『魏志』倭人伝の行程について

2007.09.21
補足 2007.10.06

 古田説との出会い

  私のこのホームページは、拙著「『隋書俀国伝』の証明」、『縄文から「やまと」へ』で述べた基本的な見方・考え方の概要と、その後諸資料から得られた資料事実をもとに、その考察結果を追加していく、という形で構成されている。そのため、邪馬壹国(邪馬臺、邪靡堆)までのルートについての詳細は省略し、『隋書』俀国伝の行路の概略を説明するにとどまっている。『魏志』倭人伝の行程については、ほとんど触れずにここまできてしまった。そこで、『魏志』倭人伝の邪馬壹国までの行程に対する私の見方・考え方を、ここで一度書いておくことにした。
  私が古田武彦氏の『「邪馬台国」はなかった』を読んだのは、もう数十年も前のことになるが、その衝撃は大変なものだった。私はその頃建築設計屋の道を歩んでいたが、日本古代史の不可思議さにも心惹かれていた。その著書の中で、「学問の論証はその基本において単純であると思う。(中略)たとえば小・中学生に対してさえも、説得力をもち、ハッキリと理解されるものでなければならない」という古田氏の言葉に、私は感銘を受け、そしてその論証内容においても、「邪馬台国」は古田説で決まり、と思ったのである。
  古田説は一般の古代史ファンの支持を受け、学者たちの反論もことごとく論破した。しかしこのことが、私の古田説をみる見方を変えるきっかけになっていった。そうそうたる学者たちを論破する古田説はあまりにもできすぎている。ドラマの検事と弁護士の論戦をみるようであり、白が黒に、黒が白になってしまうようなそんな危機感を覚えたのである。学問の論証のみならず、史実そのものも、もっと単純なのではないか、論戦で勝った方が史実とは限らない、私にはそう思えてならなかった。

 『隋書』俀国伝と古田説

  そんな見方の変化があり、私は自分で「邪馬台国」問題を探ってみる決心をした。私の方法の第一歩は、『魏志』倭人伝以外に邪馬壹国(邪馬臺)への行程・行路を記録している中国史書はないかどうか探すことだった。なぜなら『魏志』倭人伝には邪馬壹国を一箇所に規定する要素はないからである。これまでに多くの学者・研究者たちが必死になって探求してきたにもかかわらず、決定打がなかったことが何よりの証拠である。そして『隋書』に、俀国の都・邪靡堆までの行路記事があるのを見つけたのである。その『隋書』には次のようにある。

其國境東西五月行 南北三月行 各至於海 其地勢東高西下 都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也(中略)
上遣文林郎裴清使於俀国 度百濟 行至竹島 南望[身冉]羅國 經都斯麻國 迥在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏 以爲夷洲 疑不能明也 又經十餘國 達於海岸 自竹斯國以東 皆附庸於 王遣小徳阿軰臺 從數百人 設儀仗 鳴鼓角來迎 後十日 又遣大禮哥多毘 從二百餘騎郊勞 既至彼都 其王與清相見 大悦曰 我聞海西有大隋 禮義之國 故遣朝貢 我夷人 僻在海隅 不聞禮義 是以稽留境内 不即相見(以下略)

  ここではこの行路の詳細については省略するが、「既至彼都」の「都」とは邪靡堆のことであり、邪靡堆は『魏志』でいうところの邪馬臺であることが、この記事によってわかる。この邪靡堆へは、竹斯国から東へ行き秦王国に至り、さらに十余国を経て海岸に達し、そこに俀王の迎えが来て少し行くとそこはもう俀国の都だった。邪靡堆は九州にあったのか畿内大和にあったのかは別にして、この行路から、竹斯国は邪靡堆でないことは容易にわかる。しかし古田氏は『古代は輝いていたⅢ』で次のように言っている。

