『日本書紀』の任那-加耶と加羅

2007.05.20

  朝鮮史料の加耶・加羅

  これまで五回にわたり、任那とそれを取り巻く国・県・邑などをみてきた。任那は定説では加耶であり、加羅であるという。加耶は『日本書紀』には現われないから、その真偽を確かめるには朝鮮史料の加耶・加羅を調査する必要がある。そこで『三国史記』『三国遺事』から加耶・加羅が記載されている記事を抽出し調べてみることにした。

A『三国史記』

《新羅本紀》

  四 脱解尼師今

◇脱解尼師今、立。(一云吐解。)〔57〕時年六十二、姓昔、妃阿孝夫人。脱解本多婆那國所生也。其國在倭國東北一千里。初其國王娶女國王女爲妻、有娠七年乃生大卵。王曰、人而生卵、不祥也。宜棄之。其女不忍、以帛裹卵并寶物、置於櫝中、浮於海。任其所在、初至金官國海邊。金官人怪之不取。又至辰韓阿珍浦口。是始祖赫居世在位三十九年〔BC19〕也。(以下略)

 新羅第4代王脱解の生い立ちである。卵が多婆那国から金官国に流れ着いた。金官人は怪しんでそれを取らずにいたところ、その卵はやがて辰韓に流れ着いたというものである。
  多婆那国は倭国の東北一千里のところにあったというが、方位と距離を『魏志』倭人伝の記録によって考えると、そこは九州北岸から北に一千里行ったところとなり、壱岐がその候補地となる。『魏志』倭人伝の記録によって方位と距離を推定するのには問題があるかもしれないが、推定方法の一つとしてここでは挙げておいた。
  しかしながら、壱岐→対馬→金官は自然な流れである。

◇二十一年〔77〕秋八月、阿飡吉門與加耶兵、戰於黄山津口、獲一千餘級。

 黄山津は洛東江だといわれる。徐々にこの論考の中でわかってくるが、加耶と呼ばれた国は、金官と高麗加耶の二つだった。高麗加耶は内陸部にあり、金官は『三国遺事』紀異第一に近海府にあったとあるから、洛東江河口付近で新羅と戦ったこの加耶は金官国のことだったことになる。

  五 婆娑尼師今

◇八年〔87〕秋七月、下令曰、朕以不德有此國家、西鄰百濟、南接加耶、德不能綏、威不足畏、宜繕葺城壘、以待侵軼。是月、築加召馬頭二城。

◇十五年〔94〕春二月、加耶賊圍馬頭城。遣阿飡吉元、將騎一千擊走之。

◇十七年〔96〕(中略)九月、加耶人襲南鄙、遣加城主長世拒之、爲賊所殺。王怒、率勇士五千、出戰敗之、虜獲甚多。

◇十八年〔97〕春正月、舉兵欲伐加耶。其國主遣使請罪、乃止。

  加耶は新羅の南に接しており、ときに新羅を襲っている。新羅も加耶を伐ち、両者には抗争があったようである。

◇二十三年〔102〕秋八月、音汁伐國與悉直谷國爭疆、詣王請決。王難之、謂金官國首露王年老多智識、召問之。首露立議、以所爭之地、屬音汁伐國。於是王命六部、會饗首露王。五部皆以伊飡爲主、唯漢祇部以位卑者主之。首露怒、命奴耽下里、殺漢祇部主保齊而歸。奴逃依音汁伐主陁鄒干家。王使人索其奴、陁鄒不送。王怒、以兵伐音汁伐國。其主與衆自降。悉直押督二國王來降。

  ここでは加耶ではなく金官国になっている。新羅王が自国内の国の領地争いに困って金官国の首露王に裁定を頼むということからすると、この金官国を前出の加耶とは別の国とみるのが正しいかもしれない。しかしこれまでの記事だけではそれを言い切ることはできない。

◇二十七年〔106〕(中略)秋八月、命馬頭城主伐加耶

  この加耶は馬頭城に近い加耶ということになる。馬頭城がどこにあったのかわからないが、婆娑尼師今15年の記事の加耶と同じ加耶である。金官国の記事が間に挟まっているところをみると、またその内容からして、ここに出てくる加耶と金官国は別の国である可能性が高い。

