掌客裴世清等至 久憶方解」はヤマトの聖徳太子が書いた(創文した)、と考えれば特に問題はないといえる。ただしこれは、国は九州にあり、ヤマトは畿内にあった、という見方が基本になるが。
  ここでもう一つ「久憶方解」について、少し話しておかなければならない。隋使が来たことに対し、「久しい思いが、今ここに解けた」という意味になると思われるが、やっと願いがかなった、ということであり、この主体が昔から中国と通交のあった倭国だったとすると、この表現は非常に不自然なことになる。しかし、『新唐書』に「次用明 亦曰目多利思比孤 直隋開皇末 始與中國通」とあるように、その主体が、6世紀末の用明天皇の時代になってはじめて中国と通交した日本(ヤマト)だったとすれば、「久憶方解」は非常に思いのこもった表現であることが理解できるようになるのである。608年になってはじめて隋から使いが来たことに対し、日本(ヤマト)の天皇は「久憶方解」と表現したのである。
  従来、『日本書紀』の記事と似た記事が『隋書』にもあるということで、二つの記事を同一記事として融合させ、不足部分を補い合って日本の歴史を構築してきたようであるが、この方法には基本的な欠陥がある。それは、『日本書紀』の記事と『隋書』の記事が同一国の同一事件であることが証明されていない、ということである。史料に忠実でなかったりすると、証明というのはなかなか難しいものになるのではあるが・・・。

 阿毎多利思北孤と聖徳太子

  608年は推古天皇16年にあたる。隋の使者が俀国に来たのはこの年のことである。『隋書』には、王の妻は「雞彌」と呼ばれたとある。このことから、俀王・阿毎多利思北孤は男王であることがわかる。『日本書紀』の唐使記事と『隋書』の隋使記事を同一事件記事だとすると、推古天皇は女帝であるから、この時点ですでに『日本書紀』と『隋書』では大きな矛盾が存在することになる。そこでこの矛盾を解消するため、いくつかの説が生まれ、やがて阿毎多利思北孤とは聖徳太子のことだとされるようになった。なぜそういう風になってしまうのか、私には不思議でならない。『隋書』を読めば俀王は隋使裴清と会見して問答していることがわかる。したがって、裴清は王ではない多利思北孤を王だと思い込んで、その問いに答えたことになる。しかしこれはありえないことであり、『隋書』を読む限り、阿毎多利思北孤は間違いなく俀国の男王である。聖徳太子は阿毎多利思北孤ではないのである。つまり、阿毎多利思北孤を聖徳太子だとする見方は、『隋書』を否定することによってのみ成立可能となるのである。しかしおもしろいことに、これらの人たちは『日本書紀』自身の「東天皇敬白西皇帝」にはあまり触れず、自ら否定しているはずの『隋書』の、「日出處天子」だけは聖徳太子が創文したものだと、大々的に主張するのである。
  推古女帝と男王・阿毎多利思北孤という二人の王が同時に存在していたのだったら、そこには国が二つあったと考えればそれでよいのではないか。こういった見方は、『漢書』地理志から『新唐書』までに書かれている、倭・倭国と日本国の出現及び二国の関係を素直に見る目があれば、何も特別難しいことを考えなくても自然と生まれてくるものである。頭から「倭(わ)=日本(ヤマト)」だと決めつけているから、わが道を守るために、ありえない理論を展開したり、重要史料を否定せざるをえなくなったりするのである。
  『隋書』の「日出處天子致書日没處天子無恙」は、隋と対等の立場になって外交を進めようとする聖徳太子が創文したもの、という見方はいかにもありそうであるが、少し冷静になって考えてみれば、聖徳太子はその名からいっても、徳や礼儀を備えた聖人であったはずであり、『日本書紀』の「東天皇敬白西皇帝」のほうこそ、聖徳太子にふさわしい文書であることがわかる。隋の使者の来日に対し「久憶方解」という思いを持った日本の、儒教や仏教に造詣の深かった聖徳太子が、礼儀を重んずる国に対して、その礼儀に反した「日出處天子致書日没處天子無恙」というような文書を創ること自体、その歴史の流れからいってありえないことなのである。
  何をもって阿毎多利思北孤を聖徳太子だというのか。その根拠はいかにも希薄である。私には、『日本書紀』の「東天皇敬白西皇帝」と『隋書』の「日出處天子致書日没處天子無恙」は、聖徳太子と阿毎多利思北孤の徳・礼儀、また品格の差までも表しているように思えてならない。歴史解釈だとはいっても、聖徳太子と阿毎多利思北孤を一緒にしたのでは、聖徳太子に対してあまりにも失礼であるような気がする。