自竹斯國以東、皆附庸於俀。
(中略)
自女王国以北、特置一大率検察、諸国畏憚之。
(中略)
 以上の二文を対照してみると、倭人伝は「女王国起点」、俀国伝は「竹斯国起点」の文形となっている。
 そして「両伝の首都は一致する」というのが、前に述べたとおり、俀国伝の冒頭の出発点をなす主張だった。この点「女王国」を筑紫、ことに筑前を中心に考えてきたわたしの立場にとって、まさにズバリの表現であった。
 倭人伝の場合、検察の原点が倭王(卑弥呼)であったのと同様、俀国伝の場合も、附庸の原点は俀王(多利思北孤)だったのである。

  古田氏は、女王国は竹斯国だという。その根拠は、倭人伝は「女王国起点」、俀国伝は「竹斯国起点」の文形になっているからだという。古田氏は「両伝の首都は一致する」ことを認めている。「両伝の首都」とは、倭人伝は「卑弥呼のいる女王国」で、俀国伝は「都於邪靡堆」とあるように「邪靡堆」である。つまり「女王国=邪靡堆」である。しかし邪靡堆は竹斯国ではない。それにもかかわらず、古田氏は文形を理由に「女王国=竹斯国」だという。古田氏は確かにこのように言っていると私には読めるのであるが、これは私の誤読なのだろうか。小・中学生はどのようにこれを読むか、訊きたいところである。

  島めぐり読法について

  私はこの『隋書』によって、古田氏とは逆に、女王国は筑紫(博多湾周辺)にはなかった、と確信を持ったのである。そうなると『魏志』倭人伝の邪馬壹国までの行程も、古田説ではまずいことになる。
  古田説の特徴は①韓国内陸行②島めぐり読法③道行き読法 である。邪馬壹国は不弥国の南に接してあった、という古田説は、その中でも、韓国内陸行と島めぐり読法に依存するところが大きい。
  『魏志』倭人伝によれば、対馬(対海国)は方四百余里あり、壱岐(一支国)は方三百里ある。古田氏はこの対馬、壱岐を半周陸行した(島めぐり)と考え、その距離1400里(400里×2=800里、300里×2=600里)を、各行程に書かれている里数に加えたのである。各行程に書かれている里数の合計は、道行き読法という考え方を導入することで、伊都国から奴国までの100里が減り、10,600里となり、対馬、壱岐の島めぐりの距離を加えると、帯方郡から邪馬壹国までの総里数は12,000余里となる。これは総距離を表記した「自郡至女王國萬二千餘里」にぴったりと一致するのである。
  しかし『隋書』によれば、竹斯国は俀国の都・邪靡堆ではなく、邪靡堆は竹斯国から秦王国に行き、さらに十余国を経て到達する海岸の近くにある。『隋書』の行路記事を無視するのであれば、古田説はかなり有利な説である。しかし現に『隋書』に行路記事は存在するのであり、しかも竹斯国は俀国の都・邪靡堆ではない、ということは動かしがたい事実なのである。
  島めぐり読法は、「方」の意味から考えていく必要がある。この「方」は非常に重要である。謝銘仁氏は『邪馬台国中国人はこう読む』で、「方」字の位置によって意味は異なり、『魏志』倭人伝のこの表現は「○○里四方」を意味するもので、面積を表現したいものの形を正方形に組み合わせ、その正方形の一辺を記すことで、その面積を表現したものだという。つまりこれは面積の表現方法であって、その形までも表現したものではない、ということである。そうすると古田説も状況が少し変わってくる。壱岐は島の長辺短辺に大きな差はないが、対馬は上県郡(北の大きいほうの島)も下県郡(南の小さいほうの島)も南北に細長い。古田氏は下県郡を「方四百余里」としている。「方四百余里」は160,000平方里を少し越えた程度の面積となる。下県郡は長辺:短辺がおよそ2:1であるから、これを568里×284里とすると、面積は161,312平方里となり、「方四百余里」をほぼ満足させることができる。したがってこの島を半周したとすると、その距離は568里+284里=852里となる。これは古田説の800里を52里オーバーする。ここでは総里数が12,000里になるかどうかを問題としているから、52里を「余里」ということで処理することはできない。つまり古田説は成立しないということになる。
  もし謝銘仁氏がいうこの平方里の意味が正しくないとすると、「方四百余里」は「一辺400余里の正方形」を意味することになるが、それは島の形状からみてありえない。古田説はそもそも、対馬と壱岐の形が正方形でないと成立しない説なのである。