  六 祇摩尼師今

◇四年〔115〕春二月、加耶冦南邊。秋七月、親征加耶、帥歩騎、度黄山河。加耶人伏兵林薄、以待之。王不覺直前、伏發圍數重。王揮軍奮擊、決圍而退。

  加耶は新羅の南部をしばしば侵しているようである。新羅もそれに対抗している。

五年〔116〕秋八月、遣將侵加耶。王帥精兵一萬以繼之。加耶嬰城固守。會久雨乃還。

  加耶はなかなか手ごわいようである。

  十 奈解尼師今

◇六年〔201〕春二月、加耶國請和。

 加耶が和を請うている。この加耶は婆娑尼師今以後の加耶と同じ加耶のようである。

◇十四年〔209〕秋七月、浦上八國謀侵加羅加羅王子來請救。王命太子于老與伊伐飡利音、將六部兵往救之。擊殺八國將軍、奪所虜六千人還之。

  浦上八国が加羅を侵そうとした。加羅は新羅に救いを求め新羅は浦上八国を撃った。この記事は「列伝」第八の勿稽子にもある。しかしそこでは加羅ではなく「阿羅」になっている。

◇十七年〔212〕春三月、加耶送王子爲質。

 奈解尼師今6年の記事によって、それ以後の関係から加耶が人質を送るようになった、と考えれば理解できる。

 二十一 照知麻立干

◇三年〔481〕(中略)三月、高句麗與靺鞨入北邊、取狐鳴等七城、又進軍於彌秩夫。我軍與百濟加耶援兵、分道禦之。賊敗退、追擊破之泥河西、斬首千餘級。

  新羅・百済・加耶が高句麗に対抗しこれを破った。奈解尼師今17年〔212〕以来の記事で、270年近くのときが流れているので、この加耶が婆娑尼師今以後の加耶と同一のものかはわからないが、加耶に対する断り書きがないから、婆娑尼師今以後の加耶と同じ国を指している可能性は高い。

◇十八年〔496〕春二月、加耶國送白雉。(中略)秋七月、高句麗來攻牛山城。將軍實竹出擊泥河上破之。

 加耶国が白雉を送っているから、加耶国は一つの独立国である。婆娑尼師今以後の加耶と同じ加耶のようである。

 二十三 法興王

九年〔522〕春三月、加耶國王遣使請婚。王以伊飡比助夫之妹送之。

◇十一年〔524〕秋九月、王出巡南境拓地、加耶國王來會。

 加耶と新羅は親戚関係になり、加耶王が新羅に行くようになった。この加耶も前出と同じ加耶のようにみえる。

◇十九年〔532〕、金官國主金仇亥、與妃及三子、長曰奴宗、仲曰武德、季曰武力、以國帑寶物來降。王禮待之、授位上等、以本國爲食邑。子武力仕至角干。

  金官国はこの年国宝を携え新羅に降服した。新羅は礼をもって待遇した。加耶はこの時点ではまだ滅んでいない。またここまでずっと加耶と表記されてきたものが、ここだけ金官国と書かれるのは不自然である。この金官国は婆娑尼師今以後の加耶ではないとみてよいように思う。

 二十四 眞興王

十二年〔551〕(中略)三月、王巡守、次娘城、聞于勒及其弟子尼文知音樂、特喚之。王駐河臨宮、令奏其樂。二人各製新歌奏之。先是加耶國嘉悉王製十二弦琴、以象十二月之律、乃命于勒製其曲。及其國亂、操樂器投我。其樂名加耶琴。王命居柒夫等侵高句麗、乘勝取十郡。

  加耶国の嘉悉王はこれより前(551年3月以前)に十二弦琴を作らせ、于勒に作曲させた。しかし加耶国が衰え乱れたので、于勒は新羅に投じたのである。加耶国は衰え乱れたがこの時点でまだ滅んだとは書かれていないので、この加耶は532年に滅びた金官国ではないことは確かである。