 『日本書紀』にはない「日出處天子」

  これまでみてきてわかるように、『日本書紀』には「日出處天子」ではじまる日本天皇からの国書というものはない。『隋書』の「日出處天子致書日没處天子無恙」は、俀王・阿毎多利思北孤が大業3年(607)に隋に遣使朝貢したときに煬帝に送った国書である。
  『記紀』など日本の古代史料には、君子国日本の思想がふんだんにちりばめられている。それは私も認めるところである。「倭=日本」とする研究者は、ときどきこの思想を持ち出し、『宋書』に書かれている倭の五王が『日本書紀』にはない理由を説明したりしている。つまり、倭の五王(讃・珍・斉・興・武)は中国宋に遣使し、宋の皇帝から冊封を受けたのであるが、それは君子国日本にとってふさわしくなかったので『日本書紀』は記録しなかった、というのである。しかし『日本書紀』をよく読んでもらいたい。神功皇后紀には、39年(359)「魏志云 明帝景初三年〔239〕六月 倭女王遣大夫難斗米等 詣郡求詣天子朝獻 太守鄧夏遣吏將送詣京都也」、43年(363)「魏志云 正始四年〔243〕 倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻」とあり、わざわざ『魏志』を引用し、倭王が中国に遣使朝貢したことを強調している。この記事は二運(120年)ずれており、また『魏志』を引用していること自体、ヤマトが倭国ではないことを露呈しているのであるが、それでもこうして記録したのである。引用書も『魏志』とはっきり書いており、『魏志』を読めば「今以汝爲親魏倭王 假金印紫綬 装封付帶方太守假授汝」も読むはずであり、宋皇帝の冊封とまではいかなくても、同様の状況であったことは容易にわかるはずである。こういった点をみても、倭の五王が『日本書紀』にないことを、「君子国日本の思想」だけで片付けてしまうわけにはいかないのである。『日本書紀』の思想にそぐわない部分は削除して載せれば済むことでもあり、思うにこの理由は、倭の五王の資料が手元になかったか、あるいはそれを記録する必要性がなかったかのどちらかである。いずれにしても、倭の五王の歴史はヤマトの歴史ではなかった、ということになる。
  もし「日出處天子」が聖徳太子の創文であり、「君子国日本の思想」で『日本書紀』が隋(唐)使記事を書いたとするならば、なぜ「日出處天子」は『日本書紀』に記録されなかったのだろうか、という疑問が起きる。自国の歴史であれば、中国史書から引用しなくても歴史は書ける。この事件は倭の五王の場合とはまったく逆で、「君子国日本の思想」にも合致している。しかしそれにもかかわらず、『日本書紀』は「日出處天子」を書かなかった。書いたのは「東天皇敬白西皇帝」だった。その理由は・・・。もうこれ以上何も言わなくてもわかるだろう。

  日常生活の中で、ある二つのものが存在し、それらは互いに似てはいるが、一致しない部分も多々あり、はたして同じものなのかどうかわからない場合、私たちは一体どうするだろうか。似ているのだから同じものだろうで済ましてしまうだろうか。それが大事なものだったらそうはしないはずである。先ずそれらを別々に調べて、その結果を比較し、一致する点、異なる点を拾い出し、その上でその二つのものが同じものなのかどうかを判断するに違いない。歴史学においても、歴史が学問であるというのならば、当然これと同様の方法をとるはずである。特に今、歴史学も一つの科学でなければならない時代に来ている。それは難しい化学式や物理の数式を指しているのではなく、矛盾のない理論構築のことをいうのだと私は理解している。これまで日本古代史はあまりにも非科学的過ぎた。もうそろそろ、科学としての歴史に目覚めてもよい頃だと、私は思うのであるが・・・。


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