『日本書紀』の二重構造

2007.11.17

  倭国と日本国の歴史

 このホームページの本論部分は、「雑考ノート(古代史ノート)」を書き始める前に、それまでの私の考え方の概要を書いたものである。それは人類学・遺伝学と古代史資料では中国史料を基本においたものであった。そこでは日本の史料も扱っているが、まだ『日本書紀』を詳しく扱うという段階には至っていなかった。しかし「雑考ノート」で「『日本書紀』の任那」1~6を書いていくうちに、『日本書紀』のメインテーマといってもよい「任那」が、それまで自分がイメージしていた任那とはまったく異なったものであることを知った。どう読んでも、任那日本府を通じてヤマトが朝鮮三国を支配していたようには読めないのである。日本府はそれほど重要な役目を果たしていない。中心は百済なのである。このとき、『日本書紀』の本質の一端を覗き見た思いがしたのである。
  また任那は加耶・加羅だというのが定説のようになっているが、任那が加耶・加羅であるということを示す史料は何一つない。『三国史記』や『三国遺事』が朝鮮半島南部の南端を加耶・加羅としていることから、任那が朝鮮半島にあるならば、それは加耶・加羅にちがいないということのようである。しかし『三国史記』と『三国遺事』には、その主な歴史事件に関連するものとして加耶・加羅はあっても任那はなく、任那は『三国史記』「強首列伝」に「臣本任那加良人」とあるだけである。しかし高句麗好太王碑や『三国史記』に任那が登場するということは、任那が実在していた証拠であり、またそれは同時に、任那は加耶・加羅ではないということを証明していることにもなる。
  『日本書紀』を中国・朝鮮史料と比較しながら読むと、複雑で不透明だった『日本書紀』の姿も少しずつ浮かび上がってくる。『日本書紀』との比較資料として、中国・朝鮮史料は非常に重要なのである。そこで次に、本論部分と一部重複するが、中国・朝鮮の各史料から見た倭と日本の姿を、簡単におさらいしておくことにする。

○前漢時代、倭人はきまった時期に漢に朝貢していた。(『漢書』地理志)

○建武中元二年(57)、倭国の極南界にあった倭奴国王は、漢の光武帝から印綬を賜った。安帝永初元年(107)、倭国王帥升が漢に朝貢した。(『後漢書』東夷伝)

※建武中元二年(57)に倭奴国王が賜った印綬とは、志賀島から出土した金印(漢委奴国王)とみて間違いない。

○二世紀末、倭国に戦乱が起きるが、卑弥呼が倭国王に共立されると戦乱はおさまった。卑弥呼は魏に遣使し、魏の使者も倭国にやって来た。卑弥呼は親魏倭王の金印紫綬を賜わった。(『三国志』「魏書」烏丸鮮卑東夷伝)。

※帯方郡から邪馬壹国までの行程については省略する。

○百済は阿莘王六年(397)に倭国と好を結び、太子腆支を人質として倭国に送り、新羅は實聖尼師今元年(402)に未斯欣を人質として倭国に送った。未斯欣は後に朴堤上の策略で新羅に逃げ帰った。(『三国史記』)

○永楽十年庚子(400)、倭は新羅に侵攻したが、新羅救軍の高句麗軍に任那加羅まで追われ、その城も落ち敗れた。その後十四年(404)、倭は帯方に侵入し百済と和を通じるが、再び高句麗に潰された。(高句麗好太王碑)

※この時代は、百済と倭国は新羅に侵攻し、高句麗は新羅を救援するという勢力関係になっている。しかしその勢力は高句麗の方が圧倒的に強かった。朝鮮半島は『日本書紀』神功皇后紀のように、ヤマトが百済・新羅・高麗の三韓を官家としたなどという状況にはなかった。

○讃の弟の倭王珍は「都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と自称し、倭王済は「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東将軍」(451年)に、武は「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」(478年)に、宋の皇帝より除正された。(『宋書』夷蛮伝)