十五年〔554〕秋七月、修築明活城。百濟王明襛與加良來攻管山城、軍主角于德、伊飡耽知等逆戰失利。新州軍主金武力以州兵赴之、及交戰。裨將三年山郡高干都刀急擊殺百濟王(聖王)。於是諸軍乘勝大克之。斬佐平四人士卒二萬九千六百人、匹馬無反者。

  百済王明襛(『日本書紀』では聖明王)が戦死した戦いである。百済は加良とともに戦っているが、この加良は加羅であり、「列伝」第四斯多含によれば、加羅は加耶であり、婆娑尼師今以後の加耶と同じ加耶であると思われる。

二十三年〔562〕秋七月、百濟侵掠邊戸。王出師拒之、殺獲一千餘人。九月、加耶叛。王命異斯夫討之、斯多含副之。斯多含領五千騎先馳、入栴檀門立白旗。城中恐懼、不知所爲。異斯夫引兵臨之、一時盡降。

  「雑志」第三地理一高霊郡によれば、この加耶は高霊の大加耶のことである。加耶は婆娑尼師今以後の加耶であり加良とみてよい。この加耶の滅亡を以って全加耶が滅びるのである。
  加耶は一時新羅と友好的になっていたが、15年〔554〕秋7月の記事にみるように、滅亡する少し前から、再び敵対的になっていたようである。

《高句麗本紀》

  二 琉璃明王

二十二年〔3〕冬十月、(中略)若不改過自新、臣恐政荒民散、先王之業墮地。王聞之震怒、罷陜父職、俾司官園。陜父憤、去之南韓

 『日本書紀』には南韓、下韓というのがあるが、この南韓は国でもなく国の一部でもなく、朝鮮半島南部地域全体を指しているようである。

《雑志 第三》

  地理一

◇古寧郡、本古寧加耶國。新羅取之、爲古冬攬郡【一云古陵縣】。景德王改名。今咸寧郡。領縣三。(以下略)

 咸寧郡には古寧加耶があった。

金海小京、古金官國【一云伽落國。一云伽耶】。自始祖首露王至十世仇亥【充】王、以梁中大通四年、新羅法興王十九年〔532〕、率百姓來降、以其地爲金官郡。文武王二十年、永隆元年、爲小京。景德王改名金海京。今金州。

 金官国は伽落国とも伽耶ともいったというが、脱解尼師今21年[77]の加耶が唯一金官国のことを指しているようである。

◇火王郡、本比自火郡【一云比斯伐】。眞興王十六年置州、名下州。二十六年、州廢。景德王改名今昌寧郡。領縣一。(以下略)

 『日本書紀』神功皇后49年〔369〕春3月条に、平定された七国の一つとして「比自火本」がある。しかし同一国であるかどうかは確認できない。

咸安郡、法興王〔514~540〕以大兵滅阿尸良國【一云阿那加耶】、以其地爲郡。景德王改名今因之。領縣二。(以下略)

  阿尸良国は咸安郡にあって阿那加耶だという。『三国遺事』《紀異第一》五伽耶に、阿羅【一作耶】伽耶【今咸安】とある。咸安にあったのは阿那加耶であり阿羅(耶)伽耶だった。つまり阿那=阿羅=阿耶である。

◇高靈郡、本大加耶國。自始祖伊飡阿豉王【一云内珍朱智】至道設智王、凡十六世、五百二十年。眞興大王〔540~576〕侵滅之、以其地爲大加耶郡。景德王改名。今因之。領縣二。(以下略)

 これは新羅が真興王23年〔562〕に加耶を滅ぼした事件で、「本紀」と「列伝」第四斯多含にも記録されている。この三つの史料を比較することで、婆娑尼師今以後の加耶は加羅であり、高霊にある大加耶のことであることがわかる。
  大加耶は『三国遺事』《紀異第一》五伽耶にも、大加耶【今高靈】とある。

《列傳》

  第一 金庾信 上

金庾信、王京人也。十二世首露、不知何許人也。以後漢建武十八年壬寅登龜峰、望駕洛九村、遂至其地開國、號曰加耶、後改爲金官國。其子孫相承、至九世孫仇亥、或云仇次休。於庾信爲曾祖。羅人自謂少昊金天氏之後、故姓金。庾信碑亦云、軒轅之裔、少昊之胤。則南加耶始祖首露與新羅同姓也。