  韓国内陸行について

  古田説が依存するもうひとつの大きな特徴である、韓国内陸行についてはどうだろうか。『魏志』倭人伝には次のように書かれている。

從郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里

  古田氏は「歴韓國・・・到其北岸狗邪韓國」を陸行だとする。つまり、帯方郡から海岸に沿って水行した後、韓国に上陸し、南へ行ったかと思うと東へ行ったりして、それを繰り返しながら倭国の北岸の狗邪韓国に着いた、とする。「歴韓國」は陸路に移転したことを示しているという。
  また古田氏は「行・・・至(到)」と「・・・至(到)」を厳格に区別し、「行・・・至(到)」は実際に「行き至る」ことを示し、「行」のない「・・・至(到)」は実際に行くのではなく、「・・・に行けば・・・に至る」という意味だという(道行き読法)。
  この道行き読法はどの部分から使用されているのだろうか。一般的に考えれば、この行程全部に使用されるのが当然のはずであるが、古田説はどうも違うようだ。もし古田氏のように厳格にとらえるのであれば、韓国内陸行は「循海岸水行」の後に「至韓國北辺」のように「至った」場所が表記され、次に「歴韓國・・・到其北岸狗邪韓國」とならなければならないはずである。その場合でも『魏志』倭人伝の書き方からすれば、「歴韓國」の前に「陸行」という文字があってしかるべきだと思うが、しかしそれらはない。
  「渡」「行」には、「・・・から・・・へ」という起点と終点が明確にされているが、「歴」は「つぎつぎとへる」という意味だから、それ自体には、ある地点からある地点に行くという意味はなく、起点と終点は存在しない。つまり起点と終点と、そこでの行為を表す動詞がないと意味をなさないのが「歴」なのである。『魏志』倭人伝のこの行程には、「歴韓國」の後に終点への「到」はあるから、「歴韓國」の前に起点からの行為を表す「渡」「行」などがなければならないことになる。それはないのかというと、実はちゃんとある。「循海岸水行」である。陸行という文字がないのに、「歴韓國」を陸行だとするから、その前の終点と次の起点がなくなってしまうのであり、「海岸に沿って水行して、韓国をつぎつぎとへて、その北岸狗邪韓国に着いた」と読めば、何の問題もないのである。
  この行程では、一つの地点から一つの地点まで至ると、あるいは古田氏のいう「道行き読法」であっても、必ずその距離か、かかった日数がきちんと表記されている。しかし「循海岸水行」の後にはその表記はなく、「歴韓國」と続き、「到其北岸狗邪韓國」の直後に、はじめて「七千餘里」が現われるのである。このことは「循海岸水行」から「到其北岸狗邪韓國」までが一つの行程、つまり水行の起点-終点であることを意味している。一方では「水行」と書きながら、「陸行」に移ったにもかかわらず、しかも全行程の60%近い距離を占める「陸行」でありながら、それを省略し「歴」だけで済ます、というのは私には理解できない。
  韓国内陸行のもっとも簡明な論証として、古田氏は韓伝の「方可四千餘里」を挙げる。韓国の西海岸と半島南岸部を全水行すると、それだけで八千里近くになる、だから狗邪韓国まで全水行は成立しないのだという。しかし果たしてそうだろうか。「方四千余里」は前述したように、「一辺4000余里の正方形の面積と同じ面積」を意味し、余里を加味すると、それは〔16,000,000+α〕平方里となる。
  ここで帯方郡の範囲が問題となるが、帯方郡治があったところは別として、帯方郡の南境は現在のソウルあるいはソウルの南あたりだったと推測される。そうすると韓国は正方形に近い形というより、南北に少し長い形となる。その比はおよそ54:46である。そこで南北距離を4400里、東西距離を3700里とすると、その面積は16,280,000平方里となる。「方四千余里」である。
  郡から倭に行くのに「從郡至倭 循海岸水行」とあるように、はじめから「循海岸水行」し、すぐに「歴韓國」とあるところをみると、帯方郡といっても、行程の起点となったのは韓国との境界に近い郡内の港だったのであり、七千余里の計算の起点もこの港ということになる。そうでなければ文意に合わない。そして到着した狗邪韓国は金海周辺とみられるが、そこは半島南辺の西から約3/4の地点であり、その距離は約2800里となり、帯方郡から狗邪韓国までの距離は〔4400+2800=7200里〕となる。これが七千余里である。八千里近くになることはないのである。
  韓国の面積を4000余里四方とみても、金海は半島南辺の西から約3000里のところにあったとみることができるから、水行の距離は〔4000+3000=7000里〕となる。逆に七千余里の条件に近くなる。
  「循海岸水行 歴韓國」は、郡内の港から水行をはじめて、すぐ韓国領海に入ったことを意味している、ということを見落してはならない。古田氏は、「方四千余里」の韓国の西岸と南岸を通り狗邪韓国まで全水行すると、七千里では帯方郡治から帯方郡西南部までの区間が入りきらないというが、「從郡至倭 循海岸水行 歴韓國」をみれば、水行の起点は郡治ではなく、郡内の港であり、その港は韓国との境界に接近していたことがわかり、その論はあたらないのである。
  このように韓国内陸行の主たる理由も、理由とならなくなるのである。古田説の三つの特徴のうち、「韓国内陸行」と「島めぐり読法」は成立しないのである。私はここで古田説が成立しないことを、敢えて「韓国内陸行」と「島めぐり読法」を批判することで説明したが、『隋書』の行路記事をみれば、本来まったくその必要はないのである。繰り返しになるが、『魏志』倭人伝の邪馬壹国(邪馬臺)が邪靡堆であることを認めるのであれば、邪靡堆は博多湾周辺にあった竹斯国から秦王国、十余国を経て至った海岸の近くにあったのだから、邪馬臺(邪馬壹)が博多湾周辺に存在するはずはない、という結論にならざるをえないからである。ただし『魏志』倭人伝の「道行き読法」については、ありうるかな、とは思っている。