※宋帝への倭王武の上表文からは、高句麗は決してヤマトの官家ではないことがわかり、宋帝は倭王を除正するとき、倭の要求から百済をはずしている。高句麗にしても百済にしても、ヤマトに支配されていた様子はない。
  任那は、高句麗好太王碑に彫られていた任那のことであり、『日本書紀』がいう任那のことだとみてよい。

○加羅任那は7世紀中頃新羅に滅ぼされたが、その後も新羅の南7、8百里のところに並んであった。(『翰苑』新羅)

※『翰苑』文中に「今」と「昔」が出てくるが、『翰苑』成立は660年とされているから、「今」とは『翰苑』成立の少し前の時代を指し、「昔」とはその「今」から少し前の時代を指していると考えることができる。
  高句麗好太王碑によれば、任那は新羅にいた倭が高句麗軍に追われ逃げていったところであり、それは新羅の南7、8百里のところにあったことになる。

○新羅の強首は「本任那加良人」だった。(『三国史記』強首列伝)

※新羅武烈王の質問に、強首が「臣本任那加良人」と答えたものであるが、それは654年のこととされる。強首はこのとき20歳を過ぎていたと思われるが、仮に20歳だとすると、634年頃まで任那加良は存在していたことになる。『日本書紀』の任那が消えるのは646年であるから、任那加羅が新羅に滅ぼされたのはこの頃と考えることができ、中国・朝鮮史料の任那と『日本書紀』の任那は同一のものとみることができる。

○倭国は、その大きさは東西五月行、南北三月行で、それぞれ海に接している。都は邪靡堆で、魏志でいう邪馬臺のことである。倭国は魏から斉、梁にいたるまで中国と通交していた。(『隋書』東夷伝)

※隋は斉、梁の後に建国され中国を統一した国であり、(倭)王多利思北孤は隋に使者を送り(607年)、また隋も使者(裴清)を送ってきている(608年)。倭国は魏から隋の時代まで中国と通交していたことがわかる。
  邪靡堆までの行路は省略するが、この行路によって、邪靡堆は有明海北東部沿岸にあったことがわかる。

○倭国は古えの倭奴国であり、その大きさは東西五月行、南北三月行で、代々中国と通交していた。(『旧唐書』東夷伝倭国)

○日本国は倭国の別種である。その国は日辺にあったので日本を名としたとも、その名が雅びでないのを嫌った倭国が自ら日本と改めたとも、日本はもと小国だったが倭国の地を併せたともいう。その大きさは東西南北各数千里で、西と南は大海に接し、東と北には大山があり、その外は毛人の国である。(『旧唐書』東夷伝日本国)

※『旧唐書』東夷伝は倭国と日本国を記録する。倭国は代々中国と通交してきた国で、その地形は『隋書』が記す国の地形と同じだと『旧唐書』は書く。したがって卑弥呼の国も倭の五王の国も当然この倭国のことであり、好太王碑の任那、『宋書』の任那が関わった倭というのは、この倭国のことであるということになる。
  この倭国に対し、日本は中国正史においては『旧唐書』東夷伝に至ってはじめて登場する(正史ではない『通典』に「倭一名日夲」がある)。日本は東西五月行、南北三月行の大きさの国ではなく、東西南北各数千里で、西と南は海に接し、東と北には大山があり、その外には毛人の国がある、そういう地理の国だったのであり、日本が倭国でないことは明白である。

○日本は古えの倭奴で、その大きさは東西五月行、南北三月行である。都の大きさは方数千里で、南と西は海で、東と北は大山で遮られ、その外には毛人がいる。(『新唐書』東夷伝)