  「雑志」第三地理一と同様、駕洛=加耶=金官である。最初は加耶といっていたが、後に金官国と改めたのだという。このため、加耶は高霊加耶のみを指すようになったものと思われる。金官国を南加耶と書いているが、加耶の中で南に位置していたからだろう。

 第四 斯多含

斯多含、系出眞骨、奈密王七世孫也。父仇梨知級飡。本高門華冑、(中略)眞興王〔540~576〕命伊飡異斯夫襲加羅【一作加耶】國。時斯多含年十五六、請從軍。(中略)及抵其國界、請於元帥、領麾下兵、先入旃檀梁【旃檀梁城門名。加羅語謂門爲梁云】。其國人不意兵猝至、驚動不能禦。大兵乘之、遂滅其國。洎師還、王策功賜加羅人口三百、受已皆放、無一留者。又賜田、固辭。王強之、請賜閼川不毛之地而已。(以下略)

  これは「新羅本紀」真興王23年記事により、562年に加耶が滅んだときのことを書いたものであることがわかる。さらに「雑志」第三地理一の高霊郡から、加羅(加耶)が高霊にあった大加耶のことであることがわかる。「新羅本紀」婆娑尼師今以後に現れる加耶はこの加羅のことであり大加耶のことだったのである。

  第六 強首

強首、中原京沙梁人也。父昔諦奈麻。其母夢見人有角而妊身、及生頭後有高骨。(中略)及太宗大王卽位〔654〕、唐使者至傳詔書。其中有難讀處。王召問之、在王前一見説釋無疑滯。王驚喜、恨相見之晩、問其姓名。對曰、臣本任那加良人、名字頭。王曰、見頭骨、可稱強首先生、使製廻謝唐皇帝詔書表。文工而意盡。王益奇之、不稱名、言任生而已。

 『三国史記』『三国遺事』全体で「任那」が現われるのはこの一箇所である。任那が加耶ならばなぜここも加耶と書かれなかったのか、ほかの加耶がなぜ任那と書かれなかったのか、疑問となる。
  また加羅は加耶であり、高霊の大加耶であるから、このときの任那を金官のことだとしても、二国は距離的に隔たっており、また高霊の大加耶近くに任那があったという記録はないから、大加耶である加羅には「任那加良」と呼ばれる状況はなかった(『日本書紀』の任那5 中国・朝鮮史料の「任那」「加羅」を参照)。真興王15年〔554〕の「加良」は大加耶の加羅であるが、「任那加良」の「加良」は大加耶の加羅ではない、と考えざるをえない。

  第八 勿稽子

勿稽子、奈解尼今〔196~230〕時人也。家世平微、爲人倜儻、少有壯志。時八浦上國同謀伐阿羅國。阿羅使來請救。尼師今使王孫[木奈]音率近郡及六部軍往救、遂敗八國兵。是役也。勿稽子有大功、以見憎於王孫、故不記其功。(中略)後三年、骨浦柒浦古史浦三國人來攻竭火城、王率兵出救、大敗三國之師。勿稽子斬獲數十餘級、及其論功、又無所得。(中略)前日浦上・竭火之役、可謂危且難矣。而不能以致命忘身聞於人。將何面目以出市朝乎。遂被髮携琴、入師彘山不反。

  奈解尼師今14年〔209〕では加羅となっている記事である。浦上八国はその名からして海に面した国々の集まりであり、阿羅は浦上八国の標的となったのだからそれらの国に近接し、また新羅に救援を頼むのだから新羅にも近い国だったと考えられる。
  加羅は「列伝」第四斯多含の記事によって加耶であったことがわかる。その加耶は高霊の大加耶のことである。そうすると加羅は内陸部の、しかも新羅の南に近接してあったことになる。しかし阿羅は海沿いの浦上八国に近接していた国だったのであり、両者の立地条件はまったく異なる。したがって、阿羅は加羅ではないとしなければならない。阿羅が加羅と呼ばれたという伝えがないことからすれば、奈解尼師今14年〔209〕の加羅は、阿羅が加羅と呼ばれることがあったからそう書かれたのではなく、阿羅の誤記だったと思われる。
  阿羅は「雑志」第三地理一の咸安郡、『三国遺事』《紀異第一》五伽耶の阿羅伽耶のこととして間違いないだろう。