  『隋書』俀国伝の行路から『魏志』倭人伝の行程をみる

  『隋書』の「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」によれば、「邪馬臺(邪馬壹)=邪靡堆」であるから、『魏志』倭人伝の邪馬壹国への行程と『隋書』の邪靡堆への行路は、途中の経路に多少の違いはあるかもしれないが、到着地点だけは間違いなく一致しているはずである。両ルートは次のようである。

(『魏志』倭人伝)

狗邪韓国-(千余里)対海国-(南)(千余里)一大国-(千余里)末盧国-(東南陸行)(五百里)伊都国-(東南)奴国(百里)-(東行)不弥国(百里)-(南)投馬国(水行二十日)-(南)邪馬壹国(水行十日陸行一月)

(『隋書』国伝)

百済-竹島-都斯麻国-(東)一支国竹斯国-(東)秦王国-十余国-海岸

  □で囲んだ国のうち、『隋書』の竹斯国は『魏志』倭人伝の不弥国あるいは奴国も含んだ地域ではないかと思われる。この二つのルートをみると、『隋書』の「海岸」付近に邪靡堆はあったことになるから、竹斯国から海岸(有明海北東部)に至る間に投馬国があったことになる。しかし投馬国は「水行二十日」でいけるところということで、陸行であるこのルート上にはなかったことになる(拙著『縄文から「やまと」へ』参照)。結果的に投馬国は「道行き読法」によっていることがわかるのである。
  ここで邪馬壹国までの「水行十日陸行一月」が大きな問題となるのであるが、竹斯国からのルートは全陸行であり(拙著『縄文から「やまと」へ』参照)、「水行十日陸行一月」の起点は不弥国ではないことがはっきりする。それではその起点はどこなのか。
  このことを考えるにはクリアしなければならない条件がある。一つは、投馬国は女王国より北にあったということ、二つには、なぜ投馬国と邪馬壹国だけ里数がなく日数表記となっているのか、ということの納得のいく説明、である。
  邪馬壹国に到着した記事の後、『魏志』倭人伝は次のように書く。

自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳

  〔女王国より北の国々についてはその戸数と道里を略載することはできるが、そのほかの国は遠く隔たっており詳しいことはわからない〕。つまり戸数と道里を略載した国々は女王国より北にあるということを、この文は示している。戸数と道里が記されている投馬国は、当然女王国の北になければならないのである。しかし古田説では、この「以北」を国のことではなく行路のことだとしている。この見方は間違いだともいえない。戸数と道里が記されている国は、邪馬壹国に至るまでのその北の行路にあった国だからである。しかし「其餘旁國遠絶」から考えると、もし投馬国が鹿児島あたりにあったとすると、投馬国は遠絶な「其餘旁國」よりもさらに遠絶なところにあった可能性があり、一つの矛盾となりうる。