※『新唐書』東夷伝からは、同じ唐の時代を書いたものでありながら、倭国は消えている。『旧唐書』の倭国の地形が『新唐書』の日本の地形になり、『旧唐書』の日本の地形が『新唐書』の日本の都の地形になっている。
  『新唐書』は、用明天皇を「目多利思比孤」と書き、その時代は隋開皇の末にあたるとし、このときはじめて中国と通交したと書く。「目多利思比孤」も問題であるが、用明天皇のときにはじめて日本は中国と通交した、ということが重要である。日本は(魏の時代から代々中国と通交してきた)倭奴(この場合は倭国を指す)であるといっておきながら、一方では、用明天皇のときにはじめて中国と通交をもった国である、と事実を書いてしまったのである。
  『新唐書』の日本の地形は『旧唐書』の倭国と日本を融合したものであり、「やまと」が倭国を取り込み日本となったことの象徴的記録であると私にはみえる。『新唐書』の矛盾は「新生日本」の生みの苦しみの現われである。しかしながらこの『新唐書』の存在があるからこそ、「方数千里で、南と西は海で、東と北は大山で遮られている」日本(やまと)が、「東西五月行、南北三月行」の倭国を併せ「新生日本」になった、ということを知ることができるのである。

  これらの知識に、本論部分で扱った人類学・遺伝学の成果とノート「『日本書紀』の任那」1~7で得た知識を加え、資料整合し簡潔化したものが、ノート「倭国から日本国へ-その課題」で書いた、今後の古代史研究の1112の基本事項である。念のため、次に再掲する。

1世紀中頃、九州博多湾沿岸にあった倭奴国は、朝鮮半島南部から九州北部にかけてあった倭人国の代表だった(志賀島から「漢委奴国王」金印出土、『後漢書』倭伝)。

倭奴国は九州中南部へと進出するが、2世紀後半から3世紀初めにかけて、70~80年男王が続いた倭国に戦乱が起こり、その結果、倭国の代表は博多湾沿岸の倭奴国から有明海北東部沿岸の邪馬臺国に移った。倭国の範囲は九州全域か少なくとも九州中北部となった(『日本書紀』景行天皇の熊襲征討、『魏志』倭人伝、『隋書』俀国伝の行路、地理地形)。

7世紀の初め、倭国は九州島にあり、魏の時代から代々中国と通交していた。その都・邪靡堆(邪馬臺)は有明海北東部沿岸にあった(『隋書』国伝の行路、地理地形)。

倭国と日本国は別国である(『旧唐書』倭国伝)。

日本国は畿内地方である(『旧唐書』日本国伝の地理地形)。

日本国は用明天皇(目多利思比孤)の時代(直隋開皇〔581~600〕末)に、初めて中国と通交した(『新唐書』日本伝)。

倭国は倭奴国、邪馬臺国を中心に、当初は朝鮮半島南部から九州北部にかけて、その後は九州島全体、そしてさらに、その周りの島々を含めた倭人の国として、7世紀中後半まで存在していた(『後漢書』~『旧唐書』)。

日本国は7世紀後半に現われた国であるが、古くは九州などからの移住者で多くを占められ、それまでは「倭人の国山東」であった。「山東」は河内の「山の東」にあった倭人の国であることから「倭」と書かれ「やまと」と呼ばれたが、「日本」と改名する頃(7世紀後半)は、倭人ではなく北東アジア系渡来人を中心とした国になっていた(『旧唐書』、『新唐書』、元興寺伽藍縁起并流記資財帳、人類学・遺伝学)。

加耶と呼ばれたのは金官と高霊加耶であるが、婆娑尼師今以後に現われる加耶は高麗加耶のことを指していた。(『三国史記』、『三国遺事』)。

加羅には高霊加耶、任那加羅の加羅(三加羅)、任那十国の中の加羅の三つがあった(中国史書、朝鮮史料、『日本書紀』)。

任那は加耶ではない(中国史書、朝鮮史料、『日本書紀』)。

  『日本書紀』の主張

 『日本書紀』の構成は、ヤマトの内部的事件や帝紀部分を除くと、神話(天孫降臨を含む)彦火々出見(神日本磐余彦、神武天皇)の東征 ③景行天皇・日本武尊の九州熊襲征討 仲哀天皇の九州遠征と神功皇后の新羅征討 欽明天皇時代を中心とした任那での攻防 ⑥白村江での敗戦とその後の発展、というように分けることができるのではないかと思う。
  以外については、簡単に通り過ぎたものもあるが、本論、雑考ノートですでに述べてきたところである。ところで『日本書紀』には『古事記』にはない特徴がいくつかみられる。主なものを次に挙げる。