B『三国遺事』

《王暦 第一》

  駕洛國

一作伽耶。今金州。

  首露王

壬寅〔四二〕三月卵生、是月即位、理一百五十八年。因金卵而生、故姓金氏。開皇暦載。

  第十仇衝王

鉗知子、母□女。辛丑立、理(四)十三年。中大通四年壬子、納土投羅。自首露王壬寅至壬子合四百九十年。

 駕洛国は伽耶ともいうとあるが、婆娑尼師今21年[77]の加耶がそれに該当するようである。それ以後の加耶と加羅は大加耶を指している。

《紀異 第一》

  五伽耶

【按駕洛記賛云、垂一紫纓、下六圓卵。五歸各邑、一在玆城、則一爲首露王、餘五各爲五伽耶之王、金官不入五數當矣。而本朝史略、並數金官濫記昌寧誤】。
阿羅【一作伽耶【今咸安】古寧伽耶【今咸寧】大加耶【今高靈】星山伽耶【今京山一云碧珍】小伽耶【今固城】。又本朝史略云、太天福五年庚子、改五伽耶名、一金官【爲近海府】二古寧【爲加利縣】三非火【今昌寧恐高靈之訛】、餘二阿羅星山【同前。星山或作碧珍伽耶】。

  天から六個の卵が降りてきて、一つはこの城にあって首露王となり、残りの五個は五伽耶の主となった。したがって金官が五伽耶に入らないのは当然であり、本朝史略に金官が数えられているのは間違いだと注記している。
  五伽耶は、咸安の阿羅(阿耶、阿那)伽耶、咸寧の古寧伽耶、高靈の大加耶、京山(碧珍)の星山伽耶、固城の小伽耶だという。
  間違いだとする本朝史略の五伽耶は、金官(近海府)、古寧(加利県)、非火(高霊)、阿羅、星山(碧珍)である。固城の小伽耶が抜け金官が入っている。六つの卵の中心人物は金官の首露王であり、五伽耶は金官以外の国でなければ理屈に合わない。注記が正しい。

  第四 脱解王

◇脱解齒叱今【一作吐解尼師今】。南解王時、(中略)駕洛國海中有船來泊。其國首露王、與臣民鼓譟譟而迎、將欲留之、而舡乃飛走、至於雞林東下西知村阿珍浦。(中略)供給七日、迺言曰。我本龍城國人【亦云正明國。或云[王完]夏國。[王完]夏或作花厦國。龍城在倭東北一千里】、我國嘗有二十八龍王。(以下略)

  『三国史記』「新羅本紀」脱解尼師今に、内容に多少の違いがあるが同様の記事が載っている。脱解は駕洛国(金官国)を通って雞林にたどり着いたのである。多婆那国はここでは龍城国になっている。

《紀異 第二》

 駕洛國記

◇【文廟朝、大康年間、金官知州事文人所撰也。今略而載之。】
(前略)屬後漢世祖、光武帝建武十八年壬寅〔42〕三月、禊浴之日、所居北龜旨【是峯巒之稱、若十朋伏之状、故云也】、有殊常聲氣呼喚。(中略)未幾仰而觀之、唯紫繩自天垂而着地。乃見紅幅裹金合子。開而之、有黄金卵六圓如日者。衆人悉皆驚喜、倶伸百拜。(中略)而六卵化爲童子。容貌甚偉。(中略)其於月望日即位也。始現故諱首露、或云首陵【首陵是崩後謚也】。國稱大駕洛、又稱伽耶國、即六伽耶之一也。餘五人各歸爲五伽耶主。(以下略)