  「以北」が行路のことであっても、投馬国は遠絶であってはならないと私は思う。ここで「水行十日陸行一月」の起点を帯方郡だとすると、末盧国まで水行し、末盧国から邪馬壹国まで陸行したことになる(投馬国は不弥国と邪馬壹国の間には存在しない)。「水行十日」は帯方郡から末盧国までとなり、その距離は一万里となる。そうすると「水行二十日」はその二倍の二万里となり、投馬国は九州島に入りきらず、はるか南海上に行ってしまう。これは起点が帯方郡ではないことを意味している。
  平野邦雄氏の『邪馬台国の原像』に、昭和50年に行なわれた古代船『野生号』の航海実験の模様について、平野氏自身が書いた報告文が載っている。それによると、釜山-対馬27時間、対馬-壱岐18時間、壱岐-呼子8時間(合計53時間)で、釜山から呼子に至り志賀島に至るまでは15日かかったことがわかる。釜山と呼子の間の53時間というのは純粋な航行時間であり、一日あたり6、7時間の航行だとすると、日数にして8~9日かかる計算になる。これに気象条件や航海をする上での諸要素を考えると、10日かかったとしてもあながち間違いとはいえない。野生号がとったこの間の経路は、狗邪韓国-末盧国間とほぼ同じであり、「水行十日」はこの間の日数だったと考えることができる。つまり、邪馬壹国までの「水行十日陸行一月」は狗邪韓国起点だった、とみることが可能なのである。
  狗邪韓国から末盧国までの三千余里が「水行十日」にあたるということは、投馬国までの「水行二十日」は、距離にして三千余里の二倍の六千余里となる。もし投馬国への起点も狗邪韓国だったとすると、六千余里は、狗邪韓国から末盧国あるいは不弥国へ至り、海岸沿いに東に向かい関門海峡を通り、国東半島の南の別府あるいは大分あたりに行き着く。そうすると投馬国は邪馬壹国のはるか南に行くことはなく、「以北」にも矛盾しない。投馬国への「水行二十日」も狗邪韓国起点だったと考えることができる。
  それではなぜ、投馬国と邪馬壹国だけが日数で表記されたのだろうか。『隋書』には「夷人不知里數 但計以日」という記事がある。倭人は里数を知らず日数で距離を計っている、というのである。『魏志』倭人伝の対海国と一支国には「南北市糴」とある。また狗邪韓国は倭国の北岸だという。これらのことから、倭国の北限は狗邪韓国であり、倭人は狗邪韓国、対馬、壱岐を常に行き来していたことがわかる。つまり、倭人の主な活動場所は狗邪韓国から南の倭国領内だったのである。したがって、倭人は里数がわからず日数で距離を計っていたという、その領域は狗邪韓国から南の倭国領内だった、ということになる。
  「水行」「陸行」の日数による距離表記は倭人の距離測定方法によるものだった。だからこれは狗邪韓国から南の倭国領内でなければ使用されなかった。本来、古い記録には投馬国、邪馬壹国以外にも日数表記は使われていたのではないかと推測され、反対に、不弥国と投馬国の間、不弥国と邪馬壹国の間には里数表記もあったのではないかと推測されるのである。つまり『魏志』倭人伝の記録には、奥野正男氏がいうように、何らかの脱落や錯簡があった、と考えなければつじつまが合わないのである(『邪馬台国は古代大和を征服した』JICC出版局)。

