倭国から日本国へ-その課題

2007.07.06

 私が日本古代史に興味を持ったのは、中国の史書に日本の記録があるにもかかわらず、なぜ倭女王卑弥呼の国を特定することができないのか、と思ったことがきっかけだった。それまで日本古代史は私にとってはまったくの畑違いの分野で中国史書など読んだこともなかった。だからこそ逆に『魏志』倭人伝(正しくは『三国志』『魏書』「烏丸鮮卑東夷伝倭人条」であるがここではこのように記す。以下同じ)の原文を読めばわかるはずだと簡単に考えていた。しかしそれは間違っていた。『魏志』倭人伝は読めば読むほど、女王卑弥呼の国へはたどり着かなくなってしまうのである。しかしこのことは本当はすでにわかっていることだった。というのは、邪馬台国(正しくは邪馬臺国)については、『魏志』倭人伝をもとにして、これまでに実に多くの研究者たちが実に多くの説をたてているからである。このことはとりもなおさず、『魏志』倭人伝には邪馬臺国を特定する要素はない、ということを意味している。これが『魏志』倭人伝なのである。
  私は『魏志』倭人伝を読むことによって、『魏志』だけでは邪馬臺国にはたどり着くことはできないことを知った。それではどうしたらよいのか。私の頭に浮かんだのは、『魏志』以外の中国史書から邪馬臺国への道を記したものを探せばよいのではないか、ということだった。そして『隋書』に邪靡堆(邪馬臺)への行路が載っているのを見つけたのである。見つけたというのは私が素人だったからであり、この記事の存在は研究者であれば当然知っていることであるから、それを重視するかどうかの差が「見つけた」という言葉の中にはあったのである。
  この行路記事を解く鍵は「東」「海岸」「十日」であり、お互いにそれを裏付けるのが「其國境東西五月行、南北三月行、各至於海」と「有阿蘇山」なのである。倭国が九州であることを匂わせるこれらの記事を無視せず、私は重視したのである。邪靡堆をヤマトだとする人たちは何の検証もなしに、筑紫からの「東」を畿内のヤマトへ向かう方向とした。『隋書』がその直前に、対馬から「東」へ行って壱岐に至ったと記しているのにもかかわらず、である(「東」は実は「南」であるということ)。筑紫から「東」という方角によって畿内のヤマトへ向かった人たちは、結局次の『旧唐書』の倭国記事も無視することになる。一つの史書の中でも整合しないものが、複数の史料に整合するはずはないのである。
  これらの多くの人たちは、『魏志』倭人伝の「邪馬壹」は「邪馬臺」の間違いで、「臺」は「台」で「ト」と読み「ヤマト」のことだという。しかし「臺」は「台」とは別字で、「台」は「ト」と読むが「臺」は「ト」とは読まない。また「ヤマト」は「邪馬台」であり「倭」だというが、中国史書には「邪馬台=倭」であったという記録はない。邪馬臺はあくまでも倭国の中の中心国、都である。
  元興寺の塔の露盤には「山東漢大費直名麻高垢鬼」などとあったと、元興寺伽藍縁起并流記資財帳は記している。『日本書紀』の「やまとのあや」には「山東」という文字はなく、「東」と「倭」があてられている。もともと「東」も「倭」も「やまと」とは読まないから、「山東」がその語源だったとみられる。それでは「山東」とは何か。それは河内からみて「山の東」の地域のことにほかならない。この言葉から、河内に入った人たちがさらに東に移っていった様子が伺われるのである。日本の史書では、最初に河内に入った弥生人を饒速日と呼んでいる。
  『旧唐書』には倭国と日本国が別の条に書かれているように、またそこに書かれているまったく異なる地理地形が示すように、倭国と日本国は別の国なのであり、「ヤマト」が「邪馬台」である必要性はまったく存在しないのである。「ヤマト=邪馬台」だとすると、「臺=台=ト」が成立し、これは漢字の歴史、音韻学にも反することとなり、また私が述べてきたこれらの史料内容もすべて否定されなければならないことになる。
  どちらをとるかはその人の自由であるが、『漢書』地理志から『新唐書』東夷伝までの史書に矛盾しない(整合した)歴史の説明は必須条件である。

 私はこれまでに、拙著「『隋書国伝』の証明」や『縄文から「やまと」へ』などを通して、邪馬壹国(邪馬臺国)はどこにあり、倭国はどのような歴史を持ち、また日本国とはどのような関係にあったかを述べてきた。そして本ホームページ上では、その概要と中国史料、朝鮮史料、『日本書紀』を通して任那、加耶などについても述べた。
  ここで、これから最も重要な段階に進む前に、これまで私が述べてきたことをまとめておこうと思う。