  亀旨に天から黄金の卵六個が降りてきた。六個の卵はやがて男子になり、一人は首露といわれその国は大駕洛(伽耶国)と呼ばれた。残りの五人は五伽耶の主となった。
  これは「紀異第一」五伽耶の注記とほぼ同じ内容である。したがって六伽耶は、駕洛(金官)、阿羅(阿耶、阿那)伽耶、古寧伽耶、大加耶、星山伽耶、小伽耶であり、五伽耶はこれから駕洛(金官)を除いたものということになる。

《塔像 第四》

  金官城婆娑石塔

金官虎溪寺婆娑石塔者、昔此邑爲金官國時、世祖首露王之妃・許皇后名黄玉、以東漢建武二十四年甲申〔48〕、自西域阿踰陁國所載來。(中略)
逮第八代銍知王二年壬辰〔452〕、置寺於其地、又創王后寺【在阿道訥祗王之世。法興王之前】、至今奉福焉、兼以鎭南倭。具見本國本記。塔方四面五層、其彫鏤甚奇、石微赤斑色、其質良脆、非此方類也。本草所云點鷄冠血爲驗者是也。金官國亦名駕洛國、具載本記。
讃曰、載厭緋帆茜旆輕。乞靈遮莫海濤驚、豈徒到岸扶黄玉。千古南倭遏怒鯨。

  ここに南倭を鎮圧したとあるが、「南倭」に対し「北倭」があったのかどうか、「南倭」の意味がよくわからない。「鎭南倭」と金官国(駕洛国)のことは『本国本記』に詳しく載っているというが『本国本記』の存在が不明である。しかし「鎭南倭」と「千古南倭遏怒鯨」によって、金官が「南倭」の侵略を仏の力によって防ごうとしている様子が伺える。倭はしばしば金官を侵略していたのだろう。

 『三国史記』『三国遺事』の加羅

  以上が『三国史記』『三国遺事』に現われる加耶・加羅である。加羅は中国史料、朝鮮史料、『日本書紀』のどれにも現われる、非常に紛らわしい国名である。それらの加羅はすべて同一国なのだろうか、それとも別の国なのだろうか。これは非常に重要な問題である。ここではこのことについて考えてみたい。
  まず『三国史記』『三国遺事』の加羅からみていくことにする。
  加羅は「新羅本紀」奈解尼師今14年〔209〕(浦上八国が加羅を侵す記事)と「列伝」第四斯多含(加耶滅亡の記事)の二箇所に現われる。このなかで奈解尼師今14年の加羅は、「列伝」第八勿稽子によれば阿羅のことであることがわかる。
  「列伝」第四斯多含の記事によると加羅は加耶と呼ばれ、「雑志」第三地理一の高霊郡によれば、この加羅は大加耶すなわち高霊加耶であることがわかる。
  「新羅本紀」真興王15年〔554〕には「加良」、「列伝」第六強首にも「加良」が現われる。前者の加良は加耶である加羅のこととみてよい。後者の加良は「任那加良」の「加良」であり、前者の加良とは別のものと思われる(列伝」第六強首の説明を参照のこと)。
  このように、『三国史記』の二つの加羅、二つの加良のうち、阿羅である加羅と「任那加良」の加良を除く「加羅」「加良」は、加耶であり大加耶のことを指していることがわかる。

  『日本書紀』の加羅

  次に『日本書紀』の加羅であるが、欽明天皇23年[562]春正月条の注にあるように、任那は十の国で構成されており、その構成国として加羅はある。十の国の一つなのである。
  『三国史記』『三国遺事』の加羅は加耶であり六加耶の一つである。『三国史記』『三国遺事』をみると、六つの加耶をまとめて加耶と呼んだ記録は存在しない。史料では加耶と呼ばれたのは金官国と高霊加耶だけであり、婆娑尼師今以後は高霊加耶だけが加耶と呼ばれ、また加羅と呼ばれたのである。
  したがって、六加耶の中の加耶に対する、任那十国の一つである『日本書紀』の加羅、総称としての任那は、当然、この加耶(=加羅)ではありえないのである。

  中国史料の加羅

  中国史料の加羅には、『宋書』の「任那加羅」を基本としたものと『翰苑』『通典』によるものがある。このことについてはすでに書いたが、一つ気になっているところがあるので、ここではそのことについて述べてみたい。中国史料において、これまで紹介していない加羅に関する記事が実は一つある。それは次の