(A) はじめから「日本」を「やまと」と読ませ、国全体を表し、一方「倭(やまと)」は奈良県の大和地方に限定した使い方をしている。

(B) 任那記事がある。

(C) 白村江での敗戦記事がある。

  (A)の日本は、中国史料(『旧唐書』『新唐書』の倭国・日本記事)、朝鮮史料(『三国史記』)にみるように史実ではない。「日本」という字が使われたのは7世紀の終わり頃である。しかし奈良県の大和地方を限定して「倭(やまと)」と書いているのは、『旧唐書』の「日本」、『新唐書』の「日本の都」を想起させ、『日本書紀』の意識を感じる。「日本」の出現時期や『古事記』成立後に『日本書紀』が書かれたことを考えても、『日本書紀』は「日本」を意識して書かれたものである、ということがいえる。
  (B)の任那記事は欽明紀を中心に膨大な量にのぼる。しかし『古事記』にはまったく記録がないという不思議なものである。『古事記』の継体記には、筑紫君石井が反逆したので殺したという記事があるが、『日本書紀』は、筑紫君石井(『日本書紀』では磐井)は新羅と手を組み、新羅に破られた南加羅と[口彔]己呑を復興して任那に併合しようとした近江毛野臣の邪魔をしたので、軍を遣り磐井を斬った、と詳細に書く。石井は任那に関係していたのであり、したがって『古事記』は継体記に任那に関係したと思われる人物を記録しているにもかかわらず、任那という文字と任那における事件については一切記録しなかったことになる。『日本書紀』では崇神天皇65年から孝徳天皇の大化2年(646)まで約300年に亘って書かれ、欽明紀のほとんどをその記事に費やし、日本の朝鮮支配を示すものとされてきた任那での諸々の事件は、「日本」にとって最重要事のはずである。それにもかかわらず、任那に関係した筑紫君石井の反逆を記録した『古事記』が、任那を書かなかった。ここには『日本書紀』の、『古事記』編纂の意図とは異なった、何か特殊な意図を感ぜずにはいられない。
  (C)については、『古事記』が推古天皇で終わっているので、『古事記』に記録がないのは当然であるが、問題は、大義名分で成り立っている『日本書紀』がなぜ敗戦を記録したのか、ということである。『日本書紀』には、敗戦した相手の唐、新羅に対して、敗戦後も以前とまったく変わらない態度で接しているように書かれている。これが要するに『日本書紀』の大義名分なのであるが、そうであるならばなおさら敗戦の記録をする必要などなかったのではないか。それでも記録したということは、そこには記録しなければならない何らかの理由があったからではないのか。敗戦後は百済から亡命してくる者も多かったと思われ、また敗戦から9年後、壬申の乱により大海人皇子(天武天皇)が実権を握るに至った。時代は確実に変化していた。最初は倭人の国であった「倭(やまと)」は、北東アジア系の人たちの流入により徐々に北東アジア系が強くなっていき、白村江以後、朝鮮半島からの多くの亡命者(特に百済人)により、さらに北東アジア系化が増していったものと考えられる。こういった中で「日本」という国が誕生したのである。つまり、「日本」をつくった人たちはその多くが北東アジア系の人たちだったということになる。ここに白村江敗戦を記録した理由や『日本書紀』が編纂された理由がある、と私はみている。「倭国」と「日本国」は別国であり、日本は日本人が建てた国であり、その「日本人」とは誰か、がわかれば、その理由も自ずと理解できるはずである。
  『日本書紀』には『古事記』にはない特徴(記事)が存在している。つまり『古事記』だけでは足りないものが、ある意図をもって『日本書紀』に付け加えられたのである。足りないものとは、「日本」にとっては必要なもの、それは日本人の東アジアでの優位性・悠久性をより高めるための多くの具体的な歴史と、「倭(ヤマト)」が「新生日本」となったきっかけ(変化)だった。