1世紀中頃、九州博多湾沿岸にあった倭奴国は、朝鮮半島南部から九州北部にかけてあった倭人国の代表だった(志賀島から「漢委奴国王」金印出土、『後漢書』倭伝)。

倭奴国は九州中南部へと進出するが、2世紀後半から3世紀初めにかけて、70~80年男王が続いた倭国に戦乱が起こり、その結果、倭国の代表は博多湾沿岸の倭奴国から有明海北東部沿岸の邪馬臺国に移った。倭国の範囲は九州全域か少なくとも九州中北部となった(『日本書紀』景行天皇の熊襲征討、『魏志』倭人伝、『隋書』俀国伝の行路、地理地形)。

7世紀の初め、倭国は九州島にあり、魏の時代から代々中国と通交していた。その都・邪靡堆(邪馬臺)は有明海北東部沿岸にあった(『隋書』国伝の行路、地理地形)。

倭国と日本国は別国である(『旧唐書』倭国伝)。

日本国は畿内地方である(『旧唐書』日本国伝の地理地形)。

日本国は用明天皇(目多利思比孤)の時代(直隋開皇〔581~600〕末)に、初めて中国と通交した(『新唐書』日本伝)。

倭国は倭奴国、邪馬臺国を中心に、当初は朝鮮半島南部から九州北部にかけて、その後は九州島全体、そしてさらに、その周りの島々を含めた倭人の国として、7世紀中後半まで存在していた(『後漢書』~『旧唐書』)。

日本国は7世紀後半に現われた国であるが、古くは九州などからの移住者で多くを占められ、それまでは「倭人の国山東」であった。「山東」は河内の「山の東」にあった倭人の国であることから「倭」と書かれ「やまと」と呼ばれたが、「日本」と改名する頃(7世紀後半)は、倭人ではなく北東アジア系渡来人を中心とした国になっていた(『旧唐書』、『新唐書』、元興寺伽藍縁起并流記資財帳、人類学・遺伝学)。

加耶と呼ばれたのは金管と高霊加耶であるが、婆娑尼師今以後に現れる加耶は高霊加耶のことを指していた。(『三国史記』、『三国遺事』)

加羅には高霊加耶、任那加羅の加羅(三加羅)、任那十国の中の加羅の三つがあった(中国史書、朝鮮史料、『日本書紀』)。

任那は加耶ではない(中国史書、朝鮮史料、『日本書紀』)。

  私が「最も重要な段階」といったのは、倭国から日本国へと歴史の舞台が移り変わる時期のことを指しているのであるが、中国史書においては、その仔細はわからないものの、日本列島の中心が倭国から別国の日本国に移ったことははっきりと指摘できる(『後漢書』~『旧唐書』、『新唐書』)。しかし『日本書紀』においてはすべてが日本(ヤマト)のこととされているため、その時期、事件を明確にとらえることができない。そもそも倭国は日本国のことだからそんなものがあるはずはない、という人もいるかもしれないが、に示したように、中国史書、朝鮮史料、またときには『日本書紀』自身もそうはみていないのである。これらの史料事実によれば、『日本書紀』が書く日本の歴史には造作があるのは確実であり、それを指摘し正すことが何よりも重要であることが理解できるはずである。
  しかしながらこれは容易なことではなく、困難を極めるであろうことは目に見えてわかっている。しかしこの作業をしない限り、国外史料と日本史料の矛盾はいつになっても解決せず、日本古代史は永遠に闇の中となるのである。

  現時点では、この作業はどのように進めたらよいのか、またどのくらい時間がかかるのかなどまったく見当もつかないが、を考え方・見方の基本におくことにより、それは可能になると私は信じている。今後しばらくは(あるいは長期にわたって)、このことが私の最重要課題になるだろう。

※この問題については、『日本書紀10の秘密』(2019.04.26 KIndle版)で私としての結論を出した。2019.05.05


※脱解尼師今21年〔77〕条の加耶が金官国を指している、と思われることから、に記していた、実質上加耶はすべて高麗加耶のことを指していた、という見方を訂正した。2007.08.17
について、他の部分で最新の見方として否定しているが、それを読んでいない人に誤解される恐れがあるため、ここで見え消し訂正した。2016.06.09


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