 複数の史書に整合するという意味

 私は古代史を考えるにあたって常に、中国史書に書かれている日本列島の歴史は複数の史書に整合しなければならない、と思っている。少なくとも『漢書』地理志から『新唐書』日本伝まではそうでなければならない。細かい点では多少違っていても、長い時間を通してみてきた中国の目に、歴史の流れという点では大きなくるいはないのである。中国史書と『日本書紀』など日本の史書との整合をいう人がいるが、その場合には「倭国」と『日本書紀』の「倭」が同じ国であることを前もって証明しておく必要がある。私が作成した比較資料(表)「『日本書紀』と朝鮮・中国史料」(この表は改訂して、日本古代史のターニングポイントに「表1 日本史料によるヤマト通史-中国・朝鮮の歴史との関係及び私見」として掲載)をみていただければ、この意味がわかるはずである。現在、この表は2019年4月発売の電子書籍『日本書紀10の秘密』に収録されている。2022.01.10
  古田氏が『隋書』俀国伝の行路に触れたのは、多分、『魏志』倭人伝以外の史料からも邪馬壹国は博多湾周辺にあったことが証明できる、ということを示したかったからなのだと思う。その姿勢は正しかったが、古田氏はその文形にしか触れず、肝心の部分には言及しなかった。
  大和岩雄氏は『東アジアの古代文化』95号に[『魏志』以外の中国文献の「邪馬台国」]という論考を載せている。それを読むと、『魏志』以外の中国文献というのは『魏略』と『広志』のことであり、それは大和氏の「女王国は卑弥呼の都で九州にあり、邪馬台国は台与の都で大和にあった」という説を裏づけるための史料であることがわかる。
  大和説では、『魏志』は『魏略』を参考にして書かれた、ということでなければならないのであるが、現在では『魏書』が先に成立し、そのあと『魏略』と『魏志』がほぼ同時期に成立したことがわかっており(平野邦雄『邪馬台国の原像』)、『魏志』は『魏略』を参考にすることはできなかったことになる。
  私が疑問に思うのは、古田氏にしても大和氏にしても、重要な証明をしようとしているにもかかわらず、なぜ中国正史全体を対象にせず、一部の史書の一部分にしか言及しないのか、ということである。その点、不思議であるとともにとても残念である。
  「複数の史書に整合する」とは、少なくとも「『漢書』地理志から『新唐書』日本伝までの中国正史に整合する」ということを意味する、と私は思っている。

※このノートは、すでに本ホームページの論考(拙著をもとにした概要)を読んでいるものとして書いており、『隋書』の行路については深く触れていない。また『魏志』倭人伝についても対象を絞っての説明となっており、詳細には及んでいない。古田説・大和説を批判したのは自分の見方・考え方を説明するために必要だったからで他意はない。詳細については拙著を参照していただければと思う。