  『日本書紀』の二重構造

  『日本書紀』は二重構造をしている。その二重構造には二種類ある。一つは、任那加羅の百済・新羅・高麗を朝鮮三国の百済・新羅・高句麗であるかのように見せた、ということであり、もう一つは、倭奴国・倭(わ)国の行動の一部を日本(ヤマト)の行動であるかのように記した、ということである。

  前者には、任那と任那に関係していた百済・新羅・高句麗記事のほとんどが該当し、新羅については『続日本紀』にもみられる。後者には、九州の熊襲征討や筑紫国造磐井との戦争、神功皇后の新羅征討、任那記事などがあり、白村江への水軍派遣記事もその可能性がある。任那記事には二種類の二重構造が使用されていることになる。二つの百済・新羅・高句麗の歴史、倭奴国・倭(わ)国と日本(ヤマト)の歴史という、二種類の、並行する二つの歴史を巧みに使い分け、あるいは重ね合わせて、新しく構成しなおしたのが『日本書紀』なのである。
  九州の熊襲征討、神功皇后の新羅征討など、『日本書紀』と共通する事件記事を載せる『古事記』も二重構造を持っているが、前述の(A)(B)(C)のうち特に(B)の任那記事をみると、『日本書紀』の二重構造は、より強い意志をもってつくられたものであることが伺われる。
  『日本書紀』は政治的な意味をもってヤマトを「日本」と記した。そのため『日本書紀』は当初から「日本」と記すが、『古事記』では「倭」であったことを考えれば、これが『旧唐書』『新唐書』がいう、「倭」から「日本」への改名にあたるものであることがわかる。「日本」と改名した理由は、「倭」という字を嫌ったからだと、『旧唐書』『新唐書』ともに書いている。このときヤマトは倭人ではなく北東アジア系の人たちが大勢を占めていた。したがって、「倭國自惡其名不雅 改爲日本」は北東アジア系の人たちによって計画された、と考えればよく理解できる。ヤマトが日本と改名するきっかけとして白村江敗戦があり、しかも敗戦の主体が倭人の国・倭国だったことも、その記録を容易にしたものと考えられる。
  白村江で倭(ヤマトではない)が敗れたことで、ヤマトに、倭国に代わって東アジアの国際的地位を高める、願ってもないチャンスが訪れた。すでに北東アジア系の人たちが大勢を占めていたヤマトは、この事件をきっかけに倭の地(九州)を併わせ、東アジアでは老舗である倭国の歴史をも手に入れたのである。こうしてヤマトには、倭国とヤマトと朝鮮半島そして任那の歴史が同居することになり、二重構造の下地が整うのである。「新生日本」は倭国とヤマトと朝鮮半島そして任那の歴史から「新生日本」の日本人の歴史を創作し、はじめから東アジアでは老舗である「倭」としての「日本」であったことを主張し、一方では、白村江敗戦国の「倭」という名を消したのである。これは倭人の国ではなくなったヤマトだからこそできる業だったのである。
  『古事記』は複数の歴史を組み合わせることに多少抵抗があったようであるが、『日本書紀』はこのチャンスを徹底的に利用したのである。『日本書紀』の二重構造は、動乱の東アジアに生きる「新生日本」の日本人にとって必然の歴史手法だった、といえるかもしれない。

  補記

  『日本書紀』は誰が書いたのか。『日本書紀』が書かれる少し前の時代には、日本人はすでに北東アジア系の強い集団になっていた。このことは人類学・遺伝学の研究からいえることである。ヤマトは「倭」と書くようになったが、それ以前は「山東」だった。ヤマトは倭人の国だったからこそ「倭」をもって「やまと」と読まれたのである。ヤマトは倭人の国から北東アジア系の国に変わったが、『日本書紀』はこういった時代に生まれたのである。したがって「『日本書紀』は誰が書いたのか」と問われれば、「日本人が書いた」と答えるのは正しい。しかしもっと正確に言えば、それは北東アジア系日本人で、『日本書紀』の百済系史料からの引用の多さと、百済滅亡、白村江敗戦、反新羅史観などを考えると、その中でも「百済系日本人が書いた」と答えるのが正しい、と私は思うのである。


文脈整理 2016.12.31


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