加羅國三韓種也。建元元年〔479〕、國王荷知使來獻。詔曰、量廣始登遠夷洽化、加羅王荷知、款關海外、奉贄東遐、可授輔國將軍本國王。(南齊書 列傳第三十九 東南夷 加羅)

である。これだけではこの加羅を特定することはできないので、次の記事と併せて考えることにする。

齊書云、加羅國三韓種也。今訊新羅耆老云、加羅任那昔爲新羅所滅、其故今並在國南七八百里。此新羅有辰韓卞辰廿四國、及任那加羅慕韓之地也。(『翰苑』所引 新羅 地惣任那)

  この「加羅國三韓種也」は、「齊書云」とあるように『南齊書』列傳を受けて記録したものである。(『日本書紀』の任那5 中国・朝鮮史料の「任那」「加羅」参照 2016.16.16)
  ここで注意しなければならないのは、「加羅國三韓種也」は『南齊書』によるものであり、「加羅任那昔爲新羅所滅、其故今並在國南七八百里」は古老の話だということである。私は「三韓種」である加羅と「並在國南七八百里」である加羅とは別の加羅だと思っている。そうでなければこの記事の中で加羅自身の存在が矛盾するからである。古老がいう加羅は任那と並んで書かれている加羅、つまり『宋書』、高句麗広開土王碑、『三国史記』「列伝」強首などに書かれている加羅であり、『日本書紀』の加羅とも異なるものである。
  『南齊書』「列伝」の加羅は、「任那加羅」の加羅でもなく、『日本書紀』の加羅でもなく、朝鮮史料の加羅すなわち加耶であり大加耶のことなのである。
  なお「任那加羅」の加羅は今後検討を要する。

  三つの加羅

  こうして中国史料、朝鮮史料、『日本書紀』をみると、加羅には三つの異なった状況・要素を持った加羅があることがわかる。従来これらの加羅を一つの加羅とみなしていた。しかし史料を忠実に分析していくと、これらの加羅はどうしても一つにはならないのである。三つの加羅はお互いに同じ要素をまったく持たないのである。それでもこれらの加羅を同一の国だというのであれば、これらの史料からその証拠を示す必要がある。「そうみるべきである」「そうに違いない」「昔からそう考えられていた」ではだめなのである。歴史には誰もが納得できる史料による証拠が必要なのである。

※大加耶(高霊加耶)が加羅(加良)と表現されているいるのは、『三国史記』では、奈解尼師今14年〔209〕の「安羅」の標記間違いと思われる「加羅」を除くと、眞興王15年〔554〕と同王時代の列伝斯多含の記事二か所、そして中国史書では『南齊書』建元元年〔479〕の記事の計三か所である。これらはいずれも、高句麗広開土王が任那加羅に倭を追ってきた400年よりも後の時代のことであり、高霊加耶が400年以前から加羅と呼ばれていたことを示す資料はなく、「加羅」という名前の存在から見ても、任那加羅の加羅を高霊加耶の加羅に当に当てるには根拠が弱いのである。2016.06.16

  『三国史記』『三国遺事』の南韓及びそれに関係する諸国

  最後に『三国史記』『三国遺事』の南韓及びそれに関係する諸国をまとめておく。

六加耶  金官(大駕洛 伽耶)《近海府》
     阿羅(阿耶、阿那)伽耶《咸安》
     古寧伽耶《咸寧》

     大加耶(加耶 加羅 加良)《高霊》
     星山伽耶《京山(碧珍)》
     小伽耶《固城》

浦上八国 骨浦
     柒浦
     古史浦
     その他不明

任那加良

多婆那国(龍城国)


※加耶を抽出するときに、『三国史記』「新羅本紀」脱解尼師今21年〔77〕条が漏れてしまっていたため、その原文と説明を追加した。また、この条の加耶が金官国に唯一該当するものであったため、説明の不合部分を訂正した。2007.08.17
※論考見直しによる削除・訂正・修正を行った。2016.06.16


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