(補足)2007.10.06

 『増訂 対馬島誌』(対馬教育会 名著出版)「第14章 道路」に、「沿岸処々に船舶交通の便を有する本島は極めて古国なるに拘らず、明治初年に至るまでは假令比較的平地の村落と雖も車両を通ずる道路なく、殊に部落間交通道路の大部分は嶮山の急坂、或は渓谷の小河床、若は岩を踰え石を傳ふの磯路等のみなりき」とある。『魏志』倭人伝が対馬を「土地山險 多深林 道路如禽鹿徑」と書いているのは正しいことがわかる。しかし「道路如禽鹿徑」と書いてあるからといって、『魏志』のこの文によって、魏の使者がこの道路を歩いたという証明がなされたとはいえない。伝聞であったとしてもまったく問題のない文である。逆に『対馬島誌』にある「大部分は嶮山の急坂、或は渓谷の小河床、若は岩を踰え石を傳ふの磯路」のような道路であれば、魏の使者にそのような道を800余里も歩かせるなどということは、倭国の立場として考えられないことである。このような対馬の当時の実情をみれば、「島めぐり」はやはりありえない、といわざるをえない。

  古田説は「邪馬台国九州説」の一つであり、「邪馬台国畿内説」についてはまったく触れてこなかったので、最近の「畿内説」について、本論の補足として少し述べておきたい。
  古田氏は当初から「原文改定」に苦言を呈してきた。その成果によるものなのかどうかわからないが、最近では畿内説者も不弥国からの「南」を「東」に読み替えることなく、別の方法によって「邪馬台国」は畿内大和にあった、とする研究者が増えてきた。その「別の方法」の根拠とされるのが、1402年につくられたといわれる「混一疆理歴代国都之図」(龍谷大学蔵、以下、龍谷図)である。
  この図をみると、日本列島は対馬を北にして南北に描かれており、畿内大和は九州北部からみて南方にある。この図から、中国人はこの時代に至っても、日本列島は対馬を北にして南北に長い形をしていたとみていたのであり、『三国志』の著者・陳寿も当然そうみていたため、畿内にあった「邪馬台国」は不弥国の南にあると記述されたのである、という見方が可能となる。つまり、『魏志』倭人伝に「邪馬台国」が不弥国の「南」にあったと書かれていても、この龍谷図の存在によって、原文改定せずに、「邪馬台国」を畿内大和にあてることができるようになったのである。これは、「原文改定をしない」という意味では価値のある説といえる。ところが問題はこれで終りではなかった。実はもう一つ「混一疆理歴代国都地図」(島原市本光寺蔵、以下、本光寺図)という、龍谷図と同様の地図があることがわかったのである。
  応地利明氏の『絵地図の世界像』には、本光寺図が1988年にはじめて知られ、弘中芳男氏によって紹介されたことが記されている。本光寺図も龍谷図同様、李氏朝鮮の廷臣だった権近の1402年の題跋をもつという。本光寺図は九州がほとんど欠けているが、日本列島の朝鮮半島との位置関係は現在のそれとほぼ同じである。応地氏は朝鮮からみた日本列島に対する地理認識は正しかったとしている。
  1402年に龍谷図と本光寺図の二つの地図が存在したことになるが、この状況を公平にみれば、『三国志』が書かれた3世紀の中国人に、日本列島は九州を北にして南北に長い形をしていたと考えられていた、という見方はできないということになる。つまり本光寺図の存在によって、『魏志』倭人伝の「南」をそのまま「南」としても「邪馬台国」は畿内大和にあったとすることができる、という理論的根拠を畿内説者は失ったことになるのである。


※「島めぐり」読法で対馬に関して、古田氏は上県郡を「方四百余里」としていると書いたが、それは私の勘違いで下県郡が正しい。ここでお詫びするとともに、本論の関係箇所を訂正した。ただし「島めぐり」読法は成立しない、という結論に変わりはない。2007.10.